無責任賛歌
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2001年06月20日(水) |
べとべと、ぬめぬめ、もわああっ/『トガリ』3巻(夏目義徳) |
久しぶりに気分を変えて、日記のバックの色を青から多分緑っぽい色(色弱なんで自信がない)に変える。 前回は不評も多かったけど、今度のはどんなもんでしょ?
今朝も雨がポツポツ。 昨日の土砂降りで背広はぐしょ濡れなまま、今朝になってもまだ乾いてない。 幸い、職場にクリーニングから受け取ってきたばかりの背広を置いたままにしてあったので、向こうに着いてから着替えればいいやと、自転車に合羽で山越え。 殆どサウナスーツを着ているようなものなので、職場に辿り着いた頃には合羽のウラは汗だくである。 いや、行きはいいんだけどね。 帰りは生乾きのその合羽、もう一度着なきゃならんのよ。
昔、大学時代のこと、体育の授業で「フェンシング」を選択していたんだけど、スーツの数が足りなくってねえ、仕方なく前の授業で他人が使ってたやつをそのまま着てたんだけど、これがまあ汗臭いやらハダにべとついてくるやらで、まさに地獄の苦しみ。 あの時つくづく思ったな。 わしゃホモには絶対なれん。 かと言ってなりたいわけじゃないから勘違いしないよ〜に。
最近の合羽、防水が完璧だから皮膚感覚はあの時と全く同じなのだ。 うう、自分の汗でもやっぱり気色悪いよう。
でもそんな思いをしたのに体重は83.6キロ。 ちょっと揺り戻し。夕べ飲んだココアが原因だろうか。
帰り道、川岸を通ると、カラスがカップ麺のカラをくわえて飛んでいるのを見かける。 雑食性と言うのは知ってたが、ホントになんでも食べるんだなあ。
カラスと言えば、マンガなんかでは大抵「アホー」と鳴いている。少なくとも赤塚不二夫のマンガでは確実にそうだ。 実際、「アーホー」と鳴いてるカラスの鳴き声を聞いたこともあるのだが、普通に「カーカー」と鳴いてるカラスと種類が違うのかと思ってたら、そうではないようなのですね。 ハシブトガラスは多種多様な鳴き声を持っているらしく、よく「人の言葉を真似る」というのも訓練すれば出来るようになるのだとか。 逆にハシブトに追いやられて数が少なくなっちゃったハシボソガラスの方は「ガーガー」以外の鳴き方を知らないらしい。 で、その昔の文献を紐解いてみると、『万葉集』にカラスの鳴き声について次の二首が見える。
暁と夜烏鳴けどこの岡の木末の上はいまだ静けし
(「アサー!」って、カラスの野郎が鳴きゃあがるけどよ、この岡の梢の上のほうはまだ全然静かじゃんかよ。)
烏とふ大をそ鳥のまさでにも来まさぬ君をころくとぞ鳴く
(オオウソツキのカラスの野郎がよ、あのひとが来るはずもないのに「来るよ」っ鳴くんだよな。ええかげんにせんかい。)
この二首の内容を信じるなら、既に昔からカラスの鳴き声は「アカツキ」と「コロク(子ろ来=あの人が来る)」の二通りがあったことになる。 確か江戸落語には「嬶(かかあ)」と鳴くってのがあったような気がする。なんにせよ。人語に移しやすかったんだな。
模倣犯と言っていいのだろうか、池田小学校の殺傷事件以来、子供を狙った事件が続発している。 昨日は、東京杉並区の幼稚園に、杖を持った50代の女が、包丁を振り回して乱入しようとした。 今日は今日とて岐阜で、37歳の女が、下校中の女の子に包丁でおなかを傷つけたそうである。 昨日になってようやく池田小学校はマスコミに対して「過剰な報道は自粛してほしい」と申し出たそうだが、今更、素直に言うことを聞く報道機関があるものか。 そのニュースを伝える「ニュース23」自体、またぞろ「報道の義務が」などと自己弁護の苦しい言い訳をしている。 てめえらに義務なんてねえよ。 ネットをいろいろ覗いてみても、批判めいたことを言いながらも、実はみんなこの事件を楽しんでいるのだ。 犯人のことを「タクマくん」などと愛称で呼んでいるのがその証拠だろう。
ネット上における無自覚な悪意を私は否定はしない。 まさしくそれは、一般的な表現媒体には表れにくい、「時代の潜在意識」とでも言えばよいようなものだからだ。個人の場合と同じく、時代のそれもまた、単純に「いい悪い」で査定していいものではない。 その「悪意」は、後の時代から見て、この時代の人間が、「他人の不孝を精神的な糧として生きていたのだ」という事実を確認するための、何よりの証左となるのだ。
だからと言って、私ゃあの犯人を「タクマくん」なんて呼ぶ気にゃ絶対になれん。 別に善人ぶってるわけじゃないよ。 オノレの「悪意」をコントロールできない人間にシンパシィを感じなきゃならん義理はないだけの話だ。
マンガ、夏目義徳『トガリ』3巻読む。 またタイムリーにも、主人公のトーベエが通り魔殺人犯を追いかける話。タイムリーすぎて、自粛とかさせられないか心配だな。 ついにトーベエ、子供の命を助けてしまう。しかし「咎」を倒すことの出来る木刀「咎狩(トガリ)」は、「悪」を力に変える刀。人を助けたトーベエは「咎狩」を操る力を失ってしまう。 この二律背反な設定を作者はまだうまくコントロールしきれていない。でもだからこそ一つ山を越せれば俄然面白くなりそうな予感はある。 地獄の統率者エマの「扉の向こうにあるのは希望か絶望か」というセリフ、ありふれてはいるが、まさしく「咎狩」の設定はそこに収斂されてゆくべきものだろう。 ここまで話を広げたのである。作者には、悪を倒すのに、愛と正義では足りないものなのか、生きることはより強い悪を求めねばならないことなのか、あまり小ぢんまりとまとめずに答えを出していってほしいものである。 ちゃんと百八つの「咎」を倒した先に何が見えてくるのか、『どろろ』みたいに尻切れトンボにならないようねがうものである。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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