ケイケイの映画日記
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望む望まないに関わらず、女性に生まれたら、一度は人生で立ち止まり自問するはずの、出産。しかし生涯神に身を捧げ、出産とは無縁の人生を送るはずだった修道女が妊娠したら?それもレイプで。こんな実話があったのは、この作品で初めて知りました。作品に出てくる女性たちと共に、この難題にどうすれば良いか?同じ女性として、瞬きするのも惜しいくらい、画面を凝視して考えました。監督はアンヌ・ファンテーヌ。
1945年のポーランド。戦争は終結したものの、赤十字から派遣され医療に当たる女医のマチルド(ルー・ドゥ・ラージュ)。ある日若いポーランド人の尼僧が、助けて欲しいとマチルドを訪ねます。困惑しながら、マチルドが修道院を訪れると、そこには陣痛の始まった妊婦が。急遽帝王切開で子を取り出すマチルド。しかし戦争末期、尼僧全員がソ連軍兵士にレイプされ、その時身篭ってしまった尼僧が7人いました。適切な医療を施すよう助言するマチルドですが、修道院の恥になるからと、院長(アガタ・クレタ)は、頑なです。マチルドはシスターの一人、マリア(アガタ・ブゼク)と親交を重ねるようになり、修道女たちから信頼を得ていきます。
セックスには、愛や快楽など、色々な要素を含んでいるはず。夫婦や長年パートナーシップを結んでいる相手だと、コミュニケーションツールでもあるはず。お互いが成人でリスクを承知で合意であれば、変態チックだって、お金が絡んでいたって、私は構わないと思っています。
ではレイプは?レイプはセックスではなく、一方的な暴力です。シスターたちは被害者であるのに、自分を責めている。罪を背負った上、妊娠しているシスターたちは、罰を受けていると思ったはず。妊娠しなかったシスターもいるのだから、自分はとりわけ罪深いと思ったはず。救われません。
困惑しながら、渋々妊婦たちの往診に来ていたマチルドの意識が変わったのは、自分もソ連兵にレイプされそうになったから。やめて!と彼女が絶叫し続けているのに、「みろ、喜んでいるぞ」と言い放つ男たち。どの目が耳が、マチルドの様子を喜んでいると感じるのか?私がこの作品で一番怒ったのは、この場面です。
「私はここに来る前に恋人がいたから、まだ良かった。大半のシスターは処女だったの」と、シスターマリアは痛切に語ります。そんなマリアも、今でも悪夢に苛まれると言う。私が痴漢に初めて遭ったのは、中学生の時。電車の中でスカートの中に手を入れられそうになり、あの時の恐怖は今でも忘れません。驚愕ではなく、恐怖でした。修道女たちは命を失くす事まで浮かび、どんなに恐ろしかったろうと思います。
マチルドの親は共産主義者で、彼女にも色濃くその思想は反映しているはず。戒律を守るシスターたちの気持ちは、彼女には理解出来ません。しかし、マチルドは、彼女たちの気持ちを尊重し続けました。それが祈るしかない術がない、傷心の彼女たちの心を、開かせたのだと思います。
もう一つ私が感じ入ったのは、誰かに打ち明け、助けを求める事の大切さです。マチルドを修道院に引っ張っていった若いシスターしかり、自分一人では自信がなく、同僚男性医師に全てを話し、出産を助けてもらったマチルドしかり、赤ちゃんたちの命を救ってと、マチルドの元に走ったシスターマリアしかり。そこには一番大切なのは、「命」だと言う共通の認識があったと思います。
誰にも打ち明けず、自分独りで収束させようとした院長。私にはレイプと同じくらい大罪を犯したように感じる院長。彼女なりに、修道女たちを守りたかったのです。「恥と名誉から、この修道院を守ろうとしましたが、私が間違っていました」の「懺悔」は、彼女も被害者であると描いています。
出産は決して「恥」ではありません。どんな出産もです。私もいい年なので、望まぬ妊娠、喜べぬ妊娠もあるとは、わかっています。それでもどんな出産も、絶対に恥ではないと言い切りたい。私のような子供を三人生み育てた者が言わなきゃ、生きている値打ちがないです。
マチルドは修道女たちと赤ちゃんを、どう守ったか?マチルドのウルトラCには、本当に号泣しました。誰も傷つけず、誰も犠牲にならず、皆が幸せになる方法でした。
清廉な修道院で生活する彼女たちの歌う賛美歌は澄み切って、心が洗われるようでした。修道院のあちらこちらに、彼女たちが安息と安寧を神に求めているのが、わかりました。いくら考えても答えが出ない時、彼女たちは必死で祈っていました。無力だから祈る。彼女たちの祈りが、救世主マチルドを呼び込んだと思います。祈りは偉大だと思いました。気高いながら、神々しくはなく、とても人間臭い作品でした。今年の私のベスト10に入ると思います。
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