無責任賛歌
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2001年03月13日(火) |
少女しか愛せない/『NOVEL21 少女の空間』(小林泰三ほか)ほか |
仕事帰り、坂道を自転車漕いで登っていると、後ろから追い越してきたバイクのヘルメットがぽ〜んと飛んで、私にぶつかりそうになった。 いや、軽く書いちゃいるが、マジで危なかったのだ。坂道は結構急勾配で、片側は工事中で深い溝があり、しかも西日が真正面から照らしていて、視界がホワイトアウトしていたし。 でも目が悪くいつ危ない目にあってもおかしくない私が今まで殆ど事故にあったことがなく、注意深い女房の方が事故にあうというのは、やはり日頃の行いの差というものであろうか。
テレビで『伊東家の食卓』を見ていて、女房と口喧嘩になる。 私はこの番組、ああ、こういう裏ワザあったのか、今度やってみよう、とか、なんでこんな面倒臭いもんに鐘鳴らしてんだよう、とか思いながら見るのが好きなのだが、女房は大っ嫌いなのだそうだ。 「なんで? 結構役に立つじゃん」 「シロウトが妙にカッコつけて喋ってんの見るのヤなんだよ!」 確かにテレビが素人に侵食されて行く状況と言うのは見てて面白いものではないが、これは別にそれを見るための番組じゃないと思うけどな。 更に『踊るさんま御殿』見ていて口論。「妙にハラハラしてしまった時」という題を見て、 「俺たちもしょっちゅうまわりの人をハラハラさせてるよなあ」 と言うと、女房、 「なんで?」 とキョトンとしている。 「『なんで』って、よくバカやるんで、みんなの前で喧嘩になりかけたりするじゃんか」 「あんたが?」 「お前がだ!」 ……自覚がないやつはこれだからなあ。 そう言えば先日、練習の帰りに、鈴邑君の新車のテールランプを見て、「これって、遠ざかるから赤く光るの?」 と聞いてた。 ……車のライトが「ドップラー効果」起こすか! もちろん、このギャグはあさりよしとおのマンガ『がんまサイエンス』がもとネタだが、女房はアレを真実だと思いこんでいたのである。ウソではない。女房の天然ボケは軽く西村知美や釈由美子を凌駕しているのだ。
徳間デュアル文庫『NOVEL21 少女の空間』読む。 「少女」というキーワードが物語のオルガナイザーとして機能し始めたのは、80年代のロリコンブームを経てからだろうと思う。 いや、もちろんそれまでにだって少女を主役とした小説や映画、マンガは数限りなく作られていたわけだし、印象に残る少女キャラクターは少なくなかった。 『若草物語』は、『不思議の国のアリス』は、『秘密の花園』は、『少女パレアナ』は、と、一世を風靡した少女たちを思い浮かべるのは簡単である。 けれど、それら外国文学の少女たちと、わが現代日本の「少女」たちとは何かが微妙に違う気がする。いずれは大人になるはずなのに、なぜか少女は少女のままで永遠にあり続けるような……そんな幻想を少女たちに対して私たちは託してはいないか。 『少女の空間』とはよくもつけたタイトルだと思う。少女にとって時間はあまり意味を持たない。そこにあるということ、空間をいかに占有するかということ、そこに少女たちの価値はあるように思うからだ。 ……なんかワケのわからん前振りしちゃったな。んじゃ一作ごとに感想など。
小林泰三『独裁者の掟』 うひゃあ、こりゃまた、とんでもない傑作が生まれたもんだなあ! 冗談ではない、これくらい一読して感嘆し、一文一文を吟味するように味わい、何度となく読み返しては心が打ち震えるのを感じたのは、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』短編バージョンを読んで以来のことだ。 この短編集のコンセプトは、「ハイブリッド・エンタテインメント」、つまりは異なるジャンルの「混血」を目指したものだ。過去の作品の中で例をあげればアジモフの『鋼鉄都市』みたいな「SFミステリー」がそうで、本作もその流れの上にある。 混血が差別されるのは世の常で(うわあ、危ないこと言わはる)、「SFミステリー」は、SFファンからもミステリファンからも「邪道」扱いされてきた嫌いがなきにしもあらずだった。 しかし、そういうコテコテのSFファン、ミステリファンでも、この作品にはきっと納得するに違いない。今年の星雲賞短編部門最優秀作がこれでなかったら、私ゃ世のSFファンの目を疑うぞ(ああ、またなんて挑戦的なコトを……)。 ストーリーは、一人の少女が世界を支配する独裁者の総統を倒す話なんだけど、構成と叙述の妙が絶品。全短編の中で、この作品だけが少女が大人になることの意味を問うている。 多分、少女は少女であるということだけで「罪深き存在」なのであって、それを償うために大人になるのだ。世の少女たちがみなその業を背負って生きているのだとすれば、彼女たちの居場所はこの世のどこにもないということになる。 少女である証を渡された少女もまた、新たにその業を背負ってしまったのだ。その事実は、あまりにも切なく、悲しい。
青木和『死人魚』 『インスマウスを覆う影』と『猫目小僧・妖怪水まねき』を足して2で割ったような作品。と言っても出来は悪くない。 現代の怪異談として、うまく纏まっている。
篠田真由美『セラフィーナ』 本アンソロジー中、唯一の女性による「少女」の小説。 「ロリコンブーム」以来、「少女」を語るのは常に男だった。しかし男がどんなに少女の「秘密」を解き明かそうとしても、そこに予め「少女」と言う括りがある以上は、男の描く少女像は常に幻想が実体に先行してしまう。 「『少女』は一個の絶望である」と作者は言う。この一言で目からウロコが落ちた。「少女」とは文字通り「女」ですらないのである。異形であり、フリークスであり、男たちは明らかに少女を玩具化していながら、それを幻想のオブラートに包んで誤魔化していたのである。 昔、大林宣彦の映画にハマリつつも何か胸がむかつくような居心地の悪さを感じていたが、その正体にようやく気がついた。『はるか、ノスタルジィ』で石田ひかりは「少女をなめんじゃないよ」と嘯くが自分自身を「少女」と語ることが何よりの欺瞞だった。 少女であることの苦しみなど、大林宣彦にはカケラも理解できていなかったに相違ない。 だから少女は常に心に武器を持つ。男に弄ばれ、嬲られ、苛まれて、何一つ抵抗できずに、ひたすら媚びるしかない立場でありながら、それでも男にはむかう武器を心に持っているのである。 本作ではそれが実にイヤなかたちで具象化されているが(^_^;)、確かに少女はああいうモノも持っちゃいるなあ、と納得させられてしまうのであった。 そうだよね、天使って、飛鳥了なんだよね。
大塚英志『彼女の海岸線』 さて、本家本元「ロリコンマンガ」のパイオニアの一人、白倉由美作品のノベライズ。と言っても私は原作の方は読んだことない。 日本には昔から「マレビト」の伝説が伝わっている。つまり「異界」からの来訪者である。本作のヒロイン未生も、「キツネ少女」という設定からして、正しくそのマレビトにほかならない。 彼らはみな、どこか(たいていは海の彼方か山の奥)からフラリと現れ、幸運を与えたあと、去っていく。『古事記』の少名彦名命や豊玉比売に始まり、民話の『鶴の恩返し』に至るまで、異界の住人たちは「どうしてそこまで」と言いたくなるほどに人間に尽くしてくれた末に去るのだ。 いや、そもそも彼らはなぜ人間界に来なければならなかったのか。伝説はたいていその理由を明かさないが、実は明かす必要がないのだ。それは彼女たちが「少女」であること自体にあるからだ。 男は一度は少女を抱かねば男にはなれないのだ。いみじくも本作で「ライナスの毛布」と譬えたごとく、「少女」とは男にとって「支配できる母親」に違いないのだから。
二階堂黎人『アンドロイド殺し』 このアンソロジー中、最低の作品。しかも他の作家とのレベルがあまりに違いすぎるほどの駄作。 編集者もこの作品の扱いに困ったのではないか。巻頭にはとても置けないし、あまり前の方に置いたのでは、読者が脱力して、あとの作品を読む興味が失せてしまう。トリを取らせるなんてとんでもない。最後から二番目に置かれているのが、編集者の苦衷を思わせるではないか。 題名見ればわかると思いますが、これ、アガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』のパロディーなんですよ。つまり犯人が○○○ってやつで、まさかそのまんまじゃないだろうなあ、と思ったらそうだった。 それだけじゃ芸がないから、もう一つどんでん返しつけるんじゃないかなあ、でもそれがまさか「○○、○○○は、○○○○○○」って結末じゃねえよなあ、と思ってたらその通り。 断定してしまおう。この作家はバカだ。この人、手塚治虫ファンクラブの会長だった経歴があるが、どうもマンガ的な感覚で小説を書いてるんじゃないかって感じがする。というのが、構成の破綻の仕方が手塚治虫そっくり(^_^;)。 前半のSF部分が結果的に無意味なあたり、サービスでいろんなエピソード詰め込みすぎて構成が無茶苦茶になっちゃう手塚さんの癖そのまんまなんだものな。それでも手塚さんの場合はマンガだから読めるが、小説でこれやっちゃ馬鹿晒すだけだよ。 アンソロジーってのは恐いんだよね、作家としての力量が他作家とモロに比較されちゃうから。それにしても、SF作家がミステリーを書くと佳作をものにするのに(アジモフの『黒後家蜘蛛の会』や筒井康隆の『富豪刑事』)、ミステリー作家がSF書くと駄作しか書けない(高木彬光の『ハスキル人』とかな。山田風太郎は例外)のはなぜ?
梶尾真治『朋恵の夢想時間(ユークロニー)』 「ユークロニー」って初めて聞く単語だぞ。「夢想時間」ってどういうことだ。小説の内容から判断すると、過去の心的外傷みたいな感じだが。哲学か心理学用語なんだろうけど、そうなるとその辺の哲学事典か何かを調べないと分らんのだろうか。 過去の過ちを時間遡行することで償おうとするパターンはよくあるし、それを時間それ自体が妨害しようとするってのも、ありきたりといえばありきたりなんだけど、空間が変形し溶解していく描写でぐいぐい読ませる。 それにしても梶尾真治がSF短編集のトリを飾る時代になったんだなあ。と言っても梶尾さんも五十歳過ぎてるんだから当たり前だけど。
CSで映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』見る。 なんと監督があの『朝生』の田原総一郎だ。一応清水邦夫が協力監督してるけど、70年代の青年たちが自らの肉体と言葉をもてあまし、にもかかわらずその無力さに打ちひしがれて沈黙して行く過程を象徴的に描いていて面白かった。 石橋蓮司が若い。そしてよく喋るのがいい。 加納典明が若い。そして全く喋らないのがいい。 桃井かおりがいい。モノクロ映像のせいかも知れないが、こんなに美人だったかなあ。 でも漂泊の果てに言葉を捨てた彼等が若き日の田原氏だとすれば、今の田原氏、なんであんなに喋ってるのか(^o^)。
仕事でくたびれ果てていたので、電気を消してぐっすり寝ようとしたら、女房が「恐いから電気を消すな」と言う。 日ごろ「電気代がもったいない」と言いながら、夜は電器点けっぱなしでないと眠れんというのは矛盾してないか。 構わず部屋を真っ暗にして寝る。女房の悲鳴が多少うるさいが10秒で私は寝付くので関係ない。おかげで久しぶりに7時間眠れました。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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