ささやかな独り言。...琴代 諒

 

 

鴉の書斎 般若 - 2010年10月15日(金)

 黒いタートルネックの男は静かに本を読んでいる。薄暗い部屋の中、デスクランプだけを点けて本を読んでいる。デスクランプの灯りから、どうやらあまり広くない書斎らしい事と、乱雑な机上が辛うじて判る。その狭く薄暗い書斎で、男は分厚いハードカバーを読んでいる。ページをめくる音だけが時折聞こえる。

 静寂の中に、コンコンとノックの音。男は本から視線を上げる事もせずに、扉に向かって「どうぞ」と一言入室を促す。
 重そうな扉から入ってきたのは一人の女。中肉中背で取り立てて目を引くものもない、別れてしまえば思い出せないだろう女だ。白髪混じりのひっつめてまとめた髪の毛と、化粧もしてない疲れた童顔で年齢すら判らない。
 女はおどおどと入室すると、そぉっと扉を閉めた。途中、扉の蝶番が軋んで、室内にぎぃっと耳障りな音が響いた。

 「どうぞ」
 黒い男は本から顔を上げる事なく、再び短く促した。女は部屋を小さく見渡すと、会釈して口を開いた。



 何からお話したら良いのか。私はご覧になって判るように、極平凡な、何の取り柄もない女です。外に出るのも家庭に入るのも向きませんで、本当に駄目な人間なのです。
 そんな私にも、添い遂げてやろうと言ってくれる人が現れまして。まさかそんな事言ってもらえる日が来るとも思いませんでしたから、二つ返事でお受けしました。
 でもやっぱり、私は何をやらせても駄目な人間なので。働きに出ると人付き合いの下手さですぐ職場から浮いて、飲み込みの悪さで迷惑をかけ、結局すぐクビになって何をしても長続きしませんでした。家事も満足に出来ませんで、自分なりに頑張ってはいたのですが、料理も品数が少ないといつも叱られましたし、掃除も毎日時間をかけてしていても毎日汚いと言われました。本当に何をしても駄目なのです。
 結局そのうち穀潰しのように言われるようになりまして。まぁ仕方がないですよねぇ。何一つ満足に出来ないのですから。見た目もこのとおり陰気ですから、嫁いで幾ら経とうとも子供の出来る気配もありませんでしたし。

 それでも。
 それでも私なりに、毎日必死だったのです。少しでもお役に立とう、少しでも自分の方に視線を向けてもらおう。そう思って必死だったのです。あぁ、結婚してすぐに、会話はなくなっておりました。私が話しかけても返事もなく、話しかけられる事もなく、主人の背中しか見られない日ばかりでした。たまにかけられる言葉は叱咤ばかりで。
 何をやらせても駄目な私ですから、努力も空振りに終わりまして。次第に家に女の人が出入りするようになりました。華やかですらりとしていて、私とは正反対の女の人でした。私の傍を通りすぎる時に揺れるスカートの裾や髪の毛がとても綺麗で、思わず溜め息が出ました。私もこんな風な格好をしたら変われるのだろうかなどと思ったりもしました。見た目がこうですからそんな華やかな服装はそもそも似合いませんし、何よりも中身が役立たずなので意味はないのですけど。
 初めはお茶などお出ししたりもしていたのですが、陰気な私が姿を見せるのも嫌になっていたようで、次第に二人そろって玄関からまっすぐ書斎へ向かうようになりました。私は書斎は立ち入ってはいけない決まりでした。
 頻繁にお客様がいらっしゃる事や、それが女性である事など、気にしないように努めていたのですが、ある日とうとう我慢しきれなくなりました。予感に負けて、主人が女の人と過ごしている最中の書斎を覗いてしまったのです。予感通りといいますか、扉の隙間からは、豪奢な肘掛け椅子の上で絡み合う裸の二人が。

 もう目の前が真っ赤になりまして。
 私は、主人に望まれて嫁いだはずなのに、どうしてこんな事になっているのだろう。何が悪かったのだろう。私が悪かったのだろうか。主人は何故私を望んだのだろう。私は一体。一体。一体。

 私は、未だに判らないのです。私の何がいけなかったのですか。やはり人並み以下だからいらなくなったのですか。
 もう、主人に聞く事も出来ませんけれど。



 女はそこまで語ると、黙り込んだ。まとめていた髪の毛はゆるりとほどけてばさりと肩にかかり、頭から血が流れ始め次第に真っ赤に染まっていく。足元までぴちゃりと雫が届くと雫に反応したかのように赤黒い煙が上がり、女の姿は曖昧になり消えてしまった。
 黒い男は読んでいたハードカバーの最後のページにボールペンで「飛び降り自殺」と書き込むと、無造作に閉じて本棚へ戻した。


...




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