ケイケイの映画日記
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2022年01月16日(日) 「クライ・マッチョ」




ハリウッドの生きる伝説、クリント・イーストウッドの監督主演作。オミクロン感染爆発で、今までなら自主的に映画館はお休みでした。でも10年くらい前から、これが遺作になるかも?の気持ちで足を運ぶイーストウッドの映画は、もはや映画好きにとっては、神社仏閣に生き神様をお参りに行くようなモノ。と言う事で、観てきました。今回の生き神様は、特別面白くはなかったですが、人生の終着駅に佇むイーストウッドの心情が垣間見られて、のんびりと楽しむ事が出来ました。

1979年のテキサス。妻に先立たれ息子とは別れ、今は孤独に暮らす元ロデオスターのマイク(クリント・イーストウッド)。元雇い主(ドワイト・ヨーカム)から、メキシコから別れた妻に虐待されている息子のラファエロ(エドゥアルド・ミネット)を助け出して欲しいと、依頼されます。元雇い主に恩があるマイクは、仕方なしに引き受けます。

まず目を見張ったのは、イーストウッド、若い!御年91歳ですよ。私の好きな「運び屋」は3年前の作品ですが、ほとんど変わっていません。80過ぎると、肉が落ち骨が削げ、顔や体に骸骨感が出ます。ところがところが、今もって美老人なのよね。そりゃとてもハンサムだった往年から考えると、容色は落ちていますが、それでも立派なものです。さすがに馬を乗り回す場面は吹替でしょうが、ゆっくり馬に乗る場面、ドライブや野宿に、美しき未亡人とのダンスまで!何食べてるのかしら?(笑)。

作品としては、格段に心に迫るモノも無く、ひりつくような苦い感情も無く、至って淡々とお話は進み、淡々と終わり。いやいや、ヤバい連中や警察に誘拐罪で追われているのに、淡々と終われる展開じゃねーだろ、とも思うのですが、疲れも見せずに孫どころか、ひ孫のような年齢のラファエロとバディとなり、喜怒哀楽、人生の楽しみや安らぎを共有しての道行は、観ていて心温まるものがあります。なので、不問と致します。

高揚感や感動はないものの、後半に長期滞在する街での生活は、馬や牛、豚や山羊や犬などの囲まれての、一種牧歌的です。束の間の人間らしい毎日は、逃亡者にはあるまじきもの。そう感じると、あぁこの作品は、寓話として観れば良いのかと、合点が行きました。

ラファエロは当初は口が悪く、悪態をつく可愛げのない超の付く悪ガキです。それがマイクと行動を共にするようになり、愛嬌のある笑顔を見せ、子供らしい純粋さを見せるようになります。マイクから「お前、感じ良くなったな」と言われるのは、初めて躾を施してくれる大人=マイクのお陰でしょう。

激情型で恐ろしく、ニンフォマニアな母親。別れてから一度も会おうとしなかった父親。彼らと暮らすなら、危険な路上の方がまだましだったラファエロの辛さは、想像に余りあります。憐みの気持ちがマイクに湧き、ラファエロはマイクを慕う。ここに社会に置いての、子供に対する大人の責任を感じます。

「俺はドリトル先生か?」のセリフには笑いましたが、老犬に対してのセリフは、あれは自分を重ねているはず。ジェニロペの年の離れたお姉さんと言う風情の、情が濃く気風の良いマルタ(ナタリア・トラベン)は、娘夫婦と夫に先立たれ、孫娘たちを育てています。妻に先立たれた失意で、人生が一変してしまった自分を、反省したでしょうね。

90過ぎて女性とのロマンスを盛り込む辺りも、まだまだ俺も色男だよと言う、イーストウッドのプライドですかね。不自然さはなく、有りだと思いました。

再会後、ラファエロの望む愛情は期待薄の彼の父親。ラファエロの失望を危惧したのでしょう、「愛情”も”本当だ」と、ラファエロに告げるマイク。それは女性関係が派手で、巻き込まれて随分泣かされた、イーストウッドの子供たちへの、謝罪にも聞こえました。そう言えば、妻子を捨てて入れあげていたソンドラ・ロックにも、別離後、訴えられていましたっけ。一回り以上年下の彼女は先に亡くなって、あの世で待ち構えているかもなぁ(笑)。

「マッチョ」ではない老人と子供でも、強い意志を持てば、今の苦境から脱出出来るよ、と言うお話し。生き神様から言われると、説得力あるよね(笑)。まだまだ参拝に行きたいです。


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