ケイケイの映画日記
目次|過去|未来
良い作品だと思います。しかし私は真実を探るジャーナリスト・ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)の造形に疑問が湧き、手放しには褒められません。監督はジル・バケ=ブランネール。今回ネタばれです。
夫と思春期の娘と共にパリで暮らすアメリカ人ジャーナリストのジュリア。夫の祖父母のアパートを譲り受け、手直しをしているところです。今は1942年、フランス警察によるユダヤ人迫害の事件を追っており、偶然そのアパートに住んでいたのが、ユダヤ人一家だったと知ります。当時10歳の姉サラ(メリュジーヌ・マヤンス)は、咄嗟の起点で、弟ミシェルを納屋に押し込め、鍵をかけます。すぐに戻れると思っての事でしたが、両親とサラは、ユダヤ人ばかりを集めた競輪場へ連行され、家には戻れませんでした。ジュリアはサラの軌跡を探している最中、45際にして二人目を妊娠していることを知ります。
前半は現代のジュリアとサラ一家が交互に描かれ、とても良いです。私はユダヤ人の迫害は、ドイツとばかり思っていましたが、フランス当局によって行われていたのです。排泄・食事・睡眠など、人間の尊厳と自由全てを奪われた競輪場のユダヤ人の描写は圧巻で、目を覆うばかりです。その中でサラは、両親から弟を置いてきたのはお前のせいだと、交互に詰られます。常軌を逸した状況で、両親も感情が高ぶっていたのでしょう。この描写も胸が痛く、とても親を責められる気にはなりません。しかしこの事で、サラは絶対に弟を救わなければと、誓ったのだと思います。
どんな苦境が訪れても、サラは屈しません。そしてその時々で自分の名前を「私はサラよ」と名乗ります。記号でも番号でもなく名前。それを明かす事は、サラにとって人としての礼節と誇りを相手に示すものでした。そして、たくさんの名前を失ったまま死んでいったユダヤ人の子供たちの誇りを取り戻そうと思ったのが、ジュリアがこの事件に関わるきっかけだったのでしょう。
と、ここまではいいのです。何も文句無く私も時々涙ぐみながら観ていました。しかしサラの弟の行く末に、サラの住んでいたアパートを借り、その後購入したジュリアの夫ベルトラン(フレデリック・ピエロ)の祖父と当時子供だった父が関わっていました。その衝撃的な出来事は、当時義祖父と義父以外には、祖母にも秘密にしており、記憶の底に閉じ込められていたことです。これを執拗に明らかにしようとするジュリアに、私は違和感とも嫌悪感ともつかぬ感情が湧きます。
何故義祖母にも秘密にしたのか?主婦にとって家は格別のものです。花を飾り、季節のカーテンにしかえ、食卓には色とりどりの料理をのせ。何もない箱のような状態の中を、心を込めて息吹を吹き込み、家とするのが主婦です。やっと安住の場所を見つけ、心弾む妻を思い、この忌まわしい出来事を、母には告げるなと父は息子に言ったのだと、私は思います。
真実を知り、「お祖父様は立派だったわ」と、ジュリアは舅に告げます。これだけで、以降夫の家族に対して、謝罪も相手を思う言葉も一切無し。それは亡くなった祖父の気持ちを踏みにじる事ではないでしょうか?妻である祖母は現存で、この事実を知ってしまいます。祖父は妻だけではなく、のちのちの人生のトラウマになるようなこの出来事から、息子をも守りたかったのでしょう。だから記憶の底に封印させ、自分だけが背負い込んだのだと思います。それを孫の嫁が暴露するって、どうよ?
「灼熱の魂」の感想で、私は「母親が望むなら、子供は真実を知る義務がある」と書きました。そこには真実を知ることで、忌まわしい負の連鎖を断ち切って欲しいと言う、母の子を想う痛切な気持ちがあったからです。しかしジュリアは?ジャーナリストとしての探求心だけだとしか、思えない。夫の身内を想う心があったとは思えません。事実暴走する妻に夫はついて行けなくなり、思春期の難しい年頃の娘は、両親の不仲に心を痛めます。身重の自身の体も全く厭わない。家族が離散する危機に面するような事は、家族を失った痛みを知るサラが、望んでいたとは私には思えません。
真実を知ることは痛みを伴う事もしばしばです。だから私は嫁及び婿と言う立場の人間は、自分が結婚以前の連れ合いの家庭の出来事が、良きに付け悪しきに付け、立ち入ってはならないと思っています。そこには当事者しかわからぬ、歴史があるからです。ジュリアがジャーナリスト魂で真実を暴露するなら、立ち入らず見守るのが私の妻としての美学です。家庭に波風立ててまで仕事をするなんて、そんなの男の専売特許で結構。女性が男性と対等に社会で権利を得るのは、決して男性と同じになる事ではないはずです。ジュリアを観ていると、真実を知りたいのは女性、臆病になるのは男性だと思うと同時に、でしゃばるのも女性だと感じました。
思うにサラは、「鍵」を受け取ったのは自分だと思ったのでしょう。映画は最後の方で、「鍵」を受け取ったのはサラの息子(エイダン・クイン)で、ジュリアの傲慢さをたしなめ、反省させていたのは、とても救われました。
サラが困難にぶつかると、必ず彼女を助けてくれる人が現れ、その度に人の世は捨てたもんじゃないと感じます。特にサラの素性を知りながら、愛情を込めて育てた老夫婦が滋味深いです。サラは彼らに感謝していたのでしょう、家出してから、彼らの性を名乗っています。名前を大切にしていたサラらしい恩の返し方だと思いました。結婚してからもうつ病に悩まされたサラ。それは自分だけが助かってしまったという、自らを責める気持ちと、幸せになりたいと思う気持ちが、常に彼女を葛藤させていたからだと思います。なので安心して暮らせる場所が見つかると、いつもいつも逃げ出したのだと思います。とても痛ましい気持ちになりました。
最後に出てくる子供の名前は、ジュリアのサラに対しての贖罪と感謝でしょう。サラの存在を知ったからこそ、この子はこの世に生まれでる事が出来たのですから。大事に育てる、その決意が込められていたと思います。
ラストがとても余韻があり、好印象なので、結果としては良い映画だったと言えますが、上記の私の嫌悪感で、好きな作品だとは言えません。だいぶ期待していたので、ちょっと残念です。もっと過激な内容と思われている「灼熱の魂」の方が、私には癒され希望を沸かせてくれました。
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