ケイケイの映画日記
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2012年06月20日(水) 「泥の河」




宮本輝の川三部作は、だいぶ以前に読んだものの、映画の方は全て未見でした。「泥の河」も、今回観た九条のシネ・ヌーヴォでは、時々上映していますが、いつも時間的に合わず未見のままでした。今回台風前の静けさの中、無事鑑賞。月曜日の朝10時20分の回と言うのに、劇場は7割方入っていて、生前主演の田村高廣が「自分の出演作で一番好きな作品は『泥の河』」と言ってた、伝説的なこの作品の力を思い知ります。上映の度足を運ぶ、そういうお客さんが多いのではないかと思います。公開当時まだ未成年だった時より、今の自分の方が数段深く味わえる作品でした。監督は小栗康平。原作は読んでいますが、大昔過ぎて忘れてしまっているので、今回細かい比較は出来ません。

昭和31年の大阪。安治川の川縁で食堂を営む晋平(田村高廣)貞子(藤田弓子)夫婦の一人息子の信雄は、小学校三年生。ある日川に船が留まっているのを見かけます。そこには信雄と同じ年のきっちゃんと姉の銀子が、母親(加賀まり子)と三人で暮らしていました。きっちゃんと友達になった信雄は、銀子も一緒に自宅に遊びにくるよう誘います。二人を丁寧にもてなす信雄の両親。しかし父は信雄に、「あの船に夜は近づいたらあかん」と言います。船は郭船と呼ばれ、きっちゃんたちの母親は、客を取って生計を立てていたからです。

バラック建ての家、舗装のされていない道、ランニングに半ズボンの男の子たち。車ではなく、まだ馬で荷を運ぶ人もいます。もう戦後ではないと言われた昭和31年ですが、晋平の言葉に取り残された人々もいるのだとわかります。「戦争で死んだ方が良かったと思う人もいるやろ。」と言う台詞。

生き残った事の罪悪感、生き残った命を精一杯生きる。私が今まで観てきた映画は、その二つしかなかった気がします。しかし晋平は、死んだ方が良かったと言うのです。戦争を生き抜いても、事故死ししてしまう人もいる、犬死だと。何とか生活出来ている晋平ですら抱える虚無感。高度成長に取り残された人々もたくさんいたのだと、今更ながら感じます。晋平の言う「スカの人生」が、頭にこびりつきます。

そんな晋平をもう一度「生きたい」と思わせたのが、40回って出来た信雄だったのでしょう。この夫婦は妻の略奪婚だったようです。温厚・誠実を絵に書いたような晋平、明るく働き者の貞子。一見そのような陰りは全くありません。普通なら離婚してまで一緒にならなかったでしょうが、それ程子供の誕生は、当時の生き甲斐のなかった晋平の人生を照らすものだったのですね。訳あり夫婦は、訳ありの銀子ときっちゃんにも、何も聞かず温かく接します。夫婦とも罪を感じていて、それが他人への優しさや思いやりに変化しているのだと思います。

信雄に「お名前は?」と優しく尋ねる銀子。貧しい暮らしの中、育ちの良さを感じさせる物腰は、父親が生きていた頃は、さぞ温もりのある家庭であったろうと感じさせます。育ちの良さは、氏素性や経済的なものではありません。如何に愛情に恵まれた生活だったか、私はそう思うのです。行儀の悪いきっちゃんとの違いは、そのまま姉弟の年齢差です。銀子は幸せだった時を充分に覚えているのでしょう。

晋平の前妻(八木昌子)が死の床に付き、信雄に会いたいと言います。この心情は物凄くわかる。自分が産めなかった、愛した男の子供の顔が観たいのです。自分に子供がいたら、前妻が身を引くことはなかったでしょう。「信雄はあてが産んだ子や!」と、憤る貞子。妻としての自分に自信がないのですね。たかが子を産んだくらいで、この傲慢さ。さもしい嫉妬ですが、貞子の不安もわかるのです。この家族は、まだ小さい信雄だけを一人寝かせ、衝立を隔てて夫婦が寝ています。川の字ではないのだなぁと思っていましたが、これは貞子が夫の傍で寝たかったのですね。これはいつか夫が自分の元から居なくなるかもしれない、その怯えなのでしょう。着物に身を包み、結局前妻を見舞い謝る貞子は、女として立派だったと思います。

きっちゃんの母は、夢のように美しい女性でした。こんな汚い郭船には似つかわしくない、淑やかな美貌です。夫の生前も船での暮らし。一時は子供のために船から上がり、工場勤めもしたと言います。とても複雑ですが、私は彼女が夫を今でも愛しているが故、この船で客を取っているのかと感じました。彼女ほどの美貌なら、子供を養うため、妾稼業も出来るはず。しかし一人の人に身を任せるのは忍びなかったのでしょう。ゆらゆら海に漂っているのは、彼女の心なのですね。地上に魂はないのでしょう。懐かしい夫との思い出の船の中だけに生きる彼女。客を取り糊口を凌ぐには、やはり子供のためでしょう。母親のよがり声を聴きながら生活する姉弟。それがどういう事か、子供心にわかっているはず。銀子の子供らしからぬ聡明さは、同性として母親の女心を包んでいるのだと思います。それが出来ないきっちゃん。祭りの後の出来事は、歪な心を蟹にぶつけているのだと思いました。

自分の子供の頃、大人の世界を朧気に理解できているのに、知らない振りをしていた事を思い出しました。親も知らない事です。また都合良く、親も知らないふりをしていた事もあります。信雄ときっちゃん・銀子の出会いと別れを観て、形を変えて自分にもそういう事があったのだと、今懐かしく思い出しています。それで良かったのだと。

モノクロの映像は美しく、公開当時の昭和56年によくあんな風景がまだ残っていたなと、びっくりしました。細々した日常を映すだけなのに、とにかくどのシーンも心に染み入るのです。当時の子は親の顔色を見ながら生活するも、子供は親が大好きだったのがよくわかります。それは今の子供たちだって、同じはず。昔を懐かしむのでなく、昔が良かったとも、全く語らない作品。だから時代を越えて愛されるのでしょう。今の時代の「泥の河」を描く作品が作られないかなと思います。


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