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■ 2004年04月22日(木) 「空海と高野山」展にて思ふ <画像あり>
東京は夏日。秩父じゃ33℃まで気温が上がったという今日、人妻友達(笑)と上野の東京博物館(東博)まで「空海と高野山」展を観に行きました。2時に上野駅の公園口で待ち合わせ、まっすぐ東博へ。駅でも修学旅行生の一行を見たけれど、公園内の噴水のある池の前では、山形から来た修学旅行生の群団が学校名を書いた横断幕を手に、指揮者付きで大合唱を繰り広げてました。あんなの初めて見たよ。
今日は思いっきり平日。こういった展示はお年寄りで混雑するということは経験的に知っていたけれど、何故か今日は子供がやたら多い(−− 何で? 学校はどうしたの?
高野山へは一度行ったことがあります。初秋の高野山。紅葉が綺麗で、泊まった宿坊の精進料理も美味しかった。一山のほぼ全てが宗教施設といっても過言ではない街。空気が心地よく張りつめていて、「日本人の信仰心」ってこういうものかも、と思いました。どういう? って訊かれても困っちゃうんですが、自分の身体感覚として実感出来る「何か」があの山にはある気がします。それは例えば鐘の音だったり、塗香(ずこう)の香りだったり、線香や蝋燭の煙だったりが五感を刺激することによって生じるのかもしれないけれど、何が一番大きかったって、澄み切った空気だったと私は思います。あの空気を体中で感じ、自分の肺に取り込んだ時、日本人の宗教観の原点(のひとつ)である(と私は思う)「森(山)の偉大さ」を感じずにはいられないんです。 判りにくい話ですみません。ちなみに私は無宗教ですが、無神論者ではありません。神様はいると思います。あちこちにたくさん。
まあとにかくですね、そういった「信仰」が細かい細工が施された仏像や、どうしたらデッサンが狂わず描けるのか判らないくらい大きい仏画を生み出してきた訳です。西洋の教会の壁画なんかにしてもそうなんですが、宗教美術というのは、それを生み出した人々の「信仰心」、またそれを眺めてきた人々の「信仰心」が垣間見えるから、私は好きです。どうしてその作品が生み出されたのか、なぜその作品はそういう姿なのか。それが作家個人の意志ではなく、「信仰」という多勢の意志に基づくところ。そういうところに惹かれます。
私自身に関しては、協調性が恐ろしく低く、団体行動なんか大の苦手なんですが、何でか「個人の意識」より「集団の意識」の方に興味を惹かれるんですよね。だから専攻した学問も民俗学なんでしょうか。あれも個人ではなく集団を対象とした学問ですから。
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・過去の「今日」。
2003年04月22日(火) 苺と乙女
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