いつもの日記

2002年01月24日(木) 弟からのメール

池田晶子の書く文に僕の弟である文哉がはまっているらしい。
それを僕に勧めるべく以下の文をメールで送ってきた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
   自分の将来にとって有益であること (著:柴山文哉 / 編:柴山健一)

将に来るべき未来、僕らは何をしているのだろう。生きている。
そうそれは確実だ。死んでないなら。
では今、またその時に「自分は何故生きているのか?」と自問するとしよう。
自己肯定力の弱い凡人よ。ある人は、わからない。またある人は、
生きていること自体が目標だと答える人もいるだろう。

でも、良く考えて見るとどちらとも似たり依ったりである。
だから、理由より何より、「生きているとは、どういうことか?」が先である。
それなしに理由もくそもないのである。しかしながら、上の質問は屁みたいなもんである。
なぜなら僕らは、その質問の答えすら知らずに、わからずに「生きている」のであり、
その「生きている」のは努力もいらず、無償であり、
その質問の答えを知らなくとも「生きている」は出来るからである。

けれども、その質問の答えすら知らずに本当に「生きている」は出来ているのであろうか?
または、それを知っている人と知らない人ではどう違うのだろうか?
区別できないなら同じとしかいいようがない。

だが、彼女は冒頭の問題(「自分は何故生きているのか?」)に、正当に答えることが出来る。

「生きている」ことは価値があるだろうか?

冒頭の問題でない問題を彼女はもつ。
価値とは何か?生きるとは価値ではない。「如何に生きるか?」が価値である。
そうして初めて価値が生じる。僕らは「如何にも生きれない」、単に生きている。
生きるとは何かを、知らないから。

池田は40年間考え続けている。「『善く生きる』とは何か?」「善とは?」
全人類の共通の問題に挑戦しよう。


 < 過去  INDEX  未来 >


Kind of Sunday [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加