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第1章 (2) P.E.I.とL.M.M.
確かに、モードとプリンスエドワード島の間には世界的に認知された絆がある。アンやエミリーのシリーズをはじめ、作品のほとんどが、カナダ沿海州の宝石と謳われる彼女の生地にして愛読者の聖地である、大西洋にのぞむ“島”を舞台に描かれている。ストーリーと島の自然、文化、歴史が絶妙に絡みあっているために、P.E.I.は“モンゴメリ以前”の姿に戻ることはもはやないだろう。
生まれた土地と人間との間には一体感があるし、何かしら人を引きつける空気をもった特別な土地も存在する。プリンス・エドワード島はそうした場所のひとつに数えられている。モードの予定では、この緑と赤土の島、ゆりかごにもたとえられる形をした、故郷の島を離れるつもりはなかった。エミリーシリーズのなかで徹底的に書いているように、プリンスエドワード島でだめならばニューヨークへ行ってもだめなのだ、作家の本質はむしろ馴染み深い、愛する土地にいてこそ表現できるのだと。
けれども、単純に考えれば、マーケットや出版の機会にあふれた都会のほうがずっと楽に成功できるはずである。どんな時代でもそれなりには。彼女が望んでいた成功とは、もっとちがった報酬──自分自身が心の底から認めることのできる成功、真実を描く筆は場所を選ばないが人を選ぶ、という本質だったのだろう。
36歳で結婚し、牧師の夫が赴任したカナダ本土へ移るまでの前半生を、モードは生まれた島で暮らしている。最初の本である「赤毛のアン」を発表して一躍有名になるまで、教師をして働きながら堅実に短編作品を発表し、階段を上っていったという意味でもあるが。おそらく、作家として成功するために、最も難しい辺境の楽園を選んで彼女は生まれてきたといってもさしつかえはないだろう。
もし彼女が6年前に機会のあったときに、ニューヨークに行っていたら、そうしたら本は出版できただろうか。そしてプリンスエドワード島の消印がだめにするのではないだろうか──世間から離れた小さな州で、何もいいものが出たことがない場所だからではないだろうか?
「エミリーの求めるもの」
ミス・ロイアルはややすね気味に言った。 「ここではほんとうに値打ちのあることは書けないわ──何にも大きなことはね。インスピレーションというものが湧かないのよ。あっちこっちで邪魔されるばかりよ。偉い編集者たちはあなたの原稿の状袋の上のプリンス・エドワード島だけしか読まないわ。エミリー、あなたは文学的自殺をしているのよ。あなたはそれをある真夜中の3時に気がつくでしょうよ。(略) ああ!エミリー、わたしにはあなたがこの狭い場所で、人がみんな自分の鼻の先1マイルしか見えないままで終ってしまう全生涯が、見えるのよ」 エミリーはあごをつんとあげた。 「わたしはもっとずっとずっと遠くまで見えます。わたしは星まで見上げられます」
「エミリーはのぼる」
このくだり、片田舎の島という辺境の地で暮らす者はにやっとさせられる。私もミス・ロイアルになる道よりももう一方を選んだ以上、この土地の空気を含んだ、自分にしかできないものを書きながらえたいと思うし、自分の仕事が非都会的理由で進まない時などは、神様が場所によって差をつけたいという意図で世界を創ったのなら、丸い形にはしなかったろうとため息をつく。
「(略)ジャネット・ロイアルはヤンキーだ──顔付きも雰囲気もスタイルもすべてアメリカだよ。と言って、それを責めてもいない──それはそれでよろしい。けれど、あの人はもうカナダ人じゃないんだ──そして君はほんとうのカナダ人であって貰いたいんだ──生粋のカナダ人にね。あんたの力の及ぶ範囲で自分の国の文学のために尽すんだ、カナダ人としての味も色合いも失わずにね。けれど、そういう仕事はまだまだたくさんのドルにはならないけれどね」
カーペンター先生/「エミリーはのぼる」
エミリーの恩師、カーペンター先生のこの言葉がどれほどエミリーに刺さったか。これは、モード自身から発された、身をもって得た警告なのだ。すでに意識の底では「故郷に残る」という結論を出していたとはいえ、若いエミリーはやはり、迷ったのだから。
たとえば3年5年と生まれた土地を離れて暮らすとする。体は日々住む土地の空気と水と食べものによってつくられてゆくから、半年と経たずにその人の体は生れた土地とは別の組成で形づくられてしまう。そうなった時、どれほど故郷を思ったとしても、その思いはもはや故郷にいる時と同じではない。体が故郷の痕跡を忘れたことを承知したうえで、故郷に帰った時だけ、ほんとうの自分というものに戻れるという魂レベルの実感を得る。体と心となにものかはそこに住んで半年を待たなければ再び故郷一色にはならない。それでも、故郷を夢見る本能は、そこに身をおいたとたん、生まれ変わる脳が昔の記憶を鮮明に覚えていられるように、「何も変わっていない」とささやくのだ。
モードがどれほど故郷の夢に揺さぶられ、故郷の空気を吸っている自分を熱望したか、あなどりがたいホームシックの病にかかったか、フィクションの作品からも充分にうかがえる。
モードは「何も変わっていない」と自分をだますことはできなかった。自分がカナダ人ではあっても、もう生っ粋のアイランダーでないことの自覚と痛みを、後半生を通じて抱えていたにちがいない。島へ帰るたびに、それを思い知ったからこそ、幼な子のように「母なる島」に癒されていたのだろう。
皮肉にも、そうなったからこそ、彼女の島は他の人々にとっても特別な島になっていった。彼女がずっと島で暮らし、作品の舞台に島を選んだとしても、熱にうかされたように島を求める病は、読者をも巻き込んでこれほどまでに躍らせはしなかっただろう。前半生で、片田舎の島から女流作家として認められるという高いハードルを超え、後半生では島から離れて島の呼び声に苦悩しながら、それとひきかえに、愛する場所や懐かしい人々から離れた者だけが隠し味に使える貴重なスパイスを得たのだ。
しかし。あえていう。モードがP.E.I.に生れたということは必然ではあったろうが、仮にニューヨークでもどこでも、彼女は書いていただろう。そしてきっとその土地の風土や空気に包まれた世界を、リアルに創りあげていったにちがいないのだ。そしてまた、そこがどんな場所でも彼女はこう書いたにちがいない。
けれども、物語を織りだす材料はあらゆる時代と場所で同じである。生れること、死ぬこと、結婚、醜聞(スキャンダル)──この世界でほんとうにおもしろいことはこれだけである。
「エミリーの求めるもの」
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