池田晶子の書く文に僕の弟である文哉がはまっているらしい。 それを僕に勧めるべく以下の文をメールで送ってきた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――― 自分の将来にとって有益であること (著:柴山文哉 / 編:柴山健一)
将に来るべき未来、僕らは何をしているのだろう。生きている。 そうそれは確実だ。死んでないなら。 では今、またその時に「自分は何故生きているのか?」と自問するとしよう。 自己肯定力の弱い凡人よ。ある人は、わからない。またある人は、 生きていること自体が目標だと答える人もいるだろう。
でも、良く考えて見るとどちらとも似たり依ったりである。 だから、理由より何より、「生きているとは、どういうことか?」が先である。 それなしに理由もくそもないのである。しかしながら、上の質問は屁みたいなもんである。 なぜなら僕らは、その質問の答えすら知らずに、わからずに「生きている」のであり、 その「生きている」のは努力もいらず、無償であり、 その質問の答えを知らなくとも「生きている」は出来るからである。
けれども、その質問の答えすら知らずに本当に「生きている」は出来ているのであろうか? または、それを知っている人と知らない人ではどう違うのだろうか? 区別できないなら同じとしかいいようがない。
だが、彼女は冒頭の問題(「自分は何故生きているのか?」)に、正当に答えることが出来る。
「生きている」ことは価値があるだろうか?
冒頭の問題でない問題を彼女はもつ。 価値とは何か?生きるとは価値ではない。「如何に生きるか?」が価値である。 そうして初めて価値が生じる。僕らは「如何にも生きれない」、単に生きている。 生きるとは何かを、知らないから。
池田は40年間考え続けている。「『善く生きる』とは何か?」「善とは?」 全人類の共通の問題に挑戦しよう。
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