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第4章 (2) ヨセフを知る一族
アンはつね日頃、自分と同じ型の人物をさがしだす手をゆるめなかった。
「アンの青春」
この言葉はアンの本質を突いていると思う。そういう仲間を探すことにかけて、アンの熱意を上回るヒロインはいない。魂のグループとでも呼ぶような存在。とりわけ少女時代のアンが好んだ友愛の表現は、バーリー家の庭でダイアナと出合った瞬間に永遠の誓いを立てた「腹心の友」(bosom friend/ボソム・フレンド)という呼び名。これは村岡花子氏の名訳だが、いわゆる親友を指す。孤児だったアンが初めて想像の世界ではなく現実の世界で得た友ダイアナは、幸運にも生涯の友となった。
アンは、想像力や笑い、思いやりといった特質を通じてわかり合える関係を「同類」('kindred spirits'/キンドレッド・スピリッツ)と呼び、大人になっても熱をこめて使っている。アンが熱心に探している「自分と同じ型の人物」を広くとらえれば「同類」で、さらに絞れば「腹心の友」となるのだろう。どちらも英語では一般的な表現といえる。
そうした「わかり合える」人種のなかでもオリジナルかつ崇高なのが、同じくアン・シリーズにだけ出てくる「ヨセフを知る一族」である。しかし、これはアンの発明ではない。作中でアンはこの風変わりな呼び名を、新婚時代を過ごしたフォア・ウィンズの「夢の家」の隣人、ミス・コーネリアから教わり、以後愛用するようになった。ミス・コーネリアも「同類」のひとりである。同じく夢の家の隣人でこの種族に属すると自他ともに思われている老ジム船長によれば、徹底的な女権論者のミス・コーネリアは世界中の人間を二種類に分けているのだという─ヨセフを知る一族と、知らない一族に(あるいは男と女に)。価値観が似通っていることがまず大切だが、同じ冗談で笑い合えるというのも大きな素質らしい。
「礼儀上そう言って下さるのですか、それとも心からそう言って下さるのですか?」 と、ミス・コーネリアは訊きただした。 「心からですわ」 「それでは御馳走になりましょう。あんたもヨセフを知っている一族ですね」 「わたしたち仲好しになれると分っていますわ」 と、アンはおなじ信仰の者同士にしか見せない微笑をうかべて言った。
「アンの夢の家」
ここだけを読めばアンも神がかっているように見えるが、実際、「ヨセフを知る一族」(the race that knows Joseph)は聖書に由来する、やや込み入った話である。私もずっと意味を確かめないまま読み流していたのだが、ヨセフの物語は次のような展開をたどる。
ヨセフとはイスラエルの祖・イサクの孫で、イスラエルの族長ヤコブの11番目の息子。ヤコブが最も愛した妻、ラケルの最初の子である。旧約聖書の始まり、「創世記」に登場する。「夢見る者」と呼ばれ、夢判断や予知夢をする力があったとされる。父に寵愛されたヨセフは、10人の兄たちの嫉妬を買い、17歳でエジプトへ売られ、王の側近の奴隷となった。ここでも女性の罠にはまり牢につながれるが、一芸身を助くで、夢見の力によってエジプト王パロの夢を解き明かす。やがてヨセフは30歳でエジプトの宰相に出世。そして7年の豊作とそれに続く7年の飢饉を予知し、食料を蓄えたおかげで、エジプトだけは飢えを免れた。
近隣諸国の人々がエジプトに穀物を求めて押し寄せ、ヨセフの兄たちもエジプトへ穀物を買いに来る。何度か兄たちに再会したヨセフは、最初は彼らを「回し者」と呼んだ。しかし、懐かしい父や同じ母から生まれた末弟に免じて兄たちに温情をかけ、弟のヨセフであることを告白し涙ながらに和解する。自分がひとり先にエジプトへ来たことも、すべては神のご意志によるもので、それによって一族の危機を救えたのだと。
さて、ヨセフは一族を飢饉の続くイスラエルからエジプトへ呼び、住まわせる。「創世記」はヨセフの死をもって終わり、続く「出エジプト記」では、「ヨセフのことを知らない新しい王」によって、イスラエル人がおびやかされるところから始まる。神の啓示を受けたイスラエル族のモーゼが、ヨセフの遺言通り、遺骨をイスラエルのシケムへ葬るため、一族を率いてエジプトを脱出し、数々の奇跡の後に、約束の地へ導かれる物語である。当時エジプトでは数の増えたイスラエル人を排斥する機運が高まり、重労働や差別に苦しむイスラエル人は、ヨセフに招かれて以来430年住んだエジプトを、神の庇護を受けながら、命からがら脱出するのである。これはイスラエルという12の民族が、一つの国家としてまとまる過程を12人の兄弟を通して描いているといわれる。
と、こうして読んでも、「ヨセフを知る一族」とはどういう比喩なのか日本人にはぴんとこない。ここで気になるのは「ヨセフのことを知らない新しい王」という部分である。ヨセフの死後、時代が変わって、ヨセフを知っているのはイスラエルから移住した人々しかいないという状況になる。となれば、聖書ではイスラエルの民が「ヨセフを知る一族」、つまり、異国でしいたげられながらも神の愛に庇護され、約束の地を与えられた「選ばれし者」ということになる。ミス・コーデリアのいう「では、あんたもヨセフを知る一族ですね」という言い方にもユーモラスな選民意識が感じられるから、この解釈で良いのではないだろうか。熱心なクリスチャンであるミス・コーネリアならではの、そして彼女のパーソナリティならではの風変わりな比喩なのだろう。
パーカー医師と父は大の親友であったが、母のほうはパーカー夫人なしでも少しもかまわないのだという気がウォルターはときどきした。六歳でもウォルターはアンが認めているようにほかの子供たちにはない、ものを見る力があった。
「イングルサイドのアン」
そう、つまり、パーカー夫人はアンの同類でもなければ「ヨセフを知る一族」でもないというわけである。だから必要以上に近づく必要はないし、わかり合う日は永遠に来ないのだ。人間を人種や性別や階級ではなく、同類であるかどうかで分けるという傾向は、ヒロインのなかで最も社交的といえるアン・シャーリーにおいて顕著である。建前と本音でいえばそれは本音であり、これほどの拒絶はないとも思えるが、心配しなくても、わからない人には密かに拒絶されたことすらわからない、その方が世界は平和であるというのがモードの得た教訓なのかもしれない。
その美しさにパットは胸が痛くなるほどだった。
美のよろこびに 苦痛すらおぼえる。
という人種のひとりだからである。
「パットお嬢さん」
銀の森屋敷のパットは芸術肌ではないし、同類を具体的に選別しはしないが、やはり人知れない美しいものを、数少ないわかり合える人とだけ共有したいという熱意をもっている。そのおかげで、その相手に大事な人ができるとショックも受ける。普通に考えれば、最も付き合う人を選びそうな芸術家のエミリー・スターがそれをしないのは、ある意味で彼女の人生には嘘がなく、自分以外のものにはなれないし、そもそも、不本位な社交にかかずらっている余裕すらないというのが実情かもしれない。エミリーの選民意識は、感性ではなく、文字通りの選民意識に凝り固まった同族への自負と嫌悪に向けられている。 ともあれ、私たちの大多数は、そうやって人を振り分けて生きているわけである。アンが好きかどうか、モンゴメリが好きかどうかというのもフィルターになる。共通の好みがあれば、同類である確率は高まる。変えられない「感性の基準」にくらべれば、人種の違いなど何ほどのことかとも思える。アンと同じく、私もこのタイプなのだろう。ただし、アンほどの熱意があるかといわれると、社交的には消極的なのだが。
腹心の友って、あたしが前に考えていたほどぽっちりじゃないわ。この世界にたくさんいることがわかって、うれしいわ。
アン・シャーリー/「赤毛のアン」
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