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■ 東京浮遊くじらの考えごと。
東京の地下鉄に乗ると、営業時代のことを思い出す。よく、広尾だの渋谷だの新宿だのって地下鉄に乗っていた。そして、車内には会社員の姿がたくさん。いかにも営業らしいのも。
会社にいるころは、もちろんストレスが数え切れないほどあった。夜遅くまで働いたり、顧客にわけのわからないことを言われてこき使われたり。
わたしはずっとアフリカ研究や国際協力の世界で勉強してきて、でも仕事がなくて結局は一般企業の営業社員になった。今まで努力してきたことを何一つ役立てられず、しかもそのような世界が存在するとは夢にも思わないような世界で大変な仕事をするというのは、ものすごいストレスだった。
しかしその一方で、会社員というのは楽だと思う。 つまり、目の前の仕事を一生懸命にこなしていればそれで良い。その意味では、わたしが会社員だった時期は楽だったのかもしれない。すくなくとも、いちおう組織に「所属」していたのだから。
会社を辞め、やっと国際協力シンクタンクの仕事を得、その後ジンバブエ行きの二年間の仕事をした。 あの、東京の地下鉄に乗っていたときに比べれば、それは格段の進歩だ。
しかし思う。
わたしはいま30歳で、今年12月には31歳になる。 仕事、不器用なりに一生懸命頑張ってきた。もちろん、仕事には嫌な上司や顧客はつきものだし、雑用もつきものだ。それもよくわかっていたつもりだ。それらにつきまとうストレス。それでも、自分に与えられた仕事をこなす、ということも。
だが、その「ストレス」や「我慢すべきこと」が、どうしてもどうしても納得のいかないことだったらどうだろう。 もちろん、顧客に奇妙な注文つけられてどう考えてもおかしなサービスをわざわざすることはある。上司がそういう注文の相手の場合もある。 まあ、少なくともそのことで死人が出るわけではないと思えば、目をつぶることができるかもしれない。
だが、昨今のミートホープや不二家、白い恋人の例をみてみると、それらの「上司の圧力」というのが極端な形で出てきたもの。会社という組織は、ときにそういう社会的不正義を隠蔽して、押し通してしまう。そして部下たちは何も言わずに従うしかない。やがてそれが当たり前となり、感覚が麻痺してしまう。 そして、それはひとの健康や、ひいては命が関わってくる重大な問題になってしまう。
社会的不正義が、隠蔽ではなく、むしろ「正義」としてまかり通り、大量の金が投下されている例もある。それがわたしの経験したことだった。 そして、そのことが当たり前となり自分は「悪」となり、そこには悪意たっぷりの「嘘」が存在する。そしてそれを、「圧力」で「正しいこと」にしてしまう。正義感たっぷりの言葉を使って、書き換えてしまう。
「仕事を一生懸命、全身全霊頑張る」ということはどういうことなのだろう。
「目の前の仕事に一生懸命取り組む」ということをした結果、わたしは陥れられた。そして、それは「正義」となった。隠蔽より悪質だ。
もう、どうやって「仕事」を頑張ったら良いのかがわからなくなってしまった。
仕事をするということは、「不正義」に耐えなくてはいけないことなのか?そこに、アフリカの普通の市民の生活がかかっているのだとしたら?それを破壊する可能性があるのだとしたら?何億円ものお金をどぶに捨てるのだとしたら?そういう真実に触れたら「悪」になって陥れられるのだとしたら?
仕事のストレスに耐えるというのは、いったいどこまでのことを指すのだろう。
そしていまのわたしは、自分が何をしたいのかがちょっとわからなくなって途方にくれている。国際協力も、もちろん重点的に関わってはいくが、わたしの中ではちっとも答えなんかじゃない。
ごく普通の人たちが、アフリカのことを考えてくれるように願うことは一緒でも、プロフェショナルとして結局何をすべきなのか。その答えが出るまで、きっと長い長い時間がかかるだろう。でも、わたしは、「内と外」という考え方を持ちたくない。援助を答えにしたくない。お金はもらうものではなくて、稼ぐものだ。そして、アフリカは「貧しい」わけじゃない。アフリカはひとつの国ではない。外交は、国民を犠牲にするものであってはならない。
そういうことを、とりとめもなく考えている。
ベリーダンス教室に行く地下鉄の中、霞ヶ関を通りながら。
2007年08月29日(水)
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