ケイケイの映画日記
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2022年02月13日(日) |
「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」 |
ここ数年は絶対見る監督の一人になった、ウェス・アンダーソンの新作。でも今回、一切前評判を遮断しても、ダメなんじゃないかなーと危惧していました(ただの勘)。いつも通り秀逸な美術を愛でながら、まぁそれなりかな?と思っていたら、三話目で段々思考が膨らみ出し、前の二つのお話をもう一度おさらいすると、それなり→とても良かったに転換しました。やっぱり素敵な監督さんです。
1975年。アメリカ中西部の新聞『ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン』は、世界中のジャーナリストがオリジナリティあふれる記事を寄稿する、別冊雑誌を持っています。それが1925年創刊の『ザ・フレンチ・ディスパッチ』です。。フランスの架空の街アンニュイ=シュール=ブラゼに編集部があり、世界50か国で50万人の読者をかかえていました。しかし、創刊者で編集長のアーサー・ハウイッツァー・Jr.(ビル・マーレー)が急死したことで、彼の遺言どおりに雑誌を廃刊することが決まってしまいます。
ウェスの特性である美術が、またまた素晴らしい!アニメが実写で現れたようで、愛らしい絵本をめくっているようなのに、なんだ、この謎のリアリティは。クオリティが高く、美術だけ目で追っても、充分元は取れます。
構成は三部作のオムニパス。一話目は囚人で画家のモーゼス(ベニチオ・デル・トロ)にまつわるお話し。美術商のガダージオ(エイドリアン・ブロディ)は、モーゼスの絵を気に入り、売り出そうとします。絵のモデルは看守のシモーヌ(レア・セドゥ)。これが一筋縄ではいかない。冒頭オールヌードでポージングするレアにびっくり!そして看守役なので二度びっくり(笑)。シモーヌはまるで猛獣使いのように、殺人犯のモーゼスを調教していて、彼女の事なら何でも聞きます。
二人のラブシーンで鎖骨までしか映していない姿は、多分事後。信頼感と官能性と言う、異質のものが溶け込んでいて、美しい。私が感じ入ったのは、モーゼスの人生が、元々は裕福な家の出であったのが、その後、不潔→飢え→孤独→犯罪→精神病と軌跡を辿ると語られていたこと。犯罪までは一緒くたに起こったのでしょうね。対するシモーヌも、貧困の出自で、学校にも行けず字も書けず、教養とは皆無の育ちながら、看守までなった人。氷の表情の下には、きっと熱い思いを抱えているのだと思いました。違うようで似ている二人。シモーヌは猛獣使いではなく、モーゼスのミューズなのでした。
「007」のヒロイン役はあんなに華がなかったのに、今回一瞬たりともニコリともしないシモーヌ役のレアは、出色の存在感。冷徹さには、女心の情念が隠されていて、そこはかとなくそれが滲み出る様子が、官能的です。レアはこの手の癖のある役柄は、クールな美貌と相まって追随を許さないですね。平凡なヒロインのオファーは断ってくれ。
私はアートには全く造詣がないですが、これは抽象画の値打ちを皮肉ってるのかと感じました。全然見えないと言われていた、絵画の中のシモーヌですが、私には変なポージングの彼女が、確かに見えましたが。これって錯覚?それとも見えないのに、傑作だと騒いでいる人たちを皮肉っているのかな?
二話目は、中年の切れ者記者クレメンツ(フランシス・マクドーマンド)の巻。高潔にして孤高なるジャーナリストの彼女。成り行きで友人夫婦の息子で学生運動のリーダーとして身を投じているゼフィレッリ(ティモシー・シャラメ)と付き合い出します。ゼフィレッリがチェスでまったり学校側と談合する様子と同じく、少々退屈な展開だったのが、ゼフィレッリを好きな女子学生(リナ・クードリ)に、「年増は引っ込んでろ!」と言われて、涙ながらに「私の尊厳を奪わないで・・・」と言うクレメンツに、眠気が吹っ飛ぶ。
えっ!何で?大人の女の度量を見せつけるのかと思ったのに、こんな小娘に泣かされるなんて。それもフランシス・マクドーマンドが!(ここ重要)。そんなに老いる事、独りでいる事に葛藤があったんだ。私はゼフィレッリが付いていったのかと思っていましたが、クレメンツがお持ち帰りしたんだね。成る程。友人夫婦が紹介してくれたクリストフ・ヴァルツの方がお似合いなのに、美少年が良かったんだね。成る程。多分老いに向かう女みんなが、理解と同情を寄せたと思います(私は現実的だから、ヴァルツを選ぶけどね)。
そして三話目。祖国に追放されたフードライターのライト(ジェフリー・ライト)のお話し。美食家の署長(マチュー・アマルリック)のお抱えシェフであるネスカフィエ警部(スティーブン・パーク)の記事を書くため、署長の元に。しかし署長の息子のジジが誘拐されます。
このパートは、最初からユーモアある作りなのに哀しい。ライトはテレビの司会者に「ニグロ」と呼ばれても平然としている。勿論表向きでね。1975年は、まだまだそうだったんだな。ネスカフィエが警部なのは、そうしないとお抱えに出来ないからだと思いました。本職はあくまでシェフだと思う。傲慢だよね、署長。
ライトは黒人でゲイ。当時は二つの差別を背負っている。賢い息子とネスカフィエの身体を張った頑張りで、息子は無事救出。さらっとしたライトの原稿に、「これだけか?」と問う編集長。他にもあったのですが、入れたくないライト。書けないよ、初めて食べる毒の味の事なんて。死ぬかもしれないのに、ネスカフィエには、食べる選択しかなかったんだもん。
アジア系の「フレンチのシェフ」ネスカフィエは、当時のフランスでは勝ち組のはず。断って自分がポシャれば、アジア系に次はないはず。祖国を追われた自分を、どこにいても異邦人だとライトは言う。そして黒人でゲイ。ネスカフィエの言葉の奥に、自分との共通項を見出したから、ライトはネスカフィエに、「解るよ」と答えたんじゃないかな?
ネスカフィエもライトも、シド二ー・ポワチエなのよ。自分たちは礼儀正しく教養があり、白人に都合がよく、付き合ってもいいよ、と思える差別待遇者。自分たちの地位の確立のため、複雑な気持ちを押し殺して今の状況を守らなきゃいけない。ライトはその気持ちを、「あんたなんかにゃ、解るまい」の人々には、知られたくなかったのだと思います。
それでも「入れろ」と言う編集長。そう言えば、サゼラック(オーウェン・ウィルソン)の書いた、編集長の愛するアンニュイ(架空の町)の街のレポートも、表の風光明媚の美しさは皆無。記事は裏の闇社会ばかり。それでも編集長は文句垂れながら、OK出してました。
全編ヘンテコなユーモアで包み、凝った美術でかく乱させながら、眼差しは心に葛藤を抱えた人々の寂しさや侘しさを、温かく見守っていたのですね。そう思うと、楽しさだけではなく、包容力のある優しさを感じます。ゆるゆるなのに、芯が強い。「フレンチ・ディスパッチ」は、さぞ気骨のある雑誌だったのでしょうね。
残念なのは、雑誌を映画化したような作りなので、膨大なセリフと字幕で、目と耳が追い付きませんでした。肝心の俳優の演技と美術も、見落としがあったかも?できればもう一度観たいなぁ。
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