ケイケイの映画日記
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2022年04月24日(日) 「ハッチング-孵化」




フィンランド製ダークホラーです。軸になっているのは、ヒロインのローティーンの女の子と母親の関係性です。禍々しく不穏な空気に、私自身の経験と重なる事もあり、感慨深く観ました。幕切れに残酷な感想を抱いていたのですが、映画を通じて仲良くしていただいている牧師さんの、イースターの素晴らしいお説教を拝読して、感想が一変!お陰様で、ずっと心に残る映画となると思います。監督はハンナ・ベルイホルム。

両親と弟と暮らす12歳のティンヤ(シーリ・ソラリンナ)。ティンヤは体操を習っています。ブログに幸せ発信するのが生き甲斐の母親(ソフィア・ヘイッキ)の圧力に疲弊するティンヤは、ふとした事から拾った鳥の卵を、自分の部屋に持ち帰り、孵化させます。その鳥に「アッり」と名付け、可愛がるティンヤでしたが、それが思わぬ惨劇を引き起こします。

ティンヤの家は、北欧独特の美しくロマンチックなおうちで、それが過ぎて、まるでドールハウスのように生活感がありません。ティンヤの部屋が顕著なのは、母親の娘に対しての期待の大きさが伺えます。

ブログに載せる家族のショットを自撮りしていると、一羽の鳥が室内に侵入し、家具や照明を破壊。捕まえた鳥の首を躊躇せず捻る母。美しい容姿、良妻賢母を装いながら、一瞬で二面性を描いています。死骸をゴミ箱に捨てろとティンヤに告げる母。いやいや、死骸だよ?まだ子供のティンヤには怖いはず。しかしおずおず母の言いつけを守るティンヤ。日常のそこかしこに、にこやかに微笑みながら、「あなたのためよ、あなたもそう思うでしょう?」と、ティンヤを呪縛する母。必死に応えようとするティンヤ。子供なら当たり前、期待に応え母に愛されたいのです。

母は弟には無関心、建築家でそれなりに成功している父は、妻の言いなりなら平和とばかり、子供や家庭には事なかれです。母親がティンヤに執着するのは、自分と同じく容姿が美しいからだと思いました。自慢したいのですね。

偶然鳥の卵を見つけるティンヤは、あの鳥の卵だと確信します。家に持ち帰ったのは、罪悪感があったからでしょう。優しい子です。母との関係の辛さから涙するティンヤ。その涙がどんどん卵を大きくする。孵化したアッリを慈しむ様子は、自分の疲弊した心を、アッリを愛することで癒しているように見えます。

この母親は、所謂毒親で、自分の不倫相手と抱き合っているところを娘に観られ、あろうことか、「ママには恋が必要なの。二人の秘密よ」とティンヤに告げます。これね、何を隠そう、私も10歳ころに同じような経験をしました。私の母の相手は、当時父の会社で働いていた人。偶然抱き合っているところを目撃した私に母は、「にきびを絞って貰っていた」と苦しい言い訳をするのです。ほんとバカな言い訳ですが、ティンヤの母を観て、まだましだなと思いました(笑)。

当時私も母の言い分を信じました。信じ込もうとしていたと思います。父にも誰にも言いませんでした。夫婦仲が悪いのは解かっていたし、家庭が壊れるのを恐れました。私も母に抑圧された子供時代を過ごしたので、子供とはそういうものだと、素直に従うティンヤの気持ちがとても良く理解出来ました。

本当は友達とでも話せば良いような、子供にはするべきではない会話を、ティンヤの母同様、私の母も娘としたがりました。父の浮気、その内容その他盛沢山。。今の時代に照らし合わせれば、多分虐待です。子供らしい思考、楽しみ。私もティンヤも母親に奪われている。

私の母は筋金入りの人格障害で、愛着障害もあったと思います。ティンヤの母の「誰も私を幸せにはしてくれない!」とのセリフは、ティンヤが試合で優勝できなかった時のセリフで、あぁこの人もだなと思いました。子供が試合で負けたなら、普通の親なら怒ったりせず、子供を慰めるものです。ティンヤはと言うと、母に怯えるだけ。自分の吐いたものをアッリの餌とする様子は、摂食障害も感じます。負の連鎖。

精神科勤務時代に、院長先生に私の成育を話し、何故私は人格障害にならなかったのか?と尋ねた時、「ケイケイさんは、お母さんのようになりたくないと、強く誓ったのではありませんか?」と言われました。はい、それはもう、強く強く。でもポンコツの母でしたが、子供時代は母が大好きで、私の自己肯定感を高めてくれたのは、間違いなくポンコツながらの母の愛情です。そう考えたら、まだまだ幼いティンヤの気持ちに、心が締め付けられます。

ティンヤの涙で成長したアッリは、憎悪・暴力・悪意・嫉妬など、負の感情の塊に育ちます。アッリは感情を吐き出せない、ティンヤの想念が作り出したものなのでしょう。数々の惨劇のあと訪れた最大の悲劇に、これから両親が(父も同罪)に残酷な日常が訪れるんだと思っていました。

ところがH牧師のお説教で、それでガラッと感想が変わる。「マ・・・、マ」の絞り出すあの言葉は、母の中では、黄泉がえりではなかったか?その時の呆けたような母の表情は、私が観たいように見ればいい。あれは恐れつつ、幸福を滲ましせた表情ではなかったか?お説教の後には、私にはそう感じました。母よ、恐れるなかれ。その幸せを、娘を信じなさい。そして母娘二人、それぞれの壮絶なやらかし。無関心だった父も含め、家族がこの後、茨の道を歩み贖罪の人生を歩んだ時、そこにこの母と娘、家族の、見栄や嘘のない、本当の幸せが訪れるのではないか?そう感じるようになりました。作り手がどのようなメッセージをラストに託したか、私には解りません。でもこの私の感想は、私自身を幸せにするもの。だから私はこの解釈を選択します。

母やティンヤの母のような人の特徴は、「足るを知る」を知らない事です。誰もが羨むものを手に入れても、満足せず、人の賞賛だけが自分の価値になる。我がままで強烈な自我を持つのに、本当の意味での自分軸がない。母のお陰で嫌味ではなく、私は人生に必要なものは、「足るを知る」だと悟り、感謝しています。その中で精一杯頑張るのは向上心で、野心にはならないから。

H牧師に、その私の座右の銘を、これだ!と、思える詩をご紹介いただきました。私の感想を読んでいただく皆さんにも是非ご紹介したく、ここに記しておきますね。作者不在と言うのも感慨深い。因みにワタクシ、キリスト教は、からっきしです。なので皆さんの心にも届くといいなぁ。映画はね、観る人が観たいように観る。これに尽きます。偶然は必然を実感しています。


  大事をなそうとして
  力を与えてほしいと神に求めたのに
  慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
  
  より偉大なことができるように 健康を求めたのに
  より良きことができるようにと 病弱を与えられた
  
  幸せになろうとして  富を求めたのに
  賢明であるようにと  貧困を授かった
  
  世の人々の賞賛を得ようとして  権力を求めたのに
  神の前にひざまずくようにと  弱さを授かった

  人生を享楽しようと  あらゆるものを求めたのに
  あらゆることを喜べるようにと  生命を授かった

  求めたものは一つとして与えられなかったが
  願いはすべて聞きとどけられた

  神の意にそわぬ者であるにかかわらず
  心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
  私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ


  
  




  


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