ケイケイの映画日記
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2023年06月13日(火) 「ウーマン・トーキング 私たちの選択」




あるコミュニティーで、抑圧された立場の女性たちが、とある事件を切欠に話し合い、民主的に自分たちの身の振り方を決めるという内容です。娯楽的な要素は少なく、終始屋根裏部屋で、世代の違う女性たちが話し合う場面が中心の地味な作品です。それでも何度も心を揺さぶられ、怒りとも哀しみとも違う、形容し難い想いが心に湧き、何度も涙ぐみました。敢えて例えるなら、彼女たちへの敬意が涙になったのだと思います。監督・脚本はサラ・ポーリー。本年度アカデミー賞脚色賞受賞作。

人里離れた場所で、キリスト教のある宗派を信仰するコミュニティー。女性たちの多くが、レイプ被害を訴えるも、「悪魔の仕業」「妄想」と、長老たちに取りあげては貰えません。しかしレイプ現場を目撃した者がおり、形勢は一転。犯人たちは警察に連行されます。犯人たちを引き取るため、男たちが村に居ない二日間、女性たちは秘密に集会を開き、三つの案に投票します。「このまま赦す」「闘う」「この村を出て行く」の三択。結果は「闘う」と「出て行く」が同数。選ばれた三家族の話し合いに、結論が委ねられます。

電気もガスもなく、水は井戸で汲む。自給自足の生活様式で交通手段は馬車。女性たちのクラシックで地味な服装は、19世紀末から20世紀初頭かな?と思っていました。そしたら途中で2010年が舞台だと挿入され、絶句!ほぼ情報を入れずに観たので、大混乱しました。後で知りましたが、ボリビアで起こった実話が元なのだとか。一番にアーミッシュが浮かびましたが、同じキリスト教でも、また違うメノナイトという宗派だそうです。

闘うと言うサロメ(クレア・フォイ)、この土地を離れると言うオーナ(ルーニー・マーラ)、ここで生きていくしかないと頑ななマリチェ(ジェシー・バックリー)。この三人を中心に、彼女たちの母たち、思春期の妹や姪たちが加わります。そして話し合いに加わろうともせず、娘と孫を引き連れて去っていくスカーフェイス(フランシス・マクドーマンド)。

時には怒号が飛び交い、自分の思いの丈を主張する女性たち。町から戻ったオーガスト(ベン・ウィショー)が、男性としてただ一人、書記として参加。その理由は、女性たちが学校に行かせて貰えず、読み書きが出来ないから。もう一度書きますが、2010年のお話しです。観ていてずっとリンクしていたのは、セネガルの映画「母たちの村」。女子割礼が当たり前の彼の地で、女性の人権を守るため、娘の割礼を拒否し、周囲の女性たちの賛同も得て、男性たちに立ち向かう母たちのお話しです。

「母たちの村」でも、女性たちに読み書きを教えず、ラジオさえ聞かせない。「私たちを閉じ込めるためさ」というセリフが、今でもずっと心に残っています。「ウーマン〜」の女性たちもそう。日本だって「女三界に家無し」と言われていました。結婚前は親に従い、結婚後は夫に従い、老いては子に従い。女は思考するなという意味です。世界中の女たちが、同じ事を言われていたのです。

「ウーマン〜」の女性たちが決起や移住に躊躇するのは、相手を赦さねばいけないとの信仰心があるから。しかし、女性たちがレイプの際に眠らされたのは、家畜用の催眠スプレーでした。「母たちの村」でも、言う事を聞かない妻に長老は、「鞭で叩け」と、家畜に使う鞭を夫に渡します。人間以下の存在の私たち。

私はきちんと宗教を勉強したことがありません。本当に神様たちは、女は奴隷扱いしろと、書いてあるのか?因みに、コーランには女子割礼の記述はありません。脈々と続く信仰は、協議の解釈によって枝別れし、その時々の指導者によって、都合の良いように変更されているのではないか?私にはそう思えてなりません。

しかし、読み書きも知識を得る事も禁じられたはずの女性たちが、何故自我を持ち、自らの尊厳を守ろうとするのか?それもまた、信仰の中で芽生えた成長だと思います。この作品は、決して信仰心や宗教を否定しているのではなく、権力者を否定しているのです。それを人として表したのが、穏やかで聡明なオーガスト。彼の家は、母が権力の集中を咎め、コミュニティーから追放されていました。

レイプされた痛みは、人それぞれに違う。予兆を感じさせ、焙り出させる演出が秀逸です。分断を呼びそうな時、「私は耐えるしか教えて貰わなかった!」と叫ぶマリチェに、母は「私が悪かった」と、心からの詫びを娘に伝えます。氷が溶けるように、心がほぐれるマリチェ。私はこのシーンが一番好きです。この話し合いなくば、母は一生後悔したままだったかも知れません。

レイプ以外に、夫に暴力を振るわれ、半殺しのようになった姿も挿入されます。スカーフェイスの深い頬の傷も同様なのでしょう。これが頑なに現状維持を主張した理由だと思う。対男性で一番恐ろしいのは、レイプも含み、暴力だと伝えているのだと思いました。

私たちは男性になりたいのでもなく、男性を越したいのでもない。ただ人間として対等に扱われたいのです。感情を持ち思考する人間として。レイプされ妊娠したお腹の子を、愛しい我が子だと言うオーナ。心優しく誠実なオーガスト。女性としての善き特性は保ち続けるのには、善き男性の協力は不可欠だと表している。そして最後に見せるサロメの猛々しい母性は、それが高じて悪しき男性のようになってはならない、と言う警鐘の気がします。

「離れる事は、逃げる事と同じではない」。離れる=卑怯ではありません。彼女たちの選択は、人として聡明なものでした。

オスカーの授賞式は観ていました。サラの悦び様な大変なもので、とても微笑ましかったです。観て納得。娯楽作が席巻するオスカーで、この作品が賞を取ったのは、とても意義があると思います。願わくば、コンプラを意識したものではなく、今後の変貌を期しての受賞であって欲しいと、心より願います。


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