ケイケイの映画日記
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2012年05月04日(金) 「少年と自転車」




予告編を見た時から泣いてしまった作品。ダルデンヌ兄弟は正直言うと少々苦手なのですが、今回は好きなセシル・ドゥ・フランスが里親役だし、希望の持てそうな内容の気がして観ることにしました。うん、とても厳しいラストですが、私は正しい結び方のように解釈しました。

12歳のシリル(トマス・ドレ)。養護施設に預けられたまま、父親(ジェレミー・レニエ)は行方知れず。父が恋しいシリルは、施設を脱走してまで父を探します。その途中で知り合った美容師のサマンサ(セシル・ドゥ・フランス)に週末の里親を頼みます。何故かサマンサはあっさり了承。二人の関係が始まります。しかしシリルの反抗は止まず、サマンサは養育に手を焼き続けます。

ダルデンヌ兄弟の作品にしたら、とてもわかり易い描写で、些かびっくりしました。シリルがあんなに自転車に固執するのは、あれは父親の想い出であり愛された象徴なのでしょう。それを取り戻してくれたサマンサに、里親を願い出るのは、私にはしっくりきました。

冒頭から父恋しの暴走を繰り返すシリルに、最初から私の涙腺は決壊。私は子供を捨てる親だけは許し難いのです。しかし作品は、おどおどして子供に別れを切り出せない父親の、罪悪感のある気弱い心情にも添って描いており、その細やかさには感銘しました。「何か飲むか?」「食べるか?」。商売ものしか子供に与えてやれない、今の父親の精一杯の愛情なのでしょう。

事実を認識してから、一層反抗するシリル。サマンサには、自分だけを見て愛して欲しいシリル。しかし仕事を持ち恋人もいるサマンサには、シリルだけを見つめることは不可能です。それを理解する力はシリルにはあるのでしょう。反発するのは、サマンサを試す心もあるのだと思います。素直に甘えられないのです。そう言えばシリルは、実の父親には気を使った様子でした。捨てられる運命なのは、わかっていたのでしょう。本当に痛々しくて哀しい。どうにもならない心が反発を呼び、その姿は不良少年に目をつけられる。不良少年のリーダーは、「俺もあの施設にいた」と言います。親に捨てられた孤独な心の本質を知る者同士、打ち解けるのも早いのです。少年少女が悪の世界に引き込まれる様子は、万国共通なのだと思いました。

こんな手のかかる子、何故サマンサは辛抱強く養育するのか?画面では一切描かれません。色んな要因が想像出来ました。シリルに業を煮やす恋人が、シリルか自分のどちらを取るのか?と問い詰めると、「この子」と即答するシリル。元々二人の間には不穏な空気が漂ってのかも?シリルの父親から「もう会えないと伝えてくれ」と言う願いには、毅然と「自分で言いなさい」と返答する彼女。私はサマンサもシリルと同様の過去があったのではないかと想像しました。シリルに手を焼く彼女が行き詰まり、施設の院長に電話する場面の涙は、私は難しい子供と向かい合い格闘する、「親」の涙だったと思います。美しく立派な涙です。

罪を犯したシリル。自分の立場だけを考え逃げる実父に対して、親として一緒に罪を償おうとするサマンサ。本当に安堵したのも束の間、不良の世界に足を踏み入れた同じ場所で、彼は自分の罪と向かい合う事に。あの時とは真逆の行動に出るシリル。これだけ成長したのよ、もう許して上げて欲しいと切に願う私に対して、画面は思いも寄らぬ方向へ。

シリルは結局は自分で罪を償いました。親とは良くも悪くも、子供の防波堤にも後ろ盾にもなりたいものです。シリルの実父にはその力も能力もありません。サマンサには望んでも良いけれど、やはり血の通った親子と全く同じを望んではいけないのです。それを胸に刻むことで、シリルは正しい道を歩んでいけるのではないか?そしてあの携帯の着信音。誰もいないのではなく、彼にはサマンサがいるのです。正しく生きていても苦境には陥るもの、その時サマンサは、喜んで彼の力になるでしょう。シリルは決して孤児ではないのです。

書いていてまた泣けてきちゃったわ。私は親に捨てられた事もなく子を捨てた事もなく、何と幸せな人生かと思います。シリルと同じ境遇の子たちが、正しい人生を歩めるように願いつつ、サマンサのようにとはいかないけれど、私にも出来ることがあればしなくちゃねと、思いました。今回の画像にはその願いを込めました。何が出来るのかはわからないので、まずはこの感想が第一歩です。


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