WELLA
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1999年03月06日(土) 小さな奇跡

外出の時は帽子を愛用している。日本にいた頃と比べて屋外にいる時間が格段に多いので、おしゃれというよりは実用である。帽子を被っていればちょっとした雨ならそのまま歩ける。
冬の帽子は二種類持っていて、一つは茶色いヒツジの毛で編んだ分厚い帽子、もう一つは黒いベルベットの帽子である。寒さがきびしい時にはもっぱらヒツジの帽子、ちょっとしたお出かけや長いコートの時は黒い帽子、というように一応使い分けていたのだが、ある朝、黒い帽子を被ろうとして、どこにも見当たらないことに気づいた。ありそうなところからなさそうなところまで、家中隈なく探したが見つからない。

最後の記憶があるのはロンドンから元同僚達が遊びに来た日曜日で、家に帰るまで被っていたのは間違いない。もうあれから1週間経っている。その後は雪が降ったりして寒い日が続いたので、ずっとヒツジの帽子にお世話になっていた。火曜日にはすでにヒツジの帽子を被っていた記憶があるので、とすると、空白は月曜日である。さて、記憶の糸を手繰る、手繰る。
月曜日は、朝英会話のクラスがあって、大学会館でお昼を食べながら手話クラスの友人達とおさらいをして、そのまま他の訪問研究員の妻たちと落ち合って、ケンブリッジから車で1時間半ほどのところにある野鳥観測所に水鳥を観にいったのだった。英会話のクラスはたまたま大学会館であったので、可能性としては大学会館、乗り合わせていった車の中、野鳥観測所ということになる。これはそのままそうあって欲しい順でもある。

大学会館にのこのこと出かけていって、受付で帽子ありませんか〜と尋ねる。どこで落としたか聞かれるが、1階〜4階まで全ての階に立ち入っているので分からない。「ここには落とし物がすべて集まりますけど、先週の落とし物の中にはありませんねぇ」との答え。
次の可能性は車の中だが、運転してくれた女性の連絡先がわからない。翌日は訪問研究員のコーヒーモーニングだったので会えると思ったが、来ていない。旅行中だという。野鳥観測ツアーを企画した女性に、帽子をなくしてしまったのだというと、観測所に聞いてみたか、という。
うーん、それはちょっとぉ、などとぐずってみる。やはり電話は自信がない。

電話をかけるのは先延ばしにして、運転してくれた彼女の帰りを待つことにしたが、案外早く彼女に会うことができた。偶然街を歩いているのを見掛けたのである。ケンブリッジの街は小さいので、こういうことが往々にして多々ある。昨日帰って来たばかりだという彼女に、車の後部座席に帽子が落ちていなかったか尋ねたが、見てないという。家族の乗り降りの都度、後部座席は見ていたから間違いないそうだ。「お役に立てなくてごめんなさいね」という彼女にいやいやと手を振りつつ、心は別のことを考える。

ああ〜、電話しなくっちゃ〜


はぁ。どうにも億劫である。あきらめてしまおうか。でも帽子が呼んでいるような気もする。ふむ。
結局一日おいた翌日の夕方、一度言うことを練習してから電話をした。
「あの、先週の月曜日、そちらに帽子を忘れたと思うんですが、保管してありますか。」伝える情報に洩れはない。電話の向こうはやさしそうな女性の声である。
「どんな帽子でしょう?バッジか何かついてますか?」
さすが野鳥観測所だけに野外指向の帽子が多いらしい。バッジがついていて当たり前なのだろう。そこへベルベットの帽子は場違いである。しばらくお待ちくださいといって出てきた答えは、
「はい、保管してあります。いつ取りにいらっしゃいますか。」
あった!。思わず胸がトクンとなる。あったはいいがさて、どうやって手に入れたものか。車を持っていないので、取りに行くのは大変である。誰か車を持っている人に連れていってもらおうか…。
「えーと。送っていただけるなんてことはできるんでしょうか。」と聞いてみる。またもお待ちくださいといって出てきた答えは、
「はい、できますよ。では住所をどうぞ。」
Good Heavens!
すばらしい。浮き足立って送付先を伝える。
「それで、送料はどうやってお払いすればいいのでしょう。」というと
「それは結構です。ではお送りしますので。バ、バーイ」
なんと無償で送ってくれるというのだ。信じられない思いで電話を切った。夢のような話である。そんな親切にしてもらっていいのだろうか。ああ、それにしても電話してよかった。神様ありがとう。
あとは帽子が届くのを待つばかりである。通常郵便で送るだろうから、早くても週明けになるだろう。周囲の友人達に事の顛末を話す。皆口々に、すごい、すばらしい、と言ってくれる。英国人すら驚いている。

ところが週半ばになっても来る気配がない。とうとう10日も過ぎてしまった。やっぱり世の中そんなにうまくはかないのだろうか。電話したのは金曜日の終業時刻間際だったし、担当者は送るのを忘れてしまったのか。それとも私の発音がまずくて正しい住所が伝わらなかったのか。こんなことなら夫の職場に送ってもらうことにすればよかった。あっちは幹線の有名な通りだし、私たちが引っ越したあとも転送してくれる可能性がある。
宛先に該当がなければそろそろ戻っている頃だろう。乗りかかった舟なのでもう一度電話してみようと決心した。伝えるべき事柄はさらに複雑になっている。送付先も変えてもらわなくてはならない。落ち着いて文章を組み立てなければ。明日こそ電話しよう。

そして翌朝、朝食が済んだところで、ドアをノックする音。郵便の配達である。
ポストに入りきらない郵便物を持ってきたのだ。ということは帽子か。ドアを開けると、すでに顔なじみの配達夫が「小包ですよ」とにっこり差し出す。思わず「帽子!」と小さく叫ぶ。「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返す。配達夫も満足そうに笑顔で帰っていった。

嬉しい、本当に届いた。正直なところ、再度電話しなくて済んだのもよかった。こういう事ってあるんだぁ、としばし呆然。
夫に小切手を書いてもらって送ることにした。些少ながら野鳥保護運動に役立ててもらえば、と思う。


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