昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2007年04月16日(月) ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ

日曜日に携帯電話で、葉桜の写真を6枚くらい撮った。小学校の前庭や、お寺の裏や、酒蔵の横手や、スーパーの駐輪場などで。どの街にも、あらゆる場所に桜がある。花はほとんど地面に散って、木は半分くらい葉に覆われていて、盛りを過ぎたものには、もう誰も目をとめない。まだ桜がたくさん残っている木もあったが、画面上で四角に切り取られてみると、新たに伸びてきた葉のほうがずっと生き生きしていて、花の季節は終わったのだと思った。
撮った写真は、ざっと見直して、すぐに消去してしまった。なんだか、馬鹿馬鹿しくなったから。

物語はもう終わったのだろうか?

月曜日は朝から曇り空だった。傘を持って出かける。ダンヒルの前で、ジュード・ロウの姿を拝んで、ああなんてかっこいいんだろう、と思うのが、このところの朝の暗い歓びだ。カーディガン姿の男は嫌いだが、ジュード・ロウなら許せる。

昼休みに、ドトールで『生き延びるためのラカン』の続きを読む。時間になったので外に出たら、雨が落ちてきた。手に持っていた傘をさす。雨が降ると、道行く人は傘を広げる。傘を持たない人は軒先へ逃げる。雨が止むと、傘を閉じる。歩みがゆっくりになる。なんでそんなふうに、そんなふうに当たり前に、あの人はわたしを思い出さないんだろう。

物語の第一部は、確かに終わったのかもしれない。

残業をして、食料品の買い物をして帰る。夕食には、オーブンでチキンを焼いて、トマトのスープと、エンドウと小松菜のサラダを作った。
『ラカン』を読み終えたので、数日にわたって家で読んでいた前田和泉『マリーナ・ツヴェターエワ』を、夜中に読了した。ツヴェターエワは、なぜ死ななければならなかったのか。死はずっとずっといつの時も、わたしたちに付き纏っているのだと、伝記を読むといつも思う。悲しみは自分の中で、飼い馴らされていくんだろうか。

寝たのが何時だったか、もう忘れた。何もかも全部忘れてしまいたい。
今は、第二部なんだろうか。第二部はいつ終わるんだろう?

遠くなっていく。最初から遠かったんだし、そんなの今さらどうこう思っても仕方がないけど、今までにないくらいの、大きい隔たりを感じる。初めてそのことを聞いた時は、へえ、と思っただけだった。賛成も反対もしなかったし、そもそもそれが具体的にどういうことなのかわからなかった。あなたがわたしにそれを話してくれたことが、ただ嬉しいだけだった。
あなたが「最高だ」と表現するなら、最高なのだと思う。たとえそれがわたしにとって、ため息の原因になったとしても。わたしは寂しい人間だ。

4月はもう少し、日記を書こうと思います。思ってるだけかもしれんけど。


フクダ |MAIL

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