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■ 2002年05月13日(月) 家族の肖像〜うちのじいちゃん(母方)編〜
うちの母方の祖父の話です。 じいちゃんは明治末頃、東京の大きな商家の六男としてこの世に生を受けました。チャキチャキの江戸っ子です。六男だけに付いた名前は「六郎」。ちなみに下の弟は、流石のひいじいちゃんも「七郎」じゃなんだと思ったのか、名付けて「七郎兵衛」。長くすりゃいいってモンじゃないぞ、ひいじいちゃん。 まあそれはおいといて。じいちゃん家がどれくらい大きな商家だったって、聞いた話じゃ何でも、谷中霊園(23区内にある大きな古い霊園。青山墓地下町版とでも思って下さい)にじいちゃんの祖父の銅像が建っていて、今も店があった辺りの商店街に店の名を残すとか。・・・ええ、まあ要するに今、店はありません。 で、そんな大きな商家だったので、じいちゃんの兄弟は、長男から三男(ここまでは立派な名前も付けてたらしい)までは歩いていける距離の小学校に人力車で通っていたという成金っぷり。しかし、六男に「六郎」、七男に「七郎兵衛」などと名前を付けちまうひいじいちゃん。勿論、道楽者でした。呑む打つ買うで財を潰し、人力車で小学校に通学していた三男は寺へ奉公へ出され、七男は養子へ出される始末。ひいひいじいちゃんの銅像も谷中霊園で泣いてるよ、全く・・・。 で、うちのじいちゃんですが、その後、ヤクザの一人娘と駆け落ちをしたそうです。時代を考えてみて下さい。明治末生まれの祖父が駆け落ち。大正末〜昭和初期のことでしょう。東京は震災の頃。さぞかし混乱していたことと思います。そんな頃のヤクザ。今の暴力団とは違います。義理です。任侠です。そんなところの大事なおぜうさんと駆け落ちしちまったじいちゃんは、挙げ句、伊豆は下田で心中を図りました。そして・・・おぜうさんだけ死なせてしまいました・・・。 ハイ。もう一度良く考えてみましょう。時代は大正末〜昭和初期。ヤクザといえば義理と任侠。一人娘が駆け落ち・心中の上、あろう事か男だけが生き残る・・・・・・。 当然、じいちゃんは二度と多摩川を越えることはありませんでした。じいちゃんはその後、下田でばあちゃんと出会い、何故かコックさんなんぞしながら三人の子供を作るも妻を早くに失い、自らもその5年後くらいに亡くなったそうです。遺骨も東京に戻ることなく、ばあちゃんと二人、下田のお墓に眠っております。 ・・・気になるのは、おぜうさんの遺骨の行方です・・・(引き取りに来られたんでしょうかねェ)。
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・過去の「今日」。
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