|
第2章 (4) コメディの趣向
コメディの要素もまた、モードの作品を彩る重要な絵の具である。何度も読み返す愛読者にとっても、意図した笑いの効果が期待できる。それはときに唐突なまでに意表を突き、嘆かわしいほど現実的ですらある。ヒロインたちの自立への苦闘も、世界一美しい島の描写も、思わず吹きだしてしまうようなペンのくすぐりとともに描かれてこそ、さらに魅惑を増す。 「…いいかね、手摺りをすべりおりたりするんじゃないよ」 しかし、これを聞くと、一寸の虫にも五分の魂で、ポーリンもおさまりかねた。 「母さん!わたしがそんなことをすると思いますか?」 「ナンシー・パーカーの婚礼のときにしたじゃないか」 「三十五年も前のことじゃありませんか?そんなことを今すると思うのですか?」
「アンの幸福」
ただし、「青い城」の主人公ヴァランシーは29歳でそれをやってのけたが。このシーンは、最近のアンの映画でも使われていた。モードのご子息スチュアート・マクドナルド博士によれば、モードはよく書斎で執筆しながら、独り言をつぶやいたり笑ったりしていたという。自分の創りあげる世界の住人達が、ときには自分勝手にこっけいな発言や行動を巻き起こす、そんな創造の火花に触れるとき、笑い声は自然に発せられるのだろう。
モードに限らず、ものを生みだす人々は皆、独りで悦に入って創作している自分の表情を第三者の目から見られることは遠慮したいと願っている。そんな陶酔的態度は狂った人のように見えると知っているから。創作をしない人々にとって、という意味でだが、ことに創作をしない家族にはそんな姿を見られたくない。
自伝的な作品であるエミリー・シリーズでは、幼いエミリーと専制的な女主人エリザベスおばさんという、喜劇に縁のなさそうな組み合わせの間で、意外な所に笑いが用意されている。すこぶるシリアスな嫌みで攻撃されているにもかかわらず、無邪気な驚きと無作法な表現でエリザベスおばさんをあきれさせ、結果として勝ってしまう幼いエミリー。この場面は文章で味わうというよりも映像的だ。
「あんたのお母さんは」とエリザベス叔母はローソクの灯でエミリーをひややかに見ながら言った。こうすると、叔母の鷲みたいな顔がひどくおそろしい顔つきになった。 「駆け落ちしたんだよ。家族の恥さらしになって、お父さんの気持ちをいためたのだよ。お母さんは軽はずみで、恩知らずで、言うことをきかない娘だった。あんたには、あんなふるまいで家族の恥さらしをしてもらいたくないものだねえ」
「あら、エリザベス叔母さん」とエミリーは息をはずませながら言った。 「叔母さんがそんなふうにローソクを下のほうに持ってくると、まるで顔が死人みたいになるわ。まあ、なんて面白いんでしょう」
「可愛いエミリー」
最後の一文を、モードは大笑いして付け加えただろうか。光と影の効果にいきいきと反応した、幼いエミリーの突拍子もない驚きようがこの一件に落ちをつけてしまう。ここに至るまでの長く複雑な父母の一族の確執があるので、落ちが何十倍にも生きている。
喧嘩は終わったが、スキャンダルはそうはいかなかった。その夜のうちに、二人のダークがおばの葬式でその財産を巡って戦い、それぞれの妻に引きずられて引き離されたという話がそこら中に広まった。(略)ピピンおじは恐れをなした振りをしたが、密かに、この喧嘩のお陰で葬式がますます面白いものになったし、ベッキーおばが生きていて、お祈りのうまいデイヴィッドと、信心深いパーシイがあんな風にげんこつで殴り合ったのを見られなかったのは実に残念だったと思うのだった。 テンペスト・ダークは、妻の死後、初めて笑った。
「もつれた蜘蛛の巣」
ときおり、辛辣な表現が堰を切ったようにあふれることがある。それらは映像では再現しにくいが、文章ではより深く味わえる。モードの中にある、ある種の人間との間の壁、理解できないし、したくもない隣人の存在を肯定する気分が、毒のある笑いとなって仕込まれている。思いついた辛辣なアイデアを言葉にして人に知らせずにいられない人種ゆえの悲喜劇を、モードは生涯味わったことだろう。
ミス・ポターは痩せた意地悪な気むずかしい金棒引きで、だれかれを問わず嫌い、ことにエミリーを嫌っていた。ミセス・アン・シリラのほうはぽっちゃり肥った、きれいな、口先のうまい、人当たりの柔らかな金棒引きで、その口先のうまさと人当たりのよさのために、ミス・ポターが一年かかってするよりももっと多くの害毒を一週間で流していた。
「可愛いエミリー」
このくだりは、ブラックユーモアというよりコメディの無遠慮な笑いだろう。折りに触れて我が日常のなかでも思い起こされる。もしどちらかにならざるを得ないとすれば、せめて痩せた意地悪のほうになりたいものだ。モードの書いた金棒引きの淡々とした描写は、落ち着かない気持ちにさせる。しかも、我らがヒロインのエミリーが彼らの餌食になるというのは(口では勝つのだが)、痛ましい。
(エミリーは)いろいろの人に道で会ったが少しも気がつかなかった。その結果として気位の高い娘としての噂が広まった。
「エミリーの求めるもの」
リンド夫人が人に貸したたくさんの品物の中で、二度と手もとには返るまいとあきらめていたものまでが、その晩、借り手みずからの持参でもどってきた。(注:新しい牧師とその妻を見る口実に)
「赤毛のアン」
田舎に暮らすことは、近所の目や耳や口に絶えずさらされているということでもある。あいさつをしないということは、「えらぶっている」ということにちがいはないし、よく知る人々だからこそ、近所のニュースにしぜんと物見高くなるのも事実で、かといってそれ自体を非難しているわけではないのが田舎の良さをもわかっている作者らしい。それは本人にとってはつらいが、客観的に見れば喜劇なのだ。
ベンおじさんは騒々しい音をたてて受け皿から最後のお茶を飲みほすと、大声で言った。 「さて、これですんだ。朝起きる、一日じゅう働く、三度の食事をして寝ると。なんという生活だ!」 「父ちゃんのお気に入りの冗談だよ」と、リーナおばさんは(アンに)ほほえんだ。
「炉辺荘のアン」
テレビのコメディならここで客の笑いが入るところだろう。私はこのベンおじさんの言葉を読むたびに、そうでない人生の可能性について思いをめぐらせるのだが、対するリーナおばさんのように、さらっとニの句が継げる度量をいつかは身につけたいものだとも思う。
アルバータおばは、話しながら、いかにも不愉快そうに唇をゆがめる。彼女は、いらないものをどんどん人にくれてやるので、大層気前の良い人だという評判だった。
「青い城」
自分の大切な物を誰かにあげるという経験をしたことは、私には数えるほどしかない。でもそれは貴重な体験だった。アルバータおばさんには、いらない物をあげるのは捨て場所にしているだけだと─決してしてはいけないことなのだと教えられた。
アンを敬愛する下宿先のメイド、レベッカ・デューが「少し足りない」ということを読者はその言動から勘づいている。が、そのことが公にされることはほとんどない。レベッカが重荷を抱えているのでもない。彼女は喜劇的な存在なのだ。ここでは、人の陰口などいわないアンの胸中を借りて、レベッカが引き合いにだされる。普通の大人は本当のことはいわないものだし、もちろん、本当のことしかいわないと思われているアン・シャーリーですらそうなのだ。
「ああ、母しゃん、きれいね!」と、リラが目をまるくして感嘆した。子供とばかはほんとうのことを言うという。いつかレベッカ・デューがアンのことを『わりあいに美しい』と言ったことがあるではないか?
「炉辺荘のアン」
|