ケイケイの映画日記
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2012年04月19日(木) 「別離」




本年度アカデミー賞外国語映画賞受賞作。個人的に本ちゃんの作品賞より、外国語映画賞の方が作品の出来は優秀だと思っています。今年はイランの作品です。イランの映画はアッバス・キアロスタミの作品など、時々は日本に公開されており、お国柄もその都度知って新鮮な思いを抱きますが、今作は万国共通と言っていいほど、どの国の人が観ても我が身に置き換えられる内容です。口論の応酬や息詰まる展開に、とっても体力のいる鑑賞でした。人生の中で避けて通れない、とても大切な事がぎっしり描かれている作品です。監督はアスガー・ファルハディ。

テヘランに住むナデル(ベイマン・モアディ)とシミン(レイラ・ハタミ)夫妻。一人娘テルメー(サリナ・ファルファディ)に外国で教育を受けさせたいシミンは、認知症の父親を置いてはいけないと同行を拒否する夫ナデルに対して、離婚訴訟を起こします。決着が着かぬまま、しばらくシミンは実家に戻ることに。自分が仕事の間、父を看てもうらおうと、ナデルは家政婦のラジエー(サエル・バトヤ)を雇います。数日後、ラジエーは外出の折父をベッドに拘束。ナデルとテルメーが帰宅すると、父親はベッドから転げ落ちていました。激怒したナデルは、ラジエーに首を宣告し、詰め寄る彼女を振り払う際、ラジエーは転倒します。その後、妊娠中だったラジエーは流産。ナデルはお腹の子を殺した罪で起訴されます。

冒頭、日本で言えば家庭裁判所でしょうか?シミンからから起こされた離婚訴訟で、口論する二人だけが映されます。二人とも本心は離婚を良しとしないのに、妻は娘のため外国に付いてきて欲しい、夫は認知症の父を置いていけないと話しは平行線。これだけだと、イランでも教育は受けられるのに、身勝手な妻の要求に思えます。シミンは調停員からも、あなたの話は離婚理由にならないと言われます。しかし明確に夫に一緒に来て欲しい、なら離婚しないと願う妻に対し、妻が望むから離婚も止むおえずと言う夫は、ずるいです。妻のせいですか?行って欲しくないなら、何故行くなと言えないの?一見シミンの高望みのせいに感じる離婚理由には、隠された事があるはずです。

シミンの居なくなった家で、義父は「シミンは?」と何度も聞きます。息子も孫のテルメーの名も一度も呼びません。これは如何にシミンが甲斐甲斐しく義父を世話していたかと言う描写だと思いました。独りで家庭を切り盛りし、シミンは辛くなったのでしょう。娘にもっと手をかけてやれたらと、いつも願っていたのでは?それが手枷足枷のない、外国での教育を望んだ理由だと思いました。

一方のナデルは、仕事中以外は父の世話をしようと決めています。イランにも介護施設はあるでしょうが、頭にはありません。立派だと思いました。涙を流しながら父を入浴させる様子が痛ましい。家事、子育てと経験してきた女性には、その延長線上の介護ですが、男性にとっては身内の認知症は、まず無念さが先に立つのでしょう。

ラジエー夫婦もまた複雑です。ラジエーが妊娠中にも関わらず、夫に内緒で働こうとしたのは、夫ホジェットが失業中だったから。自分の妻が侮辱されたと知って、ナデルに襲いかかるホジェットは、一見夫の誇りを持った人に見えますが、妻を窮状に追い込んだのは自分だという自覚は全くなし。裁判所でも、まるでやくざまがいにナデルを恫喝します。このホジェットが私は腹立たしくて。ろくでなしのくせに口だけは立つ。ラジエーは信心深い女性で、他の女性たちはスカーフを被っただけなのに対し、彼女は一貫して伝統的なチャドル姿でした。やはりイスラムでも離婚は厳禁なのかと想像しました。

登場人物は誰もが市井の平凡な人々で、まずそこで感情移入し易いです。複雑に絡み合った感情と出来事が、とても上手く整理された脚本です。誰もが自分の立場だけを主張し、灰色は白だと言い張る。しかし本当は自分の負い目にも気づいている。しかし親の介護や金銭が絡むと、本音を言わないのではなく言えないのです。自分だけではなく、家族にまで事が及ぶから。良き事も悪しき事も。これが「家庭」の本質ではないでしょうか?

ナデルは本当にラジエーの妊娠を知らなかったのか?ラジエーは父を拘束してどこに行っていたのか?その二点の真相が、ミステリーの如く場面を釘づけにします。派手なアクションもなく口論の場面がほとんどなのに、この緊迫感、見事だと思いました。

映画は信仰についても深く考察しています。イスラム教の人はみんな信仰心がとても厚いように感じますが、それも人によりけりだと言うのがわかります。本当に真実を告白すれば、許されるのか?現実は観る者に委ねられ、葛藤の真っただ中にいる彼らに、とても人間らしいものを感じます。この葛藤は信仰というより、私は「良心」だと思いました。しかし泥棒の濡れ衣を着せられたとき、猛然とナデルに抗議し、使用人だからと卑屈にならず、「私に敬意を払いなさい!」と胸を張ったラジエー。貧しい暮らしの中、彼女に人としての誇りを失わせなかったのは、私はやはり信仰だと思いました。

それに比べれば、ナデルの「誇り」は、何だか男性専科の誇りのような気がします。ろくでなしのホジェットといい、まだまだイラン女性は解放されてはいないのでしょう。これはどこの国もですかね?シミンがテルメーに外国での教育を望んだのは、それも理由だったかも?しかし本音を隠しての夫婦の軋轢は、娘のためのはずだったのに、今は娘は置き去りで、一番の被害者はテルメーです。やっぱりぶつかり合う時は直球でなくちゃ。「誇り」が邪魔をして、話をすり替えるて進めると、結果が不毛なのは、これもどこの国も同じです。

イラン特有の事柄を散りばめながらも、親の介護、子供の教育、夫婦の不仲、夫の失業など、どこの国の人が観ても、自分に置き換えて、深く考えながら観られる作品です。お見事でした。




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