無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年07月22日(日) 愚か者の舟/『ハッピーマニア』1巻(安野モヨコ)ほか

 なんだかまた悲惨な事件が起こってるなあ。
 兵庫県明石市で行われた花火大会の直後、JR朝霧駅前の歩道橋に殺到していた観覧客の一群が、改札ホーム前の階段付近で将棋倒し、十人が死んだとか。
 死んだのは殆どが老人、あるいは年端も行かない赤子・子供ばかりである。
 さて、こういう悲惨な事故に巻き込まれて亡くなられた方々のご冥福を祈るに吝かではないのだが。

 でも、私の性格の悪いところで、どうしても次の三文字が頭に浮かんでしまうのですねえ。
 「馬鹿?」
 別に死者に鞭打つつもりはないよ。誰が一番悪いかって、そりゃ市とか警察が警備を怠った点にあるのに決まってるんだから。
 でもだ。

 別に行政の不手際を庇うつもりはないけれど、予め身動きできなくなるほど混雑するって、見物客がわからなかったはずはないんじゃなにいか? ケガする危険性だって少なくはないとわかっていながら、なぜみんなそんなところに行くのかね。
 混雑客が将棋倒しになって、ってのは今に始まった事故じゃない。デパートのエスカレーターでだって起こり得る事態だ。けれど、開店時や時間限定のバーゲンなんかを避ければ、まずそんな事故に遭遇することはない。
 結局は「今しか見られないから」とか、「より見やすいところで見たい」「他人より少しでも前に出たい」という欲(「願い」もまた「欲」だってこと、忘れちゃいかんよな)が引き起こした結果ではないのか。
 自分のことしか考えてない連中が集まったから、階段を上ってくるやつと降りてくるやつがぶつかってどうにも動けなくなったのだろう。
 そんな危険なところへ小さな子供を連れて行ったというのは私に言わせりゃどうかしている。それどころか親が同伴せず、子供だけで行かせたケースもあったようだ。……低学年の子を夜間徘徊させる親はどう考えても異常だろう。
 親も加害者の一人ではないのか。

 ……てなことは、子供を殺した親が一番感じてるだろうから、誰も言わないけどね。でも、それが冷徹な事実というものである。
 私ゃ、いつぞやの、河原にキャンプして川に流された家族を思い出したねえ。「子供に思い出を」とか「子供とのコミュニケーションを」とか考えてるのかどうか知らんが、やたらとイベントがあれば子供を連れ出す親がいるがね、それがただの親のエゴである場合も多いのだよ。今回のケースがそれにストレートに当てはまるとは思わないが、子供が親の勝手な思いこみのせいでかえって迷惑してる場合もあるのではないか。
 ……思い返せば、そんなところには子供をしょっちゅう連れ出して疲れさせるくせに、子供が行きたがるところには連れて行ってくれないのがウチの親だったよなあ。
 ナントカ牧場だのカントカ洞窟だの、遺跡だの史跡だの重要文化財だの、教育効果を考えてなのか、そういうクソ面白くもないところばっかり、ヒトを引きずりまわして自分だけ悦に入ってたがよ、わしゃ未だに『メカゴジラの逆襲』に連れて行ってくれなかったこと、うらんどるからな〜。
 そしてアレですよアレ、「大阪万博」の「月の石」!

 ……見たかったんだ。
 「アメリカ館」のを見たかったんだ。
 「ブリティッシュコロンビア館」の間に合わせなんかじゃなくて。
 コドモが本当に見たいものなんて、オトナには決して分らないのさ。
 うっうっうっ(ノ_<。)。

 毎年、百道だの大濠公園だので花火大会があるたびに、花火が好きなしげは「ああ、行きたいなあ」とは言うのだ。
 ならばと、私が「行くかい?」と声をかけると、しげは首を横に振るのだ。
 花火は好きでも、混雑がなにより大嫌いなしげは、くたびれるくらいならかえって行かないほうがいい、と考えるのだ。面白味はないが、それは一つの見識であろう。


 この三連休、しげは買い物一つ、片付け一つしなかった。
 以前から何度もくどいくらいに、芝居をやるなら家事もきちんとやれ、とは言っているのだ。
 でも、溜まる洗濯ものを洗いも干しもしないし、ゴミを片付けもしない。
 たまにまとめてやっても何ヶ月かに一回じゃやってるとはとても言えない。日頃、仕事の合間を見てやってるのは私なのだ。
 確かに「いい加減でやれよ」とこちらが命令すれば渋々と行動しはする。
 しかし、「言われなくてもする」ことが当たり前なことを「言わなきゃやらない」と言うのは威張れた話ではない。
 でもそれで威張ってるのだよな、しげは。
 「ちゃんと片付けたもん」って。
 言われてなけりゃ、やってないくせに、なに威張ってんだボケが。
 今回はそう言う言い訳をさせないために、あえてしげに何も言わなかった。
 結果は明白である。
 しげは「全く」家事をしなかった。言い訳は成り立たない。

 で、結局、私が片付けだのなんだのをせねばならなくなるのだけれど、私が家事をやれるのは休みの日しかないのだよね。
 その休みの日に練習を入れられたら、ウチで家事をやるものがいなくなる。
 私が脚本以外で芝居に参加したくないのはその辺にも理由があるのだ。しげと何度も「家事もちゃんとやります」と約束したが、一度も守ったことがないし、今度も同様だろう。
 なら、練習と家事とどちらを優先させるかは決まっている。
 ましてや今年、私は休日出勤も多いのだ。

 ……というわけで、劇団のみなさん。
 私は家事と仕事のために殆ど練習に参加できませんが、そういう事情は予めしげに伝えてあることです。
 にもかかわらず、演出がムリヤリ私をキャスティングしたのですから、時間が足りない分、役作りについて、基本線は演出の意図を汲むとしても、肉付けは私のほうである程度勝手にやらして貰います。というか、そうさせてもらわなきゃできんよ。打ち合わせする時間なんてないんだから。
 同様に、音響プランもこの夏中に、演出意図無視で(っつーか、まだまとまってないんでしょうけど)パッパと進めようと思ってますがその辺はよしひとさん、どうかご容赦。

 それにしても、洗濯モノ一つとってみても、二人の一週間分を全部一日でやっちまわなきゃならないんだもんなあ。
 干し場自体が全然足りないのだ。
 食料の買い置きもない。コメの一粒も残ってない。
 洗い場は昨日洗いきれなかった食器が未だに異臭を放っている。
 スーパーとウチを二往復して、物干し用のハンガーやら、洗剤やら、柔軟剤やら、コメやら、シャンプーやら、ともかく家事のためのモノを買いこんでくる。
 そして洗濯機を回すこと3回、台所を必死で片付けたころにはもう練習が終わろうかという時間。
 ……でも、風呂掃除とトイレ掃除、玄関の掃除もまだ残っているのだよなあ。
 そこまでやっていたら、とても練習に顔を出すことすらできないので、仕方なく切り上げて吉塚のパピオに向かう。

 3時ごろ(あと30分しかねーや)にようやく到着。
 案の定、「遅かったね」とは言っても、しげは強く追求はしない。そりゃ、自分が家事ほっぽらかしてる負い目があるからな。
 よしひと嬢のシナリオはまだ第2稿が完成せず。
 とりあえず、冒頭部分だけでもあわせてみる。
 穂稀嬢がなんと私の愛人役である。
 ……なんつーかねー、私と穂稀嬢、親子ほどトシが離れてるんだよね。私が大学生のころにはこの世に影も形もなかったんだから。二人並べて、はい、カップルですよって、誰が信じるかってんだ。私はしょぼくれたデブの中年だし、穂稀嬢は今が花の美少女である。釣り合わないことこの上ない(そもそも私をキャスティングした時点で無理があるのだ)。
 それをただのエンコーじゃない、ちゃんとした愛人にするってんだから、こいつは相当な外道だ、と思って、冷酷なキャラで演じてみた。
 穂稀嬢がまた、トシは若いのだが、セリフを言わせるとまあ、なかなか色っぽいのな。
 こっちも外道になってるから、合わせてみるとなんだか日活フィルムノワールみたいな雰囲気が漂う。
 こりゃ、いいセン行くかなあ、と思っていたら、演出のしげからダメだしが出た。
 「もっと若くやって。20代後半くらいで」
 ……はい?(・・;)
 「それじゃ冷たい中年オヤジだから」
 いや、実際その通りなんスけど。
 「ハカセ(穂稀嬢のことね)も、甘えるような感じじゃなくて男より立場が上って感じで」
 どうも演出は、愛人のシリに敷かれた若い男ってのを演出したいらしい。
 でもなあ、男ってのは自分のプライド犠牲にしてまで愛人作ったりはしないものだがなあ。その点でいけばその演出、あまりリアリティのあるものとは言い難い。
 けれど、私に20代を演じろ、ということはとりもなおさずリアルな演出はしない、ということなのだな?
 非リアルな、エキセントリックな演技を求めるのならば、それはそれでやりようはあるのだが、さて、本当のところどうなのだろう。
 どっちにしろ脚本が完成していない段階で「その解釈はおかしい」とも言えない。第一稿とはキャラクターが相当変わるということだから、その結末を参考にすることもできない。
 しばらくは手探りで行くしかないなあ。
 入院している間にいろいろ考えてみるかな。でも病室で(多分、大部屋)セリフの練習するわけにもいかないし、イメージトレーニングするしかないなあ。
 よしひと嬢との掛け合いの方は、なかなかテンポがよい。
 と言うか、こちらの関係はよしひと嬢(こちらは妻役。なんか両手に花だな♪)は「わが道を行く」キャラクターなので、私がどんな役作りをしようが基本的には関係がないのだ。

 実際、今回の芝居の面白いところは「コミュニケーション不全」の問題が意識的に盛り込まれているところだ。
 親子がいる。
 恋人がいる。
 夫婦がいる。
 友達がいる。
 けれども彼らは会話しているか。
 言葉を交わしはしているかもしれない。しかし、お互いに言葉を受けとろうとしているか。
 形だけの親子。
 形だけの恋人。
 形だけの夫婦。
 形だけの友達。
 傷つくことを恐れるあまり、そういう人間関係しか作れないようになっている人々。
 彼らは、彼らの「夢」の中にいるだけだ。

 芝居の内容について、今はまだあまり詳しいことは言えないので、ちょっと思わせぶりな言い方にはなっていますが、ご容赦下さい。
 ……でもやっぱりテーマが押井だよなあ。
 よしひとさんも押井ファンだし、これはしゃあないかな。


 練習後、パピヨンプラザのロイヤルホストで、よしひと嬢、穂稀嬢を交えて食事。
 会話しながら、ふと、穂稀嬢から「私を本名で呼んでくれるのけーしーさんだけなんですねえ」と言われる。
 みんなはもう、穂稀嬢のことを「ハカセ、ハカセ」と呼んでるんだけど、私ゃ「ハカセ」と言われるとどうしても『オバケのQ太郎』のデコチン頭の「博勢」を思い出しちゃうので、現役美少女の穂稀嬢とはイメージが合わないのでとてもそうは呼べないのである。
 それに最初に本名で紹介されたので、別にアダナつけなきゃならない理由もないし。基本的に私は劇団メンバーはみんな本名で呼んでいるのだ。
 逆に、私が自分のことをみんなには芸名で呼んでくれるようにお願いしているのは本名だとしげとの区別がつかないという単純な理由である。
 でも「けーしー」はないよなあ、とちょっと思っちゃいるのだが。

 よしひと嬢、「昨日の『USO!?ジャパン』、見ました?」と聞いてくる。
 ネットでも話題になっていたが、『BLOOD THE VAMPIRE』のメイキングビデオの押井守が着ていたトレーナーの犬の目が瞬きした、というものだ。
 私は見ていなかったのだけれど、あの番組は一見して「でっちあげ」があけすけな番組なので(というか、オカルト系でマジメに心霊現象を取り上げたことなんて殆どないのではないか)、どうせ『USO』スタッフのヤラセだろう、と、気にも留めなかった。
 だってタイトル自体、ちゃんと「USO」(嘘)と断ってるし。
 案の定、ウチに帰って、『BLODD』のメイキングを見たら、犬は瞬きなんか全然していないのであった。
 

 マンガ、安野モヨコ『ハッピー・マニア』1巻。
 名高き平成の名作を今まで読んでいなかったというのは、不明の至りだが、文庫化を記念して一読。
 読者の女の子は、結構、主役のシゲカヨに感情移入して読んじゃうのかなあ。
 岡田斗司夫さんが『フロン』で紹介していた「オンリーユー・フォーエバー症候群」の典型だものな、シゲカヨって。
 だから彼女が幸せになれないのは実現するはずのない「夢」を追い続けている本人のせいなので、私は感情移入など全くしない。
 かえって、「こんな女にもタカハシみたいな『キープ』が現れちゃうから、いつまでたっても世の中から『馬鹿女』が消えてなくならないんだよなあ」と思ってしまうのだ。
 こういうことを言うと、「女の子が夢を見ちゃいけないの!?」と文句をつけてくる女の子がいるんですよねえ。
 お答えしましょう。
 いけないに決まってます。
 それどころか、あなたはハッキリ、世の中に害毒を撒き散らしています。だってあなたは「タダで体を売ってる娼婦」なんですから。
 世間の男から、カラダだけしか相手にされてないのも自業自得と思いなさい。 多分あなたは、お父さんお母さんから「いつまでも夢ばかり見てんじゃない」とか言って叱られたことなんてないんでしょうね。
 タカハシもなー、「この人にはボクがついてなきゃダメなんだ」とか思ってるあたりゴーマンだよなー。自分が庇護者になれる相手を見つけてるだけ(つまり自分が劣等コンプレックスを感じないでいられる相手を探してるだけ)だから、実はカラダだけのつきあいしてるほかの男よりももっとシゲカヨのことバカにしてるんだよねー。本人気づいてないけど。
 と言うか、世の女性諸君、男は女をそんな風にしか見てないよ。
 例外はありません。
 安野モヨコもタカハシを好青年風に描いてるあたり、これが純愛みたいなもんだと錯覚してるのかなあ。客観的かつ冷静に見れば、これはただのバカ女とバカ男との絡み合いです。
 だから楽しいんだけど。好意的に解釈すれば、安野モヨコ、「この世にはバカしかいない」という視点でこの『ハッピーマニア』を描いてるのかなあ。
 誰の言葉だったかなあ。
 「不幸は幸福を追求し始めた時から始まる」って、言ってたのは。
 いい加減「いつか幸せになれる」なんて夢から覚めなってば。


 マンガ、佐藤竜雄原作・滝沢ひろゆき作画『学園戦記ムリョウ』3巻。
 ちょくちょくテレビアニメの方も見てるけど、マンガ版とストーリーが遊離してないのはかえって今時珍しい。
 アニメはアニメ、マンガはマンガでストーリー変わるほうが当たり前だしねえ。
 でも那由他の声に朴瑠美は合わんぞ。老けすぎじゃ。
 ……とは思うけれど、ナユタが一番感情移入しやすいキャラではあるんだよね。ムリョウは「作りもの」だし。
 個人的にはジルトーシュさんの無責任男ぶりがいいですねえ。サナトス星から送り出されてきた知性体兵器に「サナドン」なんて勝手に名前つけちゃうあたり、マイペースそのものですもんねえ。


 マンガ、宮崎克脚本・高岩ヨシヒロ作画『松田優作物語 ふりかえればアイツがいた!』5巻。
 村川透がこのマンガの取材を拒否したそうである。
 ……潮時ではないのか。
 「伝記」というものは結局はその人物をブランド化する行為にほかならない。実像などハナから描けるはずはないし、ましてやこのマンガは大きな二つのネックを持っている。
 一つはこれが「マンガ」であること。
 映像が残っていない、証言のみからその時の情景を再構築してみても、それは全く別のものにしかならない。ほんの少しの一致も有り得ないのである。
 もう一つは初めから「松田優作美化」のバイアスがかかっていること。
 松田優作の暴力行為が「武勇伝」の一言で片付けられる分析の甘さはなんなのだろう。暴力は絶対いけないなどという教条主義的なことを言いたいわけではない。証言者の「でもそれは彼の優しさ」という言葉をそのまま映像化することがその人物を描くことにつながるのか、という問題だ。
 このマンガはあえて避ける。松田優作の狂気について。
 狂気をタブーにしていて、彼の演技の、人柄の、何を描けるというのか。「シュバイツァーはいい人でした。マル」式の小学生向け伝記のレベルから何歩先をこのマンガは行っていると言えるのか。
 「ヤングチャンピオン」じゃ、もともとこれが限界なのかもしれないけれど。


 マンガ、新井理恵・津上柊子・古館由姫子・古結あかね『世にも奇妙な物語 コミックの特別編』。
 なんちゅーかね〜、画力がなくて構成力もないマンガ家さんにお仕事あげようって企画なのかもしれないけどね〜、脚本がみんな「どこかで見たような」感のあるものばかり選んでるのはなぜだ。
 なぜこう、最初の数ページでオチがわかる原作ばかり選ぶかねえ。


 三連休が終わって、疲れが取れるどころか、増えてるのは何か理不尽な気もするが、しげと結婚したこれが宿命と言うものであろう。
 でも、宿命に逆らうのが人間の道という考え方もあると思うな。



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藤原敬之(ふじわら・けいし)