無責任賛歌
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2002年12月11日(水) |
ミスキャストの楽しみ方/『耳のこり』(ナンシー関) |
ウチから遠いんでたまにしか出かけないんだけれど、百道にある福岡市総合図書館、ここって結構スゴイとこなんである。 今ここは、2万本を保存できる収蔵庫を設けて、アジア映画や日本映画などのフィルムの収集、保存事業を進めているのだけれど、そのことを知った俳優の高倉健が共感して、なんと自分の出演の記念として映画会社から買い取っていた43作品の16ミリフィルムを寄託したのだ。意外と知られてないけど、高倉健って福岡の出身なんだよ。網走じゃなくて(^o^)。 そのことを受けて、福岡市の山崎広太郎市長は、昨日の定例会見で、来年1月から3回にわたり、「高倉健映画祭」を開催すると発表。一俳優のみをクローズアップして、これほどの規模の映画祭を実施するってのも日本じゃ結構珍しいんじゃなかろうか。 実は私はこの映画祭にすっごーく期待しているのである。いや、高倉健のファンってわけじゃないよ。どっちかっつーと嫌いなくらいなんで(念のために言っておくが本人がではなくて、そのヘタクソな演技がである)。 じゃあ、何に期待してるかって言うと、上映予定の35本の中に、金田一耕助シリーズの『悪魔の手毬唄』が含まれてないか、ってことなのね。 昭和50年から始まった横溝正史ブーム、高林陽一監督・中尾彬主演の『本陣殺人事件』、市川崑監督・石坂浩二主演の『犬神家の一族』、野村芳太郎監督・渥美清主演の『八つ墓村』と、立て続けにその代表作が映画化されていったのだが、それ以前に横溝正史作品の映像化がなされなかったわけではない。 それまでは原作発表の直後に映画化されることが圧倒的に多く、東横(東映)で松田定次監督・片岡千恵蔵主演の『三本指の男(本陣)』『獄門島(前後編)』『八つ墓村』『犬神家の謎・悪魔は踊る』『悪魔が来りて笛を吹く』『三つ首塔』の七本が制作された。私はこのうちの『獄門島』と『三つ首塔』を見ているが、中見はまあ、探偵映画と言うよりは現代版遠山の金さんである。洋装の金田一は原作の金田一のイメージとは似ても似つかないと評されがちだが、さすがは名優片岡千恵蔵、キメの時代劇調ケレン味たっぷりの演技はともかくとして、普段は知的で落ちついた、探偵らしい演技を披露している。 その間、他社も岡譲司・河津清三郎・池部良らを金田一耕助に配して映像化していったのだが、本家本元、東映は片岡千恵蔵の老齢化に伴い、新金田一耕助の白羽の矢を誰に立てるかを模索していた。 で、東映金田一耕助シリーズ最終作の金田一に扮したのが当時はド新人の高倉健だったのである。今でも高倉健はホントに芝居がヘタなんだが、当時、今にも増してどれだけひどかったかは、その数年後に主演した『飢餓海峡』ですら、内田吐夢監督がそのへぼい演技に何度も激昂したというエピソードにも表れている。確かに『飢餓海峡』の高倉健はただのチンピラだ。刑事のムードがまるで出ていないが、私はギリギリ「本物の刑事ってチンピラっぽいのかも」と自分を騙して見ることにしている(^^)。 片岡千恵蔵版の金田一シリーズはたまにテレビに流れることもあるのだが、高倉健の『悪魔の手毬唄』は今まで一度も見る機会がなかった。もちろんビデオ化もされていない。聞けば、原作の連載途中で映画制作が決まったので、原作を使ったのは冒頭の部分のみ、ストーリーは全く別ものだという。千恵蔵のあとをうけて、プレッシャーから高倉健がどんなに右往左往しているかを確かめてみたいというイジワルな楽しみもあるが、何より、その「改変」がどんなものか見てみたいのである。 残念ながら、1月のラインナップに『手毬唄』は含まれていない。2月以降にも果たして上映されるかどうかは定かではない。『網走番外地』以前の主演作品については高倉健自身、記憶から消したいだろうから、寄贈作品の中に入ってないこと自体考えられるのだが、私ゃ今さら『幸福の黄色いハンカチ』なんかにゃ興味ないのよ。 黄金期の日本映画がゴミのような無数のプログラムピクチュアによって支えられていた事実を認識するためにも、名作(と言うほどのものって高倉健作品には少ないけど)偏重のラインナップじゃなくて、珍品を混ぜて上映してほしいんだけれど、難しいかなあ。 『手毬唄』以外にも『ギャング忠臣蔵』とか見たいんだけどね。
『新世紀エヴァンゲリオン』のDVDがリニューアルされることになったとか。ガイナックスのホームページによると、「最新のデジタル技術を使い、10ヶ月に及ぶリマスター作業により、 画質が飛躍的に向上、さらに音声も5.1chのサラウンドへ」ということであるから、特に新作製作、というわけではない模様。 未だに『エヴァ』で食わなきゃならんのかなあ、意外と新婚生活でモノイリが多くて困ってるのか庵野監督、と勝手に邪推しちゃってるが、『ラブ&ポップ』『式日』と、どんどんマイナーな方に進んで行ってる監督の、これは方向修正かもしれない。ガイナックス自体も久しく大ヒットってのがないし、次の企画のための資金集めとしてリニューアル版を庵野監督に依頼したって事情もあるのかもね。これも邪推。 もっとも、ファンの間に冷ややかな反応は多いんじゃないかと思う。テレビシリーズでマクガフィン(客の気を引くもの。ヒッチコックの造語だけれど、ハッタリやコケオドシと考えてもらってもいいかな)撒き散らしたあげくのシメが映画版ラストの「気持ち悪い」だったものなあ。あのとき怒り狂ったファンは今回のリニューアル版に関しても「ケッ」てな見方するんじゃないか。誰とは言わんが、「エヴァはもういい」と嘆息混じりに言ってた人も知ってるし。 でも、あのとき別に怒りもせず、かと言って絶対信奉者にもならず、ただフツーに一アニメ作品として『エヴァ』を楽しんでいた私から見れば、リニューアル版が出ることについて別に文句もない。『ヤマト』や『ガンダム』の続編を作るのとは意味合いが違うんだから。それともかつてのファンは、これが続編製作の伏線と考えて怒り出すのかな? 続はねえよ、インサイドストーリーの可能性ならなくもないが。アレの続編作ろうと思ったら、『バイオレンス・ジャック』方式しかないって(^_^;)。 ごく冷静に考えたら、『エヴァ』はセルアニメのデジタル化やCGアニメがフツーになる直前の、手描きアニメ最後のヒット作だったのである。それをリニューアルすることにどんな意味があるのか、それを確かめるためにもこのプロジェクト、期待して悪いことはない。未だに『エヴァ』と聞いただけで、まるでかつての古傷に触れられたかのように過剰反応してしまう方が恥ずかしくはないかな。 唐沢俊一さんも何かで語っていたが、あれは単純なマクガフィンで成り立ってたアニメなんで、謎解き遊びをあくまで「ごっこ」として楽しむのならばともかく、SFアニメのエポックのように過大評価するのは、鑑賞の仕方としては稚拙に過ぎるのである。あの騒動のおかげで、いいトシしたオタクの鑑賞眼もたいしたこたあない、それどころか、ロクにアニメも映画も見てないってことが露呈してしまった。確かに、クソつまらん美少女&ロボットアニメしか見てなきゃ、映画を見る目なんか育ちゃしないわな。 と同時に、「信者」作るのって簡単なんだなあ、とも思った。もちろん、そういう信者を作ることが庵野監督以下、ガイナックススタッフの本意でなかったことは明らかなので、ああいう客をすっ転ばすような最終回を作ったわけなんである。 だから、言っちゃ悪いけど、あのラストに腹を立てた人はただのマヌケなんである。マクガフィンにもともと「正解」なんてものはないんで、そこに深遠な何かを見出そうとしても、そりゃ、「ご苦労様」としか言いようがない。 私もあの騒動で気の狂った人に関わっちまったことはあるんで、ここでまたその手の人たちを刺激するようなことを書いちゃうのは避けた方がいいんだろうが、私も別の意味でバカだからさ(^o^)。未だに腹立ててる人見てると、いい加減、自分のバカ認めて、も少し映画見ろよ、でないとほかの作品に似たようなハマり方してまた「裏切られたあ!」とか叫ぶことになるぜ? と言いたいのである。あのとき腹を立てたってことはさ、自分が実は「ものにはたくさんの表現の仕方がある」っていうことを知らない、偏狭で自己中心的かつ差別的な価値観しか持ってなかったってことなんだから。周りにそんなのがウジャウジャいたら、わしゃ鬱陶しいんだよ。 あのさ、女に惚れたって、その女が自分を好いてくれるとは限らないんだよ? それが「世間知」ってものなんだから、アニメが自分の思い通りの展開になるなんて思わないこと、『エヴァ』を大傑作だなんて言うつもりはないけれど、少なくとも「失敗作」なんかじゃないよ。アンチエヴァのみなさん、リニューアルの機会に見返してみたらどうかな? ついでに言っとくが、あのとき、うちのしげも『エヴァ』はフツーに楽しんで別に狂ったりしなかったよ。だから、狂ったやつはうちのしげ以下(^o^)。
長いこと修理もせずに放置しておいた寝室の天井の壊れた電球、しげが「いい加減で修理頼もうよ」と言うので、仕事帰りに近所の「ベスト電機」へ。 ビデオデッキもついでに修繕に出そうかと思ったが、どうせだからDVDレコーダーに変えちゃおうと、品定め。実はすぐに買うつもりはなかったんだけれど、特価品があったので、ソニーのDVD−RWを購入。ソニー好きのしげに合わせれば、これしか買えない。HDD内蔵のやつ、パナソニックしか売ってなかったし、ちとばかし値段が高かった。これはまあ、来年買えばいいか。
博多駅に回って、バスセンター上の紀伊國屋で本とDVDを買う。 ついにというかやっとというか、収録映像にミスがあったと言うことで発売延期になっていた『黒澤明DVDボックス』1巻を買ったのである。これで『七人の侍』がいつでも見られるというのは嬉しいなあ。 あと、東京旅行に向けて、ホテルガイドや旅行案内本を買った。もっとも今回のスケジュール、結構タイトになりそうなので、そうそううろつけそうにないのだが。遊ぶにしても渋谷・原宿近辺に限定されそうな気配である。
紀伊國屋の上の食堂街、焼肉屋の「大韓苑」で食事。 もちろんしげが「焼肉食いたい」と言ったからである。久しぶりにこの店に入ったのだが、相変わらず照明が暗い。肉は美味いのだが、こう暗くちゃ、肉が焼けてるかどうか、私の視力では判別しにくいのである。比較的厚切りの肉を出してくるので、つい焼きすぎちゃうのだ。 肉を食いすぎたせいか、しげ、気分が悪いと言い出す。だから毎回三人前食ってるからだよ。結局電話連絡を入れて、今晩の仕事は休みを取ったが、「食いすぎで休み」って、いいのかそんなんで。
帰宅して、テレビドラマ『天才柳沢教授の生活』最終回を見る。 これもなんとなく今まだ見てなかったんだけど、やっぱり全然面白くないな。 松本幸四郎のどこがマズイかと言うと、原作の「線目」を表現できていないことである。んなムチャな、と思われる方もおられようが、別に私ゃ目を閉じて演技せえ、と言いたいわけではない。マンガの表現というのは一つのカリカチュアであるから、そこれが何を象徴しているものかを読み取った上で生身の演技に転換しなければならないのである。それをし損なったマンガの実写ドラマ化はことごとく失敗してしまうのだ。 柳沢教授は人に関わらない。いや、本人は関わっているつもりなのだけれど、その関わり方には常にズレがある。そのズレに、関わられた人たちはイキリ立ち、そこに騒動のタネが生まれる。しかし、何も見ていないように見える柳沢教授の目が、実は相手の気付かぬ真実の心を射抜いていることに、あとになって人々は気付くのである。コミュニケーションを拒否しているのに、なぜかそこに「絆」が生まれてしまう、あの「線目」はそういう目なのだ。 松本幸四郎、セリフはそれなりに気遣っているが、目線をどうするかまで意識して演技をいない。アレは生身でやるときには視線を相手と会わせちゃダメなんだよなあ。そこにはどうしてもコミュニケーションが生まれてしまうから、目線は常に「逸らし」ていなければならないのだ。 コミックの映像化にはそれくらい奇抜な演出を案出しなきゃいけないんだけど、そこまで考えてドラマ作ってるやつっていないんだよなあ。
山本弘さんところであまりに話題になっていたので、ついに『アルマゲドン』を見ようと「ツタヤ」に行く。レンタルにしようと思っていたが、生憎貸し出し中。けれど、決意してここまで来たのだから、手ぶらで帰るのは癪に障ると、ビデオテープを借りるのはなんだか「負けた」気がするので(なんでや)、もうめんどくさいやと、DVDを買ってしまう。2500円と安かったからだが、そのカネすら惜しいと思えるほどに悲惨な出来であるのか。 でもすぐに見るのは怖いので、今日はとりあえず買ったばかりのDVD『七人の侍』を途中まで見て寝る。こちらの感想は後日に。
ナンシー関『耳のこり』(朝日新聞社・1050円)。 『小耳にはさもう』シリーズ、2000年から2002年初頭にかけての分を収録。 すっかり疲れてるのか、消しゴム版画は殆ど誰も似ていない。この絵の荒れも死の予兆だったのかなあ。私の昔の日記を読み返してみると、晩年のナンシーさんについて「エッセイに元気がなくなってる」旨を記した箇所があって、ちょっと胸が苦しくなってしまう。 エッセイの方は絵ほど荒れてはいないが、やっぱり「疲れてはいるなあ」と思う文章が目立つ。 芸能ネタに関して語るときに、自ら封印していたという「くだらない」「視聴者をバカにするな」、この言葉を、ナンシーさんはあえて「松田聖子&郷ひろみ」のデュエット曲に対して使うのである。封印していた理由は簡単で、「芸能ネタはそもそも全て下らない」「誰でも言える考えなしの批判」ということだろうが、それ以外に何も言葉が思いつかないほど、ナンシーさんは脱力していたのだろう。これはもう「毒舌」ではない、ただの「愚痴」である。 悪口や毒舌はたとえ誰かの心を傷つけることがあるとしても、その対象に対して関わろうとする意志の表れである。「仕事だから仕方なく書いてる」感じのエッセイに惹かれることはない。そこまで落ちてはいないが、以前の溌剌とした文章を知っていると、ナンシーさんの文の疲れはやはり「凋落」と映る。 ヤワラちゃんの「最高で金、最低でも金」というフレーズにツッコミを入れて「オリンピック名言に認定だ。はやらないかなあ。『最高で板東英二、最低でも板東英二』とか」と書いてるけど、しげには異常に受けたこのセリフ、私には「切れのないツッコミ」としか映らない。 もうナンシーさん、突っ込んでるようでいて、一歩引いて苦笑いしてる感じなんだよね。「はやらないかなあ」というのは、「この人に突っ込むのはもう私ゃ諦めたよ、誰か代わりにやって」ってことだし。 視点が鈍くなってるわけではない。「野村沙知代タイホ」時に、街頭でされた「野村前阪神監督についてはどう思いますか」というインタビューの答えが一様に「女房の管理もできないのに、選手の管理ができるわけがない」と答えていたのを、ちゃんと「これ、正しい言いぐさなんでしょうか。間違ってると思うけど」と指摘しているのだ。ただ、その口調の「弱々しさ」にも気付いていただけると思う。 未だに寂しさを覚えずにナンシーさんのエッセイを読むことができない。そんな読まれ方、ナンシーさんはされたくはないだろうけれど。
2001年12月11日(火) 夢の宮崎で盆踊り/『伊賀の影丸/邪鬼秘帖の巻(下)』(横山光輝)ほか 2000年12月11日(月) デジタルビデオ、どれがいいか?/『藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版』5巻
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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