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第4章 (4) 聖と俗
熱意が一線を超えるとき、人はゆさぶられる。他者のものであれ、己の内奥からわきあがるものであれ。そこにはある種の抵抗できない力が働く。ときにその熱は、天界と下界の落差にも似た、聖なるものと低俗さに分離することがある。往々にしてその二つは隣り合わせとなって、作品を彩っている。
今夜はなにか野性的な奔放な魅力が漂っておりそれにエミリーの性質の底深くにひそんでいる野性的な奔放な気質はひきつけられた──気持ちのおもむくままにあるきまわりたいという気質──ジプシーと詩人と天才と馬鹿の持つ気質である。
「エミリーはのぼる」
エミリーのこの野性は、モードから受け継いだ気質だといえる。いずれにしろ衝動にはあらがえないのである。馬鹿さゆえか、天賦の才ゆえか、それが問題といっているようでもあり、その聖なる衝動を持つ器に、等しく貴賎などないと、いっているようでもあり。
古い迷信によれば神々はあまりに幸福な人間を見ることを好まないという。少なくとも或る人間がそうであることは確かである。そういう種族の二人が或るすみれ色のたそがれどきにアンのところへくだって来て、虹の泡のようなアンの満足を突き破りにかかった。
「アンの夢の家」
こちらは俗物の典型的種族「うわさ話族」が、聖なる高みをさまよっていたアン・シャーリーの空想を粉砕させるエピソード。狙いたがわず、アンの満足は突き破られ、現実の世界へと引き降ろされる。しかも、彼らは神の使途としてくだってきた、というのが心憎い。「ヨセフを知らぬ一族」とでも呼ぶべきか、そういう輩に対して、自分もこのように理解ある態度でのぞめれば、とも思う。
「アンの夢の家」で美女レスリーのとりこになる作家のオーエン・フォードは、レスリーを祭り上げている。美しい風景を愛でていたアン・ブライスとの会話のなかでつい、「多分、われわれの内に閉じ込められた無限性があの肉眼で見得る完全性の中に表現されている同類の無限に呼びかけているのかもしれませんよ」(/「アンの夢の家」)などと熱っぽく語ってしまうのだが、間隙を与えず現れたミス・コーネリアに、「あんたは鼻かぜを引いたらしいですね。休むとき鼻に牛脂をすりこむといいですよ」と一喝され、場はなごむ。これも聖と俗の隣り合わせの面白さである。オーエンの聖なるレスリーは、何年も後に、こんな洞察を示している。
レスリー・フォードはウォルターを見て天才の顔だと思った……別の星から来た者のようなはるかなかけはなれた表情だった。地上はそのすみかではない。
「炉辺荘のアン」
アンの息子ウォルター・ブライスは幼い頃、『透視力』があるという評判のキティ・マグレガーおばさんによっても、「幼い体に宿る老人の魂」と宣告されている。感受性が強く、芸術的なウォルターは、それだけではなく、聖なる役割を持って生まれたかのようだ。アンの他の子どもたち、いかに個性的でいたずらっ子であっても、世俗的な子どもたちとは明らかにちがっているウォルター。アンの家庭のなかにも、聖と俗は光と影を織りなしている。
そのウォルターが子どもの頃、こんなことをいっていたという。
一人の気違いも養い得ない家庭は、貧しい家庭である。(/「アンの村の日々」)
「アンの村の日々」は、アヴォンリーをはじめ、近隣の村の人々を描いた短編集。炉辺荘に住むアンの家族と交流があった主人公の男性が、この言葉をウォルター・ブライスがよく引用していた、と思い出を語っている。この言葉は私にとっても一生ついてまわる、忘れられないものとなった。
さて、「模倣はもっとも純粋のお世辞だ」というわけです。
アン・シャーリー/「アンの幸福」
※模倣は最も純粋なへつらい(傍点)である。 コルトン/「ラコン」より(世界名言大辞典/梶山健編著/明治書院)
誰か親しい人が持っていた素敵なものやおしゃれのセンスを、堂々と真似することは、相手によっては不快感を与えてしまう。人は見え透いたお世辞を言われると敵意を感じることすらある。お世辞とは、高等テクニックをもって周到に放つべき、あるいは天真爛漫に衝動的に放つキューピッドの矢である。しかしこのアンの場合は、長く敵対していた名士のプリングル一族が負けを認めてアンの旗を掲げたのであるから、アンは勝利を喜んで当然だろう。一族の娘たちはこぞってアンの髪型を真似したのだった。
今じゃわたしは葬式のほかはあまりどこへもいかないからね。葬式には必ずどうにか都合をつけて出かけることにしているのだよ。いろんな人に会えるし、新しい噂話がのこらず聞けるからね。
小さなエムおばさん/「丘の家のジェーン」
人生最後のおごそかな別れの儀式は、それゆえに得るものの多い貴重な機会ともなりうる。老いたエムおばさんにとって、いわばお葬式は最大の娯楽なのだ。行かなければ損をする。クリスチャンらしからぬ俗物的な発言だが、エムおばさんは良い人なのである。同じように、葬式だけには万難を排して出かける人々が多いんだよとほのめかしている。そんな彼女も自分の式には生きて出られない。
「もつれた蜘蛛の巣」に登場する陽気な美少女・ゲイの母親、ハワード夫人は、まさに聖女。態度に計算や裏表がなく、ただ微笑むだけでどんな議論にも勝ち、知識よりも愛情と料理の才能に秀で、人が、美しい自分だけの秘密でも、この女性にだけは話したいと思わせる。対するベッキーおばは、一族の情報屋で計算高い女だったが、そんなわけで、ハワード夫人のほうが俗世に精通しているベッキーおばよりも、たいていのことを先に知るのだった。もちろん、ベッキーおばは情報戦に出し抜かれたことを知らず、ハワード夫人は勝利など意識したこともない。
「いつか父さんがこのバイオリン(※イタリー製の逸品)には魂があって、前の世に生きていたときの罪ほろぼしのために働いているのだと、言ったのを覚えてるの」
フェリクス・ムーア/「めいめい自分の言葉で」(短編集『アンの友達』より)
この作品は、モードの作品のなかでも異質である。重病のナオミ・クラークは、地獄を恐れ、さらに神の前に立つわが身の罪深さをいっそう恐がる、老いた売春婦。その「時」を彩るのは、天使のような少年フェリクスの奏でるヴァイオリンの天国と地獄、ナオミの世話をする白痴の少女、ナオミに宗教のなぐさめを与えられない老牧師の改悛、一生を棒に振った飲んだくれの年寄り。「自分の言葉で」とは音楽をさしている。音楽への愛だけは持ちながら、俗物でしかなかったという演奏家と、その父から音楽への愛のみを受け継ぎ、神に天分を授かった息子フェリクス。老牧師は愛する孫がヴァイオリンに触れるのを世俗的な理由で禁じ、孫は祖父への愛のため、従おうとする。
聖と俗を描き、また、モードが藝術の天分を持つ者のやむにやまれぬ衝動と周囲の不理解、そして音楽の力についてこれだけ多くを語った作品は他にないのではないだろうか。聖と俗、笑いと涙を光と影のように配し、完成度の高いこの短編は、むしろアンの世界(1シーンだけ登場する)とまったく離れた、中篇のような形で読ませてほしかったとも思う。もっとも、多くの大衆小説が手段として用いる、扇情的で対比の明確な道具立てにおぼれ過ぎることは、モードのプライドが許さなかったのかもしれないが。
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