ケイケイの映画日記
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2014年03月13日(木) 「ラブレース」




1972年に制作されたアメリカの伝説的ポルノ映画「ディープ・スロート」に主演した、リンダ・ラブレースの伝記。知っている事も知らない事もあり、興味深く観ました。作りの詰めが甘く、人物の掘り下げや疑問のある描き方もありましたが、主演のアマンダ・セイフライドの熱演を始め、役者さんたちが脚本の脈絡以上の演技をしてくれたと感じたので、私には好印象の作品です。当時の風俗やファッション、音楽も懐かしく思い出しました。監督はロブ・エブスタン。

1970年のアメリカ。敬虔なカトリック信者の両親(父ロバート・パトリック、母シャロン・ストーン)の元に生まれたリンダ(アマンダ・セイフライド)。躾の厳しい母親に息の詰まる毎日を送っています。そんな時出会ったバー経営者のチャック(ピーター・サースガード)と恋に落ちます。親の許しを得て同棲・結婚する二人。しかしチャックのバーの経営は思わしくなく、お金のため、リンダはポルノ映画に出演する事になります。

この作品の日本公開は1975年。私は当時中学生で、「スクリーン」誌をこよなく愛読しておりまして、この作品も話題沸騰でした。アンダーグラウンドのポルノが、遠い日本の中学生にまで轟いていたのですから、当時のアメリカの騒ぎ方は尋常ならざるもので、大人の男性のみならず、女性も大挙押しかけ大ヒットし、社会現象になったとか。

簡単に筋を説明すると、セックスに絶頂を得られない女性が、喉の奥深くにクリトリスを発見。男性の性器を飲み込む事で絶頂感を得る、そう言う内容です。日本での出来の評価は芳しくなく、プレイメイト系美女ばかりの米ポルノ女優の中、平凡なリンダは容姿に物足りないとの烙印が押されていた記憶があります。

本物のリンダ。普通に可愛いですね。劇中でもそう表現されていました。

この作品でも、リンダは容姿に欠けるとの監督ダミアーノ(ハンク・アザリア)の発言があります。それを補ってあまりあるのが、フェラのテクニック(!)だったとは。そりゃ日本上映ではカットとボカシばかりのはずですから、わかりますまいて。

両親が厳しいとの描き方ですが、う〜ん、アメリカと日本じゃ違ったでしょうが、私は親の躾としては当たり前の範疇だと思いました。リンダには二十歳前で子供を生み、里子に出した経緯があります。カトリックだから堕胎は出来ない。未婚の娘の妊娠は、親にとっても重大な事で、親が至らなかったからと、自分を責めて当然の出来事。リンダも痛みは感じているから、親の言いつけは守っていますが、素因として遊び好きなのは明白。それを知る親が繰り返さぬようにと、厳しかったんじゃないかなぁ。

チャックと同棲してからは、表層的なリンダのサクセスストーリーの前半と、リンダの視点からの、夫のDVと借金に悩まされた生活の後半が描かれます。前半の映画撮影場面は、現場の暖かさをユーモアにくるみながら描き、卑猥な感じはありません。特に先輩女優や相手役のハリー・リームズ(アダム・ブロディ)やカメラマン(チョイ出だけど、ウェス・ベントリー好演)が、ふんだんなヌードやセックスシーンを前に緊張するリンダを気遣う様子が素敵です。ちょっとしてバックステージものの風情でした。

一転、リンダの視点で描かれる世界は最悪です。夫からの売春強要、DVが主なもので、時代の寵児扱いのリンダのマスコミへの出演料は、一円も彼女の手に渡らずチャックのものとなります。そう「もの」。前半部分で、リンダの太ももの痣を見つけた先輩女優に、「私が転んだの」と答えるリンダに、先輩は「私もよ」と答えます。ここで、あぁ暴力を受けているのだとわかります。先輩女優の言葉は、その数の多さを示しているのでしょう。

私が前半で気になったのは、繰り返されるチャックの「お前は誰の女だ?」「お前は俺のものだ」と言う言葉。リンダは「あなたのものよ」と答えます。う〜ん、若い時には有りがちな錯覚ですね。それが愛情表現だと思っている。違うのです。自分は誰のものでもなく、自分自身のもの。自分の所有物扱いや束縛せず、尊重してこそ愛のはず。

この「俺のもの」思考は洋の東西を問わないのかと、暗澹たる思いに駆られたのは、耐え兼ねたリンダが実家に戻った際の、母の発言です。「殴られるのは、あんたが悪いからだ。妻は夫を喜ばすものだ」と言う返事。それは夫によりけりでしょう。一度「失敗」しているリンダに、二度と同じ轍を踏ましたくない母もまた、18の時に出産した我が子を里子に出していました。この叱責に込められた母の愛情はわかる。でも売春まで強要させられていると母が知ったら?また違う言葉が出たはず。しかし言えないリンダ。何故言わないのか?自分のプライドではなく、母の怒りを買う事が怖かったのでしょう。

母は自分の過去を心底悔やみ、「神様が授けて下さった」リンダの誠実な父に誠心誠意尽くして結果を得た。だから娘にも導いているつもりが、娘は母ほど後悔しておらず、相手を間違えた。なんて哀しいすれ違いでしょう。親子が本当の信頼関係を結ぶのは、簡単ではないのです。

有名になったのに、寂しさのあまり実家に電話するリンダ。父が「お前の映画を観た。悲しかった。母さんはお前がテレビに出ると消しているよ。お父さんたちは、どこでお前の育て方を間違ったんだろう?」この言葉は、娘を責めているのではありません。自分たちを責めているのです。このシーンでは親の立場に立ってしまい、物凄く泣けました。

金の成る木のリンダを、チャックは手放しません。やっとの事でプロデューサーのロマーノ(クリス・ノース)の助けを得て、チャックから開放される彼女。逃げ出すチャンスはいくらでもあるのにと思って見ていましたが、それが出来ないのがDVの恐ろしさなのでしょう。

そして六年後、自叙伝を出すリンダ。結婚して子供もいます。しかしDV撲滅はわかりますが、ポルノ産業にも牙を向く内容らしい。いやいや、業界の人があなたを食い物にしたんじゃなくて、夫が食い物にしたんだよ。この辺は事実に則ってあるでしょうから、納得させるには描き方に工夫が必要だと思いました。彼女を取り巻く人たちで彼女を蹂躙したのは、業界の人たちではなく、夫と売春客だけでした。柳の下を狙うのは、産業面から考えれば当たり前ですから。

何故彼女が六年後、こうした行動を起こしたのか?私が想像するには、「リンダ・ラブレース」はポルノ女優として商標登録しているようなもの。どこにいても、彼女だとわかるでしょう。リンダ・スーザン・ボアマン(本名)の人生の中で、悪しき想い出だった「リンダ・ラブレース」から再生するために、真実を語るという攻撃的な方法に出たのだと思います。そこには夫や子供が後ろ指さされないように、そして親への贖罪があったと思います。この辺のリンダの感情の軌跡は、描き込んで欲しかったかと思います。

アマンダは清楚な役柄が多いのに、体当たりで演じて脱ぎっぷりもよく、とても好感が持てました。実際のリンダより美人なので、ソバカスを描いてみたり、逆メイクで平凡に映るように工夫したり、暴力場面にもきちんと応じて、熱演でした。サースガードは、この手の男性に惹かれる事事態、リンダのお里が知れるようなチャックを好演。最低の夫ながら、彼女を支配しながら依存している様子も、相変わらず上手いです。

私が感心したのは、シャロン・ストーン。いつもの美貌をかなぐり捨てての怖いお母さんぶりは、出色でした。猛母でしたが、その厳しさに母としての愛情もわかり、不器用な人だと可哀相に思いました。これは女優として新たなステージに立ったと言うシャロンの宣言かしら?でもあれだけの美貌の人ですもの、目指すならヘレン・ミレン系の、カッコイイおばさんを目指して欲しいです。パトリックの妻の思いを汲んで、誠実な良人である役作りも、とても良かったです。







紆余曲折を経てのめでたしめでたしのラストは、月並みですが良かったです。まー、しかし、やはり女の一生は男次第、平凡な方が良いと言う人生を今再現する意味は?40年前と今とは、さほど違いは無いようです。映画ではなく、そういう世の中に対して、少し残念に思いました。


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