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■ 他人の心を傷つけるとき。
無意識に他人の心を傷つけているというのは辛いことであるといったような趣旨の文章を、村上春樹の『ノルウェイの森』で見たように思う。 村上春樹の文章はいままでわたしの心のどこかを刺激してとても落ち着かなくさせたけれど、このところ、逆になんだかあのディテールの表現が、わたしをきちっとさせるのである。自分の人生に対して。
最近、誰かと心が行き違ってしまった。 それは、二週間ほどまえのことである。
約束をしていたけれど、それを反故にされてしまった。というより、ずっと前から言っていたのに、相手に答えをずるずると引き伸ばされ、結果として当日キャンセルにされてしまったのである。 わたしはこのことで、ひどく虚しい気持ちになってしまった。
不器用なのである。こういうとき、正面から打撃を受けてしまうわたしは、ときに愚直に誰かを信じて、それを待ってしまうから。だから、不必要に振り回される。傷つく。 それでも、相手から「イエス」が返ってきたときのために、相手を傷つけないようにと、わたしは予定を空いたままにしてしまうのである。
彼は、わたしがすっかり怒ってしまったものと思い込んでいるようす。人づてに聞いた。
でも、わたしは怒っていない。 ぽっかり空いた土曜日の予定には、虚しさや哀しさが入り込んでしまったけれど、そしてそのことでわたしはかなりふさぎこんでしまったけれど、それでも大切なことがある。わたしは彼を嫌いにはなれないのだ。
わたしは他人の心にずんずんと入り込んでしまうような人間である。 そして、特定の色んなひとと、深くお付き合いをしたいと考えている。ときにそれは、他人に対してある種の壁を作ったり、心をなかなかひらけないタイプの人間にしてみれば、余計なお世話というか、心に土足で入り込まれたような印象を受けてしまうのだろう。
そしてその彼は、その種のタイプの人間であるのかもしれないと、わたしは思う。心を開いてくれない、それでも表面的にはとても明るく面白いタイプのひと。でもほんとうはとても真面目。
反省すべきはむしろわたしで、その行為を謝るべきなのかもしれない。
ひとは、あんないい加減なヤツに振り回されるなんて馬鹿ね、と言う。 たしかに、いい加減である。 でもわたしは、このようなことで誰かを嫌いになったりはできないのだ。もっともっと、本質を知りたいと思ってしまうのだ。
丁寧に、ことばを選んで手紙を書いてみた。 ほんとうに、時間をかけて慎重に。
エゴかもしれない。押し付けがましいのかもしれない。 でも、人づてに彼が「もう、(怒らせちゃったから)彼女(わたし)とは二度と会えないでしょうね」と茶化していたということを聞くと、やっぱりそれではだめだと思ってしまった。 人間関係は、やはり努力して修繕したいと思うのだ。わたしが怒っていなくて、こういうことを考えているということを伝えたいと、あなたを嫌いになったり見限ったわけではないと、言ってあげたいのだ。
いままでは、情熱のままに突っ走って生きてきたわたしだけれど、最近では少しずつ落ち着いて物事が考えられるようになってきた。まえより孤独になってきたけれど、自分のために生きることができるようになったし、物事に少し丁寧に向き合えるようになってきた。 だからもちろん、電話もかけないし、この「サイレンス」を壊さない。 できるだけ静かに、気持ちを伝えたい。
わたしは彼から何も求めない。
返事もリアクションもいらない。それは自己中心的で一方的なのかもしれないけれど、関係はひとりではなく二人でつくるものなのだから、わたしはそれを手付かずにおいておく。何も求めない。それはある意味、ずるいのかもしれないけれど。
残りの任期をがんばってください、真面目なあなたのことだからしっかりやるでしょう。良い雨が降りますように。 そう締めくくった。
郵便事情が悪いので、たぶんわたしははるばる片道一時間半もドライブしてこの手紙を届けるんじゃないかと思う。こっそり、会わずに。次の週末に。
やっぱりわたしは、ときにすこしおせっかいなくらい、誰かとの関係を真剣に築きたいのだ。受け止めてもらえないのならば仕方がないのだけれど、それがわたしの付き合い方だ。
ときに、『ノルウェイの森』の「僕」は、何となくわたしの弟に似ているんじゃないかと思う。ねじを巻く生活をしているところ、テーブルや何かを作るところ、ぬかるみのなかに生きているところ。 「僕」をもう少しギターの上手い音楽青年にすれば、かなりわたしの弟に近くなるんじゃないかと思う。
今日わたしが丁寧に手紙を書いた相手の彼は、その弟と同じ歳である。
2007年02月18日(日)
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