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煩悩の塊 - 2010年08月05日(木)
煩悩の塊
子供の頃の話だ。幾つだったかも覚えていないくらい、子供の頃の話。 夏に、田舎の祖母の家に遊びに行った。普段自分が暮らしている所とは比べ物にならないくらい、静かで不便で涼しくて樹がたくさんあって人がいなくて穏やかな場所。農作業中の近所の人がかけてくる挨拶に応えながら、近くの小川や林に遊びに行くのが祖母の家での過ごし方だった。 そんなある日、何処をどうしたものか道に迷った。いつもの帰り道、気さくなおばさんと丸々太った犬が店番をしている小さな雑貨屋の前に出るはずの砂利道は、しかし雑貨屋の前ではなく薄暗い林の奥へ奥へといつの間にか私を通していた。それに気がついたのは、降り注ぐ夏の陽射しが生い茂る樹に遮られて涼しくなり始めてからだ。確かに道だと思って歩いてきた場所を振り返ると、道なのか樹と樹の間なのか判らない空間で、道ではないと気がついてしまうと途端に心細くなってしまった。 歩いてきた道を戻ったつもりだったのだが、どんどん見知らぬ景色になっていく。疲れと心細さでしゃがみこみそうになった頃、長い階段が見えてきた。ところどころ石が欠けたり苔むしたりしたその階段が祖母の家まで連れて行ってくれる気がして、くたくたの足でせっせと登った。蝉時雨の中、終わりのないように思えた階段を登りきると、そこは小さな広場になっていて。古びて雨宿りすら出来ないような、壁が崩れてしまった小屋の中に仏像が佇んでいた。もしかしたら仏像ではなかったかもしれない。何せ子供の頃の記憶だ。観音か弥勒か、はたまた神像だったのか。 すらりとした立ち姿の、穏やかな顔をしたその像は塗りが剥がれていて、木肌の上に少しだけ塗料が残っているような酷い状態だった。だが白い塗料が少しだけ残ったその顔から目が離せなかった。像の持つ雰囲気に飲まれてしまったと言ってもいい。くたびれた足も蝉時雨も強い陽射しも忘れて見入っていた。 その日は結局どうやって祖母の家まで帰り着いたのか覚えていない。 その後何度もその仏像のあった場所を探したが、たどり着けなかった。迷子の果てにたどり着いた場所で道など覚えていなかったし、誰に聞いても知る者のいない像だったから、無理もない。
育った私は、像を彫るようになった。あの時の像を思い浮かべながら。思い浮かべる像のせいか私の作る像は仏像と呼ばれ、私は奇才の仏師として注目された。私の作る像を仏像と呼ぶのは違うと思うのだが。 今日も雑誌か何かの取材を受けた。いつもと同じように、何度語ったか知れない迷子になった話をし、その時の仏像がモチーフであり原点だと締め括る。後は製作場所である小さな四畳半ほどの小屋に案内して中を説明すれば、取材はこれで終わり。どこの取材でも毎回聞かれる事は同じ。依頼される事は同じ。最初はあの像の手掛かりが掴めるか、それが無理なら像を彫る時のイメージが湧くかすると思って受けていた取材も、代わり映えしなくてすぐ飽きてしまった。他社の特集かウィキペディアでも読んでくれないものだろうか。 「最後に。これは取材とは関係ない個人的な感想ですが、貴方の作る像、不思議な色気がありますよね。艶かしいというか。仏像じゃないみたい」 驚いた。今までそんな事を言われた事はない。まったく飾り気もない地味で目立たない小娘だが、面白い事を言うものだ。 「私の像は柔和だとか女性的だと言われる事は多いですが、艶かしいとは初めて言われました」 「そうなんですか。では私だけなのかしら。この像は素敵だけど仏像と呼ぶのに抵抗があるのは」 本当に面白い。私も自分で作っていて、仏像というカテゴリに分類されるのが不思議で仕方がないのだが、初めて私と似たように感じている人間に合った。この女の取材なら、また受けてもいいかもしれない。多分きっと、この女はもう私の取材にこないだろうが。この女は、像の持つ雰囲気に怯えていた。
薄暗い小屋の中。満月の光が射し込むように窓を開けて部屋の照明を落とす。作りかけの像が彫り上がったのだ。まだまだ細かいところに手を入れたりはするが、一先ず私は彫り上がった像の前で自慰をする。いつものように。 私の出した精液が、私の彫った像にかかる。像の顔や胸元に点々と飛び散るその白の様は、子供の頃に見た像の塗料を思い起こさせる。普通の塗料では白すぎて鮮やかすぎていけない。筆で飛ばしたのでは良い斑具合にならない。精液が一番あの時の像に近づく。 私の作る像は私の煩悩の塊だ。あの時の像に会いたい。あの時の何とも言えない恍惚感と体の中に渦巻く欲は、他では感じられなかった。会う事が叶わないなら、せめて近い物を自分の手で。全身全霊でそんな欲を込めて彫り上げている物だ。欲を忘れない為に魂抜きすらしていない。彫り上がったら、こうして最低一度は穢す。 そんな物が仏像の訳がない。これは私の煩悩の塊だ。子供の頃に出会ったものがあまりに強すぎて、それ以外に興味を持てないほど歪んでしまった私の煩悩の塊。
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