ケイケイの映画日記
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ノルウェーで実在していた少年矯正施設が舞台の作品です。日本で言う所の少年院ですね。同じような内容では、女子強制施設を扱ったイギリスの「マグダレンの祈り」もそうでしたが、非人間的な環境に身を置く少年たちの人としての尊厳を、気高く真摯に描いています。ハリウッドや日本だと、もうちょっと野次馬的に描くところですが、その御陰でとても格調高く叙情的な秀作となっています。監督はマリウス・ホルスト。
ノルウェーの首都オスロから南方に浮かぶ孤島バストイ。この島には問題のある10歳から18歳前後までの少年が矯正目的で収容されていました。下界から隔絶されたような施設にエーリング(ベンヤミン・ヘールスター)と言う少年が送られてきます。院長(ステラン・スカルスガルド)の冷酷で非人道的な統率の元、少年たちに自由はなく、少しの反抗にも体罰が待っていました。子供たちは出院する日を夢見て、従順に従うしかない日常を送っていましたが、反抗するエーリングに、次第に優等生のオーラブ(トロン・ニルセン)たちは、感化されていきます。
日本で想像するには、アルカトラズ島のような感じでしょうか?そんな離れ孤島に連れてこられる凶悪な少年たちにしては、小さい子が多過ぎるのです。ここでは何をして連れてこられたかは、話してはいけないようですが、オーラブは教会のお金を盗んだと言います。年は11歳の頃。多分たった一度でしょう。この施設を運営しているのは国と教会ですが、それにしても罪が軽すぎる。親と6年も離れて暮らす罪とは、私には思えません。後のシーンで、「泥棒の父親と飲んだくれの母親から生まれた奴」と院長に罵られるオーラヴ。作品の背景は1915年、どこの国も貧富の差は激しかったはず。子供の境遇を重視し、少しでも犯罪を犯せば、孤児院代わりに親と引き離して入所させていたのかと想像しました。要するに「悪い血」を断たせようとしたのかと。これだけでも酷い話です。
子供たちに名前は必要ないと、C1、C19などと呼ばれる少年たち。子供たちから尊厳を奪い取る目的でしょう。過酷な労働、残飯のような食事、体罰。卑小で冷血な寮長の監視。少年たちは屈託を抱えながら、少年らしい諍いを繰り返しますが、寮には虐めはありません。自分勝手や罵り、喧嘩を経ながら絆を結んで行きます。これはリーダーであるオーラヴが心を砕いて、皆の面倒を見てきたからだとわかります。
異分子のようなエーリングの反逆ぶりに、快哉を送る子供たち。自分たちも連帯責任を負うのがわかっているのにです。寮長の生徒への性的虐待がきっかけで、初めて反抗に転じるオーラヴ。卒院間近だと言うのに、その心が抑えられない。それは彼が心を砕いて皆をまとめてきたのに、あたかも虐めの傍観者であったかのように、謂れのない「罪」を着せられたからです。ここで眠っていたオーラヴの怒りや正義感が起き上がるのは、とても理解出来ました。長いものに巻かれないのです。これが若さの素晴らしさなのですね。
そしていつもは反抗する側のエーリングが、オーラヴを諌める。そのまま卒院させてやりたいのです。こんな劣悪な環境なのに、いやだからこそなのでしょうか?きちんとした相手を思いやる友情が育つ事を描いて、胸を打ちます。この施設は、ノルウェーの人々から見たら影の部分であるはず。しかし作品は、あくまでも真正面から彼らの心を照らして描いています。私はここにも感銘を受けました。
汚辱にまみれた場面はあえて描かず、観客に想像させる演出が上品です。屋外トイレでエーリングとオーラヴが小説を綴る姿は、そんな場所でも非常に叙情的で、自由を渇望する姿が、静かに胸に迫ってきます。見世物的に虐待場面を描かなかったマイナスの演出は、美しい効果を生んでいました。
子供たちと同じく、指導する側の大人たちにも、娯楽もなく何の楽しみもないバストイで暮らす鬱屈を感じさせます。何故こんな島での仕事を生業にするのか?彼らも「陸」ではきっと半端者なのでしょう。だから子供たちの上に君臨することで、自分の鬱憤を晴らしているのだと感じました。差別の根源です。
長年各国の映画を観ていると、驚くほど同じような恥部が、どの国にもある事に驚きます。自国の恥部を晒して、作り手は自虐しているのではなく、未来のために作っていると、私は思います。「昔は良かった」、そんな事は決してありません。過去にはあったこんな非道、今では許される事ではないと、みんなが知っていますから。未来へ自警と愛を込めて、ノルウェーから贈られた作品です。
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