無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年02月02日(土) ファンタジーの地平に/映画『ハリー・ポッターと賢者の石』/『バイリンガル版 ゲゲゲの鬼太郎』(水木しげる)

 朝っぱらから寒い中を出張。
 ……と思ってたら、それほど寒くはなかった。外での仕事なんで、寒いとトイレが近くなって困るんである。
 半ドンで仕事を終えて、出張先までしげに車で迎えに来てもらう。
 携帯の電源を切ってたんで、しげが連絡がつかないやん、と文句を言うが、切ってたのはちょっと周囲の事情があってベルを鳴らされたら困る、ほんの10分程度の間だ。
 間が悪かっただけなんだからそんなに怒るなよう。

 でも気分はなかなかに高揚している。
 今日こそは……今日こそは……、ついに、あのっ! アレを見にキャナルシティに行くのであるよ。
 「道がわかんねー」と叫ぶしげに地図を示す。
 「……真っ直ぐ行って、一回曲がるだけじゃん」
 基本的に「地図を読む」という行為が、しげにはできないのではないか。

 キャナルに着いて、映画の時間を見ると、もう少し余裕がある。
 ラーメンスタジアムを覗いてみたが、一時期ほどの大混雑ではないが、それでもどの店も結構な長蛇の列。
 諦めて、河岸を移して、某和食の店に入る。
 しげはカツ丼、私は貝汁定食を頼む。
 この貝汁の中のあさりが、どういうわけかやたらと砂を噛んでて、食うたびに口の中でじゃりじゃり、音がする。
 しげはこれが嫌いで貝類は一切食べようとしないが、これも一つの味わいなんと思うんで、日頃の私はあまり気にしてない。でも、ちょっと今回のはいくら何でも多過ぎ。何しろ砂の入ってない貝が1個もなかったのだ。
 も少し、砂出しに手間かけてほしいよな。ちゃんと一晩塩水に浸しといたのかなあ。


 映画『ハリー・ポッターと賢者の石』。
 さてさて、やっと見てきた超ヒット作であるが、誉めようと思えば誉められるし、貶そうと思えばとことん貶すこともできる、なんとも困った映画なんであった(^_^;)。
 つまり、良くも悪くもファンタジーとしてはスタンダードなんだよね。『寅さん』や『水戸黄門』を今更、貶してどうする、みたいな感じかなあ。

 ストーリーを紹介するのは、この日記の趣旨じゃないんで、多少はしょるけど、いじめられてる継っ子が、実は魔法使いの子だと分って、魔法学校に入ってメキメキ頭角を表す、そんでもって、因縁のある悪の魔法使いの復活を阻止するって話。
 おお、すごい、数行で『ハリポタ』の全てを言い切ってしまった(^.^)。
 『ハリポタ』否定派は、この余りに単純過ぎる設定にあきれかえったってところも大きいのだろう。
 この、大ヒットはしているが、徹底的な批判者もいるという状況、“あの時”と実によく似てる。状況が似てるのは当たり前なんだよね、だって、その「映画」自体、この『ハリポタ』と内容がそっくりなんだから。
 お気づきの方は多かろう。ネットを検索してないのでよく知らないが、同じ指摘をしている人も多いのではないか。『ハリポタ』は、その構造において、1977年の『スター・ウォーズ』と全く同じなんである。
 ともかく、映画公開前の情報がやたら飛び交ってて、「すごい、おもしろい、革新的!」などと煽りに煽られ、いざフタを開けてみたら……「なにこれ?」という状況まで同じってのはなんだか悪夢的ですらある。人間って、何十年経っても全然進歩しないんだよなあ。
 もちろん、『スター・ウォーズ』を否定するつもりで言ってることじゃない。あれはSFじゃなくてファンタジーだというのは、公開当時も言われてたし、ルーカス自身も近年そう主張していたことで、今更そのSF性とかを否定したってしかたがない。
 この「なにこれ?」というのは、「ファンタジーとして余りにもスタンダード」いう謂にほかならない。けれど、定型には定型の価値はあるので、それを一概に否定していいものではないってことはあるんだよねえ。

 ハリー・ポッターは『みにくいあひるの子』であり、『シンデレラ』である。
 預けられたダーズリー家では、徹底的にこき使われ、いじめられる。
 しかし、11歳になった時、「魔法学校」からの案内状が来る。彼は悪の魔法使いヴォルデモートの魔の手から唯一助かった、伝説の男の子だった。
 この「実は高貴の出」というのは、厳然たる身分社会において、一つの理想物語として描かれつづけてきた、貴種流離譚の定型である。
 どんなに努力したって、身分の壁がある限り、報われることは決してない。もしあるとすれば、実は自分が高貴の出であるという、自分でも知らない運命が発覚した時だけだ。そんなはかない夢にしか、かつての西欧の人々は希望を託せなかった。
 この「努力よりも血」という発想、民主社会が現実のものとなった現代ならば否定されてるかというと、そんなことはない。やっぱりいくら努力したってある程度以上にはいけないという「限界」はちゃんと残ってるんである。
 だからなんとゆーか、『ハリポタ』つまんねーぞ、とは簡単には言いにくいのよ。だって、だれだって、「こんなに苦労してるのに、生涯報われる日なんて来ないんだ」って思って生きてたくはないじゃん。たとえ根拠なんてなくっても、「いつかは僕にも」「いつかは私にも」って、希望をもって生きてたいのよ。
 努力して努力して苦しんで悩んで、そんな物語なんて、自分と重なりすぎてて見てたくもない。映画は夢でしょ? 自分の夢が努力せずに叶えられた方がいいじゃない。だって、これまで散々苦労はしてきたんだから。これ以上、苦労なんてしたくない……。
 だから、ハリーがいじめられるのは10歳まで。
 あとはもうトントン拍子である。ルーク・スカイウォーカーも、たいした努力なしにあっという間にフォースを使いこなしちゃったけど、あんなの見てると、宮本武蔵の終わりなき求道がバカみたいである。
 最後には努力タイプのハリーの女友達、ハーマイオニーに、「私はただの優等生、本当に便りになるのはアナタよ、ハリー」なんて言わせちゃうんだから。
 こんな「努力したって無駄」「なにもしなくても力が手に入ったほうがいい」的な物語に熱狂してしまうほどにアチラの人々の精神は疲弊しきってるんである。

 映画が公開されて、一部のクリスチャンが、「魔法の肯定はキリスト否定である」と、『ハリポタ』を焚書したような報道があったようだが、日本では「アホか」みたいな記事でも、アチラじゃ結構深刻な問題ではなかろうか。
 神様を信じても救われない、直接自分が力を持てた方がいい、ってとこまで人々の心が変化しているのだと見たら、そりゃ、クリスチャンにとっては脅威だろう。

 そういうキリスト教社会の限界が実感できない私にしてみれば、『ハリポタ』を完全否定まではしないけれど、もちっと「努力」の方にウェイトを置いた展開にならなかったものかとは思う。でないと労働者諸君は、ホントの意味で報われはしないじゃん。おいちゃん、悲しいよ。
 どこぞの書評には「努力した者も報われる展開がある」とか書いてるものもあるようだが、「も」であって「が」でないサビシサに、自分で書いてて気づいてないのかね。

 じゃあ、振り返って見て、日本でのヒットはなんなのか。
 やっぱりみんな、「努力なんてしなくて力が手に入ったほうがいい」と考えながらあの映画を見てるのか。
 ……無意識的にはもう少し複雑な気がする。
 もちろん、『堤中納言物語』や『山椒太夫』のような貴種流離譚が日本にもないわけではないけれど、それよりも我々庶民の生活に密着している日本のスタンダードは、「高貴なものに救ってもらう」パターンなんである。
 マジメに努力してれば、いつかは「水戸黄門」や「遠山の金さん」に助けてもらえるってことだね。
 だから日本人が感情移入するのは、初めはハリーでもじきにロンやハーマイオニーのほうに移って行くんじゃないか。
 いや、私はハーマイオニーに同情しちゃったよ。
 一番努力してるのに、結局おいしいとこはハリーに持ってかれちゃうんだもの。なんかねー、『エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレーがさあ、どんなに努力してもあのバカシンジに届かないときの口惜しさっつーか、『ガラスの仮面』で姫川亜弓が「所詮私は努力してるだけ、天才なのはあの子、北島マヤ」と歯噛みしてるシーンを思い出してさあ、少しはハーマイオニーに気を使ってやれよ、せめて最終対決のシーンでは、ハリー、ロン、ハーマイオニー、三人揃って悪い魔法使いに対抗させろよ、と言いたくなっちゃったもんね。

 この三人の間柄も定型だよなあ。
 トム・ソーヤーとハックルベリー・フィンとベッキーというか、コナンとジムシィとラナと言うか。するってえと、ハグリッドはダイス船長か。
 となると、宮崎駿がこの『ハリポタ』を見てどんなことを言うか、ちょっと聞いてみたいように思うが、おそらく『スター・ウォーズ』をこき下ろした時と同じようなことを言うんだろうな。
 曰く、「人種差別映画」と。
 メタファー変えれば、これ、「ボクは黒人だけど実は白人だったらいいな」物語だもんね。ディズニーがそうであるようにね。
 しかし、その宮崎駿が大っ嫌いなタイプの映画を見にいく人間は、おそらく『千と千尋』に行く人間と、大半が重なってると思うんである。宮崎さんも、「『ハリポタ』ヒット」の報には複雑な心境かも知れない。

 しかし、ファンタジーなんて見たこともない、という初心者には、この程度のスタンダードであった方がとっつきやすかろう。
 「『ハリー・ポッター』おもしろかったあ!」という女の子がいたら、「もっとおもしろい本、教えようか?」と言って、ル・グィンの『ゲド戦記』を読ませてコマすっちゅう手はあるし(と言いつつ完結編、まだ読んでねーや)。
 あ、もちろんJ.R.R.トールキンの『指輪物語』や、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』『別世界物語』、ジョージ・マクドナルドの『リリス』などてもよいです。
 リリアン・スミスが主張するように、ファンタジーは作品の構造なのではなく作者の思想・人格とイマジネーションに起因するものなのだ。多分、ローリング女史よりは彼ら・彼女たちのほうがより深い洞察を人間に対しているとは思う。
 
 
 帰宅して間もなく、宅配便。
 しかも結構かさばる大きさ。
 んなもん、何も注文した覚えがないので、なんじゃらほいとラベルを見ると、「エアーベッド(ダブル)」の文字。
 ……何、これ?
 思わず、しげの方を見る。
 「通販で買っちゃった、てへ(はあと)」
 「『てへ(はあと)』……って、いくらしたんだよ!」
 「高くないよ、○○○○○円」
 「高いわあ!」
 全く、人にDVDだのなんだのとムダ遣いするなと、散々うるさく言ってやがるクセに、自分が買い物する時は相談もなしかよう。
 あ、あの、一つ注意しておきますが、しげが「ダブルベッド」を買ったからと言って、そこに「深い意味」を感じ取ってはいけません。
 しげはただ単に、「自分が広い布団で寝たい」。それだけです。
 それだけなんですよ。
 とほほ。
 (T^T)(^T )(T )( )( T)( T^)(T^T) ヒュルルルル……。


 マンガ、水木しげる著、京極夏彦 監修・装幀、ラルフ・マッカーシー訳『バイリンガル版 ゲゲゲの鬼太郎 GeGeGe−no−Kitaro』(講談社・998円)。
 一時期、マンガの英語訳が流行ってたが、ああいうのは実際に海外でどの程度出版されたんだろうか。士郎正宗なんかが海外でもカルトな人気、とか聞いたりはするけれど、「ほかのに比べりゃ」みたいなレベルらしいし。
 日本のマンガはやはり独自の発展を遂げて独特の文化を作り上げている。それに直に触れる機会が多くあって、馴れていなければ、読んで楽しみ、正当に評価することは難しいだろう。
 それが、いきなり『鬼太郎』である。
 水木しげるがアメコミ調のマンガを描いてたのは貸本時代までだ。『鬼太郎』を少年マガジンに描くころには、もう、あの独特な飄々としたセンにかなり近くなっている。

 英訳されたのは『ゆうれい電車』に『大海獣』。
 妖怪退治ものをあえて外したのは、鬼太郎の多彩なイメージを初めから海外の読者に固定されたくないという配慮からだろうか。でもこの二作、ねずみ男と鬼太郎の仲がいい作品なので、キャラクターどうしの絡みよりも話の面白さで選んだというところなのかもしれない。
 英訳本となれば、日本語独特の表現がどう訳されたかということが気になるところだが、『鬼太郎』の場合は当然「お化け」「妖怪」である。
 『ゆうれい電車』では“ghost”、『大海獣』では“goblin”と、訳し方を変えている。
 京極夏彦の解説では、更に、“monsters(怪物)”、“spirits(精霊)”、“ghostlike creatures(幽霊のようなもの)”、“demons(悪魔)”、“godlike entities(神様のようなもの)”という解説を加えている。……確かに、砂かけ婆あや塗壁を外国人に説明するのは難しそうだ。

 ほかにも、「ほうほう」と頷く訳、首を捻る訳などあって面白い。
 「線香」は“bearning sticks”。でも、この訳だけじゃなぜ棒が燃えてるのかわかんないんじゃないかなあ。あれってもともとは死体の腐臭をごまかすためだったんだね。
 「お守り」は“good−luck charm”か。でも向こうじゃ蹄鉄みたいなもんじゃなかったっけ。携帯用の「お守り」ってのとはこれもちょっと違う気がするが。
 「ねずみ男」は“Ratman”。当たり前だけど、ちょっとカッコよく聞こえちゃうなあ。夜の町で正義を守ってそうだぞ。
 「大海獣」が“leviathang”というのは、なるほど、ではある。
 単に“sea monster”なんて訳すより、気が利いてる。このマンガでは鯨の先祖「ゼオクロノドン」(正しくは“zeuglodon<ゼウグロドン>”であることが今回の英訳で分った。水木さん、結構こういう用語の転記ミスは起こしてるんである)ということになっているが、もちろんその造型は実在したそれよりも、はるかに「妖怪」的である。
 けれど、これまでに発表されたイラストやゲームに紹介されている「レヴィアタン」あるいは「リヴァイアサン」のイメージと大海獣とでは、かなり隔たりがないだろうか。私が見たことがあるのは、巨大魚、怪竜、海蛇、あるいはタコである。……と思って、念のためネットで調べてみたら、「くじら」とい説もあるのね。つまりは伝説性が高く、固定されたイメージというのはないということなのだろう。

 広告でほかの英訳マンガも掲載されてるが、そのタイトルが結構凝ってるんだねえ。
 感心したのは、『ひみつのアッコちゃん』。“Akko−chan’s Got a Sectet!”だと。原タイトルより「どんなヒミツなの?」と聞きたくなるね。

2001年02月02日(金) ゆっくり休もう/舞台『人間風車』ほか



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