ケイケイの映画日記
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2014年05月21日(水) |
「チョコレートドーナツ」 |
もうわんわん泣きました。ゲイやダウン症児のみならず、様々な差別や偏見に対して想起させてくれる内容で、心温かく、そしてとても誠実な作品です。実話が元の作品で、監督はトラヴィス・ファイン。
1979年のアメリカ。シンガーを夢見ながら、今はゲイの人向きのショーパブでダンサーをしているルディ(アラン・カミング)。パブに初めて立ち寄った検察局のポール(ギャレット・ディラハント)と一目で惹かれ合います。ルディの隣に住む薬物中毒のシングルマザーの逮捕がきっかけで、彼女の息子でダウン症児のマルコ(アイザック・レイヴァ)の世話をするようになったルディ。自分が親代わりになりたくて奔走するルディのため、ポールは三人で暮らすことを提案します。法律にも則り、幸せな日々が続きますが、ゲイへの偏見から、国は彼らからマルコを引き離そうとします。
予告編でのロン毛に無精ひげのカミングからは想像できない、艶やかなダンサーぶりに、まず魅了されます。その時は何故口パク?と思いましたが、それも後から思えば、彼らゲイの人々が、偽りを強いられている象徴だったのですね。
ポールは結婚歴があり、今は独身。ゲイである事は隠しながら仕事に励み、いつか国を変えたくて法律の世界に入ったと言います。この中年男性同士の愛が、本当に麗しくて。だいたい男女の愛を描いても、中年以降は清潔感を感じさせるのは至難の業ですが、キスシーン、全裸でベッドで横たわるシーンにおいても、とても自然で二人の絆が感じられます。それは二人の根底に、自分たちだけではなく、マルコを幸せにしたいと言う、切なる気持ちがあるからだと思います。
二人の不適切な関係が明るみに出るや、ポールは失職し、マルコを二人から取り上げようとします。私が激怒したのは、薬物中毒の母親の方が、ゲイの彼らより養育に適していると描かれていた事です。そんなの有り?薬物は犯罪ですよ。ゲイはそれ以下という事?まるで人間じゃないような扱いに、今から35年以上前は、それが常識だったのですね。元職場の上司など、ポールを憎んでいるとしか思えない。その理由はゲイだからしか見つかりません。今でも無くならない差別が、この作品を生んだのでしょう。
裁判の時の答弁で、ポールが「チビでデブでダウン症のマルコを愛せるのは、僕たちだけだ」と言い切ります。それは差別や偏見の苦しみと哀しみを知る自分たちだからこそ、と言う意味です。「法に正義はないんだな」と呟くポールに、二人が雇った黒人弁護士は、「学校でそう習っただろう。そして『それでも闘うんだ』とな」。この台詞を聞いて、ハッとしました。
この作品が描きたかったのは、ゲイや知的障害だけではなく、人種差別・男女差別・階級差別など、あらゆる偏見や差別に対して、人は闘っていかねばいけないと言いたいのだと。黒人弁護士に言わせた事に、強い主張を感じました。
偏見や差別に関係ない人は、世の中にいるんだろうか?明らかな対象者だけではなく、学歴や年齢や既婚・未婚、子供がいるかいないか、病歴、そんな些細な事まで、世の中は人を偏見の目で見ているはず。差別や偏見の対象ではない人は、世の中にいないと言っていい。それを自覚すれば、自分以外の思考や思想を尊重するようになるんじゃないでしょうか。私は偏見の強い人は、自分の中の被差別対象を隠したい心理があるからだと、思います。
アラン・カミングはたくさん観ていますが、今回がベストアクトに思いました。とにかく母性溢れる様子の自然さに、同じ母親として共感しまくりです。授業参観の様子など、お母さんにしか見えなかったです。人としての心映えの美しさも、強い印象を残します。確か彼自身も同性婚をしていたはず。夫的役割のポールの、誠実感と人柄の良さを感じさせたディラハントにも、好感を持ちました。そしてマルコ役のアイザックは、本当のダウン症児だそう。ちゃんと、そしてきちんとお芝居していました。まずそれにびっくり。自分の可能性を決めちゃいけないんですね。教えて貰いました。
判事の一人は、フランシス・フィッシャー演じる女性でした。黒人弁護士から、尊敬を集めていると語られます。あの時代、女性判事として敬意を集めるには、人知れず苦労がたくさんあったでしょう。二人の気持ちを汲んだ、主文以外の文章が、二人の心を折れさせなかったのかも知れません。当時はそれが精一杯だったのかも。今ならハッピーエンドが好きなマルコを喜ばす結果が出ると思いたい。ラストに流れる高らかルディの熱唱に、希望を感じました。
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