カラオケ、ボーリング、TVゲーム、四六時中友達とのお気に入りの芸能人の話。
これらは楽しいですよね。結構ね。僕も昔とてもTVゲームをやったしね。 でもこれらが楽しみの本質だろうか?やはり違う気がする。いや違う。
楽しいと思ってこのようなものばかりで楽しみを得ていたら、 とても空虚感・虚無感が募らないだろうか? これらの楽しみは得やすく、楽しみとしても薄く軽い楽しみである。
本来僕らはそんな薄く軽い楽しみを求めている訳ではない。 僕らはもっともっと厚く重い楽しみを求めているはずである。 それは何か?それはなんであろうか? 僕はそれは「成長」だと思う。 僕が一番楽しいと思えるときは、「成長を実感できる時」であるからだ。
しかし、「その成長を実感できる時」とはどんな時だろうか? それは、今まで立ち向かえなかったものに、立ち向かえるようになった時であり、 そのことはまさに「善」を意味している。
自分がその時に「善」だと認識していることをできるのが、一番楽しいのだと思う。 そうすることで、自分は成長していると実感できるからでもある。 でも、その「善」を繰り返していけば、それは慣れて、「当たり前」になる。 そうすればまた考えて、別の「善」を求めていかねばならない。 それまでの「善」は「当たり前」になり、自分とっての「善」ではなくなるからだ。
また、労力やお金や時間に縛られて、いやいやながらしているあたかも「善」である事は、 それは本当の「善」ではない。 そのような価値観を越えて、自分の心からできる「善」が本当の「善」である。 いやいやながらしている時点で、それは甘えがあり、力の余地があり、「悪」なのである。
当然、自分の甘えは「悪」であり、それに立ち向かうのは「善」である。 ここでいう「善・悪」は絶対的なものではない。 そのときの時代・状況・自分自身で常に変化する。 常に変化する「善」というもの、それを実行できることが一番楽しいことであると思う。
単純に考えると、甘えでもなく、強制でもなく、色んなことを考えて、自分が、 「これをすべきだ」と心底思えたことを、その時にやれることが「善」である。 「善」は常に変化するので、常に自問自答し、それを追い求めねばならない。 そうしないと人間的に成長できない。
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