▼ってなわけで、脳内旅行はあくまで脳内で終わり。昔はもうちょっと行動力があって「行くど!」と思ったらちゃんと行っていた。それが今じゃ「行こうかなぁ」で終わってしまう。気力の低下って行動力やら決断力やらにもろに響く。もともと持続性の行動力は持ってないので、その反発というか反動やらで瞬時の行動力だけはあったつもり。今やそれも失われつつある。思い立ったら即行動。思い立ち自体があやふやな思い立ちだから性質が悪い。 ▼それでも今日こそは家に帰って掃除をしようと思い立つわけで。この思い立ちは強制力を帯びているんで大丈夫かと。夏休み最終日の宿題に似てる。行動力とか持続力とか考えると、小学生のときに親が買ってきた石の置物を思い出す。そこには彫り文字で「根性」と書かれていた。根性とか忍耐とか、そういった類のものとは、とことん愛称が悪かった。大抵のものは大抵の所が出来てしまうので、そこで良しとしてしまって長くは続かない。たんに人としての欠落部分かなぁ、とも考えるけど、物事に固執するほど愛着をもてないと言うのが自分の感想。「石に噛り付いてでも」という事を考えるより先に「噛り付くほどのものでない」という結論に達する。いま思えば、その決断の大半が諦めにも似た逃げだったのかもしれない。 ▼さすがにこの齢まで来ると「石に噛り付く」に値するものもちらほらあるわけで。譲れないものと言ってもいいかも。んで、大なり小なりもひっくるめて考えると、普通の人は譲れないものを結構持っているのではないかと思う。そんな事を考えながら、自分にはどれくらいあるのかなぁと思い巡らす。やっぱり少ない気がする。ストライクゾーンのど真ん中だけが自分にとっての譲れない部分で、内角低めや外角いっぱいいっぱいとかは、別に気にしない。とりあえずファールで粘って様子を見る程度。別に試合を投げてるわけでも無く、プレイスタイルがそうなんだけど、人から見ればそれは「馬鹿にしている」と見えるわけで。自分としてはど真ん中に球が来るように色々やっているのだけれど、ストライクゾーンに入った球に対してしゃにむに向かって行かない、というのがやはり「馬鹿にしている」だそうだ。かと言って、ストライクゾーンの球をしゃにむに振ったように演出して「馬鹿にはしてません。当たらないだけです」と演出するのも違うような気がする。まぁ、ストライクゾーンの球を空振りする可愛らしさを持ててれば、またちょっと違った人生を送ってたかもしれない。天然での空振りでも、演出での空振りであったとしても。ただ、それが出来ない。そしてそこが、相手投手からすれば「勝った」と実感できない行為なので、腹が立つ。でも実際、勝負としては勝ってるんだからいいじゃん。実感なんてものを相手に要求するのは、結果ではなく経過を重要視して、それによって自己を維持させているに過ぎないと思う。「涙の一つ二つを見せた方が可愛げがある」なんてものを付加価値として求める人は、「泣いてもらうのではなく、泣かせてみせる」ぐらいの意気込みがあって欲しいと思う。小さい頃から「ウルトラマンは最初からスペシウム光線を打てばいいんだ。それで負ける怪獣が悪い」という考え。ほんっと、小さい頃から可愛げないなw ▼合理主義も行くところまで行くと洒落にならないから気をつけねば。憧れるのは、現実の世界で飄々と戦場を行きぬく人。僕なんかは前述の通り、出陣するかしないかのどちらかなんだけど、いつ如何なる戦場にも赴いて、生きて帰ってくる人。戦場行くけど後ろのほうで丸くなってる人じゃダメ。ただ生きて帰ってくるだけじゃなくて、ある程度きっちりした戦果を必ず上げてくる人。そんなゆとりと実力を兼ね備えた人間になりたいと思う。 ▼さて、思うだけで努力しているかはかなり微妙なわけだけど、人生長いんでゆっくり行きます。それに、今この時の考え方やものの捕らえ方というのにも固執していないので、明日はどうなるかわかりません。心に哲学をもつ重要性と、間違っていると感じた場合にその哲学を否定できる重要性、というスタンスが好き。そこがど真ん中に当たるのかも知れない。 ▼なんで朝っぱらからこんなこと書いているのか。久しぶりに浴びた朝の光に脳みそ溶けたのかしらん。つか、本日日曜日の予定は以下の通り。家に帰る。ちょっと掃除。必要な書類の作成。どっかでサッカーライフっていうゲームを手に入れる。やる。やり倒す。やり倒してやり倒して、疲れたら寝る。夜、誰か誘って晩飯&軽く飲みに行く。寝る。翌日月曜の出社。とりあえずそんなとこ。
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