無責任賛歌
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2003年08月26日(火) |
サヨナラの季節/『のだめカンタービレ』3〜6巻(二ノ宮知子)/『ホントの話』(呉智英) |
『ニュースステーション』の久米宏キャスターが、来年3月いっぱいで番組を降板することが正式に発表された。久米さん本人は「疲れというより衰え」と降板理由を語っていたが、若い若いと思ってた久米さんも来年60歳なのである。下手に『ぴったしカンカン』のころから知ってると時間の感覚がなくなっちまうな。 最初に久米さんがNステのキャスターになった時には「似あわねえなあ」とか感じたものだったけれども、いつの間にか一番キャスターらしいキャスターになっちゃってたのはいつの間にかこちらのほうが意識改革されたせいだろうか。もの静かで重々しく、といった従来のニュースキャスターのイメージを2ステア分くらい「軽く」しちゃった印象なのだけれども、今や久米さん程度の「重さ」がスタンダードになってしまっているのである。筑紫哲也じゃ華が無くって仕方がない。 久米さんの後任が古館伊知郎、というのもその「軽さ」路線の継承だろう。プロレスの実況中継をしてたころの古館さんがNステのキャスターになることなど誰が想像していたろう。これはまたニュースが結局はワイドショー的興味本意なものとしてしか世間に受け取られなくなってしまっている現実を象徴しているのだけれど、あまりテレビに踊らされ続けのもなあ、とちょっと眉に唾つけて見る習慣も忘れてちゃいかんよねえとも思うのである。
ここんとこ糖尿病が悪化して、手足が痺れて来たことばかり日記に書いてたものだから、各方面に心配ばかりかけてしまっている。 ヨナさんには、ありがたくも掲示板で「ヒジキにキンピラ、わかめ、山芋なんかが糖分吸収を防ぎますよ」などとご教示頂いたので、早速仕事の帰りにコンビにに立ち寄ってみたのだが、セブンイレブンもローソンも、そういう惣菜をほとんど置いていない。あるのは白菜やキュウリの漬物とかキムチばかりである。トロロうどん、トロロそばはカップ麺で売っていたのでそれだけ買ったが、あとは休日にスーパーにでも行かねばムリのようだ。 あまり自分の病状を事細かに書いちゃうのも同情を誘おうとしているようで心苦しいのであるが、日記書くときに「自分に都合の悪いことを隠すことはしないようにしよう」と決めて書き始めたので、やっぱり書くしかないのである。極端な話、私が浮気したり犯罪犯したりしても、それはそれでちゃんと事実は書こうとまで考えているのであるが、こればっかりはそういう事態に陥ってみないとホントに書くかどうかわからんな(^o^)。
マンガ、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』3〜6巻(講談社/講談社コミックスキス・410円)。 よしひと嬢オススメのクラシックラブコメだが、しげも「6巻までしか出てないの?」と結構ハマっちゃった様子。実際、読んでて気分がこんなにハレヤカになるマンガも近頃滅多にない。月9の連ドラにでもしたくなるくらいドラマチックでメリハリの利いたお間抜けマンガなのである(いや、誉めてんのよ、これ)。どこがどう魅力なのかってのはぜひ現物に当たって頂きたいが、お馬鹿で不器用なキャラクターたちと、意外にシリアスな(失礼)展開との緩急の妙が読ませてくれるのである。 音楽の才能はとびきりなのにそれをうまく行かせずに鬱屈もしてて、融通の利かないマジメ一徹だった千秋が、Sオケの破天荒な演奏に音楽の楽しさを思い出したり(バイオリンを縦に振り上げて一斉に弾くなんてパフォーマンスもどこかの楽団でやってそうだなあ。前見た九響のコンサートじゃコントラバス回してたし)、のだめにセクハラしまくるただのスケベ親父の呑んだくれにしか見えなかった世界的な指揮者、シュトレーゼマンが千秋をちゃんと自分の弟子として認めていたり。 もちろんヒロイン「のだめ」ちゃんの不思議少女(と言ってももうハタチになっちゃったんだろうけど)ぶりっつーか大迷惑ぶりが暴走しまくってるからこそここまでドラマが盛りあがってることも忘れちゃいけない。Sオケの再公演じゃ、マングースの着ぐるみ着てピアニカで「ラプソディー・イン・ブルー」吹いてるんである。それだけふざけていながら(と言っても本人は天然なので大マジメ)、千秋のピアノ演奏を聞いて無性に「ピアノ弾きたい!」と音楽に目覚めるあたりの展開も感動ものである。でもいくら興奮したからって、妙齢の女性が「ムキャー」なんて叫ぶのはどういうものかな(^_^;)。もちろんのだめのことだから千秋に曲を合わせてもらったらすぐ安心して食欲遊び欲に戻っちゃうんだが(^o^)。 でも一つだけ難を言えば、クラシックにゃ詳しくないから、いろんな曲が演奏されてもそれがどんなんだかシロウトにはピンと来ないことである。作者の二ノ宮さんはラフマニノフを2ヶ月も聞きながらマンガ描いてたそうだけど、ラフマニノフったって、私が思い浮かべられるのは、マリリン・モンローの『七年目の浮気』くらいのものなのである。私の知識ってホントに映画とアニメからしか得てないな(^_^;)。
呉智英『ホントの話 誰も知らなかった現代社会学<全十八講>』(小学館文庫・560円)。 ニッポンは自由の国なのかどうかということをマジメに考え出すとなかなか微妙な問題がある。まあアレやコレやとタブーがあることは事実なんだけれども、それを全く活字にできないかというとそうでもなくて、かと言って圧力が公的私的にないかというとそうでもなくて、要するにどっちなんだと頭を抱えてしまうことがいっぱいあって、なにかモノを言おうと思えばひと苦労もふた苦労もさせられてしまう。 「人権と民主主義について」「ナショナリズムについて」「民族差別について」「現代人の愛について」「教育とマスコミについて」。 呉さんが立てた項目の内容は、どれも日常的に会話され論議されていて、そこにはタブーなど存在しないように見える。 けれど、例えば第十一講での呉さんと趙宏偉氏との特別対談『「支那」か「中国」か』一つを取ってみても、こういうお互いの意見の論拠を示してキチンと論議した例がどれほどあったかと言えば、甚だ心許ない状況だったのではないか。 「日本でももっと議論がなされるようになればいい」とは、呉さんならずとも、折りに触れかなり多数の人々が主張している意見ではあるが、さて、現実にはせっかく行われた論議とやらもたいていはお互いの主張をぶつけ合うだけでモノワカレに終わってしまっている。『朝生』が一度でも結論とやらを出せたことがあったか(^_^;)。 「和をもって尊しとなす」の精神は現代日本にもしっかりと生き残っているが、つまりは「論理」などでは人心をまとめることなどできない、呉さんはいやがるかもしれないが、意見の対立があれば「理屈抜きで」一方が一方に合わせるという形でその場を収めてきたのが日本人の取って来た選択であった、ということなのである。 もちろんそれで全てが解決するわけではない。いつまでも飽きもせず片方が片方に合わせることを続けていれば、当然ストレスは溜まるし、そこに「ほころび」も生まれてくる。そのほころびが修復できないところまで来れば、お互いの感情は爆発してしまう。まあ個人同士のトラブルならばモノワカレになったところで大勢に影響はないが、これが国家単位の問題になったり、「世論」を巻きこむような事態になれば、コトは単純に傍観ばかりもしていられなくなる。気がつかないうちにとんでもない「流れ」の中に巻き込まれて逃げ出せなくなってしまうような状況も起きてこよう。日本人は自分たちの方がよりストレスを感じているように思っているかもしれないが、それは中国人の方だって変わりはない。 本来、そうならないために「論議」をしなければならないのだが、如何せん、日本人は論議を放棄してきた歴史が長過ぎた。おかげで「何のための論議か」ということを確認しつつ話を進めることすらできない。呉さんも苦労する道を歩いているなあ、という印象である。 私が、呉さんの意見に賛同を示しつつも、中国を「支那」と呼ばずに「中国」と呼称するのも、現代の中国の要求する正式な国名が「中華人民共和国」であることが紛れもない事実であり、それをあえて「支那」と呼ぶことで両国の関係をあえて破壊しようとする姿勢を取る意図を感じないからである。繰り返すが、これは「個人レベル」の話ではないのだ(これが「わが国内での」差別語の問題になるとまた話が違ってくる。かつて差別語でも何でもなかったものが、いつの間にか「ナニモノかによって」指定されていったことについては、「断りもなくテメエの勝手なリクツを押しつけてんじゃねえ」と文句を言うのは当然のことだ。「侵略」を受けているのは差別語とされた言葉を全く差別的な意図なくして使っている我々の方なのである)。 呉さんの「『支那』は支那を呼ぶ歴史的な名称」で「差別的な意図はない」という主張もわかる。「日支事変」を「日中戦争」と後代に言い換える愚も指摘すべきだろう。ただ、現代、中国を呼ぶ呼称に困るのであれば、「チャイナ」でよいのではないか。「過去に日本はチャイナを『支那』と呼んでいた」という文脈で「支那」という言葉を使うのであれば、中国人も呼称の改正を要求したりはしないと思うのだか。
2001年08月26日(日) アノ娘にもツバがついていたのね/DVD『2001年宇宙の旅 スペシャルエディションBOX』 2000年08月26日(土) 森の木陰でドンジャラ補遺/『金髪の草原』(大島弓子)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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