WELLA
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1997年12月10日(水) 第22話 展望台にて

ナガルコットの展望台は、山の頂上を少し削って平にならした、土むき出しの場所である。脇に高級そうな小さいホテルがある。今日は赤十字の会合が開かれているらしい。下を見下ろすと、 牧草地になっている。篭を背負った少女が少し離れたところからじっとこちらを見つめている。
正面にヒマラヤの山々である。すこし雲がかかっているが、日の当っているところは山肌が白く輝いている。左手はわれわれが通ってきた方向にあたり、陽に照らされて川が蛇行しているのがわかる。右手には盆地が広がっている。ひとしきり写真を撮る。カメラは標準レンズなのであまり凝った構図にはできないが、時々刻々と変わる景色に飽きることはない。月が上の方にぼんやりとみえる。地面から月までの距離が長い。幻想的な景色である。
エヴェレスト はどれか、と尋ねたらここから見えることは殆どないという。見えたとしても頂上のほんの一部分だけらしい。エヴェレストは頂上付近は常に強風が吹き荒れているので、雪が積もることはないのだという。ネパール人男性が被っている 帽子は柄があるのと黒一色のと両方あるが、本来は黒一色で、その形と色はエヴェレストに因んだ意匠なのだそうだ。まあ、そういわれてみればそんな気もする

小学校低学年ぐらいの兄弟が近付いてきた。
ヒマラヤのパノラマ写真のポスターを手にもって、いかがですか、と英語で聞いてくる。それぞれ違う種類のものを一枚ずつ持っている。写真それ自体はどこの土産物屋でも売っているありふれたものである。しかし、まわりに民家もないこの高台で、この少年たちはいったいどこからやってきたのだろうか。見ればこの高地にも関わらず半袖半ズボン、素足にボロ靴といういでたちである。私達の心を見透かしたようにガイドが「この子達はこれを売るために下から歩いてきたんですよ」口を添え、思わず買ってしまう。

私達が着いた頃は閑散としていたが、夕暮れ時が近付くにつれ三々五々と人が集まってくる。西洋人、日本人、新婚旅行の現地人もいる。
新婚の女性はみな着飾っている。額にはきらきらひかるティカをはり、足の爪もきれいに塗っている。これが婚礼の装いの名残なのだという。爪先が見てとれるということは、つまりこんなところで踵の高いサンダル履きである。う〜む。
着飾って、ハンディカムなどを回しているので、お金持ちなのかと思ったがそうでもないらしい。親兄弟や親戚が援助をして、盛大に送り出すのだという。日の入りまではまだ時間があるので、ガイドにそんなことまで質問してしまう。ついでに外見からの宗徒の見分け方を教えてもらった。ターバンを巻いているのがシーク教徒で、結局ヒンドゥー教と仏教は区別がつかないという。そもそも宗教による区別は意味がない、という話にいつの間にか発展していた。

ネパールで宗教上の争いがないことは、すでに パシュパティナートのガイド から聞いて学習していたが、このガイドもまた独自の論を持っているらしい。
ネパールはすべての宗教が共存している、というより神は唯一のものと考えられている。どの宗教でも神は一つであり、それがたまたま違う名前で呼ばれているに過ぎないのだという。


神はもともと一つだ。それがいろいろなルートを辿って伝わるから違ってくる。名前が変わったり、形式が変わったりして違う宗教になるに過ぎない。同じ神が場所や伝わり方によってアッラーの神になったり、ヒンドゥーの神になったりするだけで、なにも違うことはない。ヒンドゥー教もキリスト教もイスラム教も仏教も同じ仲間である。同じ神を信じているならば宗教間の争いは起きない。宗教の違いによる国と国との戦争や、人々の衝突はあり得ないのである。えっへん。


なるほどねぇ。ネパールの人々のこの考え方は実に合理的で大人である。自分たちの信仰を大事にし、教えに従って正しい生活を送り、他の宗教を決して侵さない。この国の人々の穏やかな達観したような様子はこういうところからもきているのかも知れない。
360度見渡せる幻想的な風景の中で、宗教のありかたについて思わず考えてしまったのであった。


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