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■ 2008年10月03日(金) 東京の片隅で <画像あり>
高校時代の友人と、1年とちょっとぶりに会いました。吉祥寺で待ち合わせてランチを食べ、そこからバスに乗って彼女の家へ。猫を飼い始めたというので猫好きとしては是非猫に遊んで頂きたかったワケですが、事前情報通り大層臆病な子で、見知らぬ私を見ると固まり、ちょっと撫でると一目散にカーテンの裏とか布団の中なんかに逃げちゃいます。えーん、別にいじめたりしないのにー。 立派な体格の雌猫(名前はももちゃん)でしたが、姿形も鳴き声も可愛かったです。あとは懐いてくれれば文句ナシ。でもこのハードルは高そうだ。
しばらく彼女の家で猫と対峙したり(まさに見つめ合う状態)、下らん話をしたりして、夕方には新宿の隅で彼女はビール、私は梅酒を飲みつつ、下らない話も下らなくない話もいっぱいしました。言葉の解釈の違いとか、置かれた環境の違いとか、様々な違いによって生じる小さな「話の誤差」がとてももどかしかったです。大きい誤差は「そうじゃない」「ちょっと違う」って修正できたりもするけど、小さいとその誤差自体をうまく言葉で説明できなくて難しい。若干感情論とか感覚的誤差とかそういう部分もあるし、自分の語彙力とか表現力のなさにも問題があるんだろうな。困ったモンだ。
でもそうやって真摯に向かい合って真面目に話が出来る相手がいるっていうのは、普段比較的社会というものから隔絶して生きている(らしい)専業主婦にとっては、有り難いことです。所詮ヒッキー体質なんで、社会から隔絶しててもネットとケータイが繋がってりゃいいやタイプの人間ですが、それでもこうして時々生身の人間相手に語り合うのは、きっと脳のためにもいいと思う。そんなこと考えて話してるワケじゃないですが(話してる時はその中味と相手に集中ですよ)。
お互い長い付き合いだから、多少の誤差や受け止め方の違いで相手を傷付けたり傷付いたりすることがあっても、ある程度相手の思考パターンとか性格とか判ってるし、きちんと本音で向き合うことが出来て、何よりお互いが「友達でいたい」と思ってさえいれば、友人関係を継続することは出来る、と思ってます。 昔から彼女とは色んなことで「あーでもないこーでもない」と言い合ってきた仲なので、人生の半分以上友達やってても「やっぱ変わんねーなー」で落ち着いちゃうワケですよ。そりゃあ15年とか16年とかいう月日が流れれば、全く変わってないなんてことは有り得ないし(お互い年は取りましたよそりゃ)、お互いの立ち位置だって全然違ってる。でも芯というか根っこというか、そういう部分は、15、6の頃から変わってないんだよね。まあ多少丸くなったり大人として諦める術を身に着けたりはあったりするかもしれないけど、本気で向き合える相手と判っているから、遠慮がない分、昔の自分に近付いた思考回路になる気がする。
私は彼女と友達で良かったと思ってるし、今後もこんな感じで時々会っては酒飲みつつ色々(馬鹿話含め)語り合ったりしたいと思っているのです。だからまぁ、私の(多分昔から変わらない)毒舌に過剰反応するな(笑)。こっちは長年(てほど長くもないけど)の研究生活の所為もあって「私はこう思う。何故ならこれはこうであって(一部略)だからこう思うに至る」的発言順序の習性が出来てるから、取り敢えず「結論→理由→再度結論」の「理由」まではまどろっこしいかもしれないけど聞いてくれ。
そんな感じで熱く語り合い、都庁の広場でクールダウン。お互い東京生まれの東京育ち。何だかんだでやっぱり高層ビルとかネオンとか密集した住宅地に安堵感を覚える私です。
東京から呉へ、そして札幌へと動いても、最終的に「私の帰る場所」はやっぱり東京以外に有り得ない、と確信できます。この街は私が生まれ育った街。即ち故郷です。どれだけ離れていても、心の何処かはそのまま東京に置いてあるような気がします。
ちなみに今、ケータイに付けてるストラップのひとつは、8月に上った東京タワーの売店で買った東京タワーのストラップです。東京タワー、私の中では故郷の大事なシンボルですから。 東京も東京タワーも、東京とその近郊にいる友人達も、私にとって失いたくない、かけがえのない大切なものなのです。
東京には家族や友人、そして記憶や思い出とか、大切なものがたくさんあります。だから私にとって、東京と言うのはやっぱり特別な場所で、そして「帰る場所」なのです。
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・過去の「今日」。
2002年10月03日(木) 物語るといふこと。 2001年10月03日(水) ひとり防災訓練
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