ケイケイの映画日記
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2012年01月08日(日) 「ハスラー」(午前十時の映画祭)



高校生の時テレビで観た以来の鑑賞です。ポール・ニューマンは私の大好きな人で、今回の「青の50本」では一番楽しみにしていた作品です。しかしこれがもう全く覚えていなくて、ジョージ・C・スコットが出てきてびっくり。いや役柄は覚えていたのですが、スコットが演じているのを忘れていて、あまりの事に我ながら呆然。覚えていたのは、パイパー・ローリー扮する恋人サラが自殺したことのみ。しかし何故彼女が自殺したのか、当時はわからなかった事にも、今回は思うことに多い鑑賞でした。

賭けビリヤードの若き凄腕エディ(ポール・ニューマン)。マネージャーの相棒と共に、伝説のハスラー、ミネソタ・ファッツ(ジャッキー・グリースン)に勝負を挑みます。しかし勝っていた事に慢心したエディは、酒を飲み始め、開始36時間後、結局エディは負けてしまいます。失意の彼は、足の不自由なサラ(パイパー・ローリー)と知り合い同棲を始めます。小さな賭けで生計を立てていたエディですが、賭博師のバート(ジョージ・C・スコット)から、自分のサポートで仕事をしないかと誘われます。

冒頭の詐欺シーンは、ハスラーなどと言われても、所詮真っ当な人間ではないと印象づけるのに十分で、このシーンは、作品の根底に流れている主張に対してとても重要だと、鑑賞後思いました。

ファッツとの対戦シーンは設定でも丸一日半なので、かなりの時間を割いています。私は全然ビリヤードはわかりませんが、撮影のカット割りも上手く、二人とも本物らしく見えて、緊迫感があります。観ているこちらもアドレナリンが上がるのがわかります。モノクロの作品なのですが、作品の緊張感を保ちたい時は、色彩は無い方がいいんじゃないかとさえ思いました。1961年度のオスカーで、モノクロ部門の撮影賞も受賞しています。

反逆児っぽい役柄の多い当時のポールは、この作品でも凄腕ですが、青二才の役です。こんなやくざな生業なのですから、生い立ちも恵まれないでしょう。宝石のように輝くブルーの瞳は、モノクロでも美しく、しかし決して眼光鋭いわけではなく、笑顔は人懐こくて口元は幼く、善良さと若きカリスマ性を共存させています。とにかくカッコいい!しかし私が軽くショックだったのは、大昔観た時は、ただのデブのおっさんだったミネソタ・ファッツのエレガントな紳士ぶりです。こちらも穏やかさと切れ者のオーラを共存。エディにはない色気と品格まであり。もうびっくりしちゃった。まぁ若い娘にはわからない魅力だわさ。年を取るのもいいもんだと、ちょっと嬉しかったり。

エディがファッツに敗れたのは、傲慢さのためです。何度も当時の相棒チャーリーが潮時だと言うのに、もう勝ったと思い込み酒を飲みながら戦いだし、「ファッツが止めると言うまで戦うんだ」と言います。挑戦者はエディの方で、相手の息の根を止めるまでやろうとするのは、思い上がりも甚だしいし、自分の歩む道の大先輩へ対して、敬意もまるでありません。あるのは名誉に対しての野心だけで「勝ち」が全てです。当然、力や経験に勝るファッツに、結局負けてしまう。ファッツは最初から最後まで、この無礼な若者に対して、礼節を忘れませんでした。

出会いからしてクールなエディとサラ。無軌道なようですが、屈託したものを抱えて生きていた二人には、心の底でお互いすがるような気持ちがあったように思います。しかし水と油ではなく、火と火のような二人には安らぎは来ない。サラのアルコール依存の正体は、生まれながらの小児マヒと親に棄てられた事でした。愛されることを望むからこそ、自分の障害を告白する事が出来なかったサラ。何人もの男が自分の前から去り、しかしエディだけはずっと傍に居て欲しかったと、家を出ようとするエディに捨て身で懇願するのです。

いつ帰るか解らなくても、それが夫なら待てますが、恋人なら帰っては来ないのです。二人は同棲中で、結婚していません。もちろん結婚だって離婚出来ますが、やはり紙切れ一枚は重い。それは今も昔も一緒だと私は思います。

バート役のスコットが存在感抜群です。「何故お前が負けたか?それは人格の違いだ」「勝負の間に酒は飲むな」など、人生哲学ともビジネス哲学とも、また勝負ごとの教訓も語る彼。全部真っ当な内容です。しかし羽振りが良く大物風を吹かすバート。エディは長年の相棒チャーリーが自分を食物にしていると決別したのに、バートには平伏してしまいます。反骨心も試合をしたい欲望には勝てない。しかしバートは、チャーリーなどよりもっとタチの悪い輩なのです。その事をいち早く察したのは、サラでした。

サラはこの旅でエディと離れる事があったら、それが別れのサインだと思っていたのでしょう。そしてそれは彼女の死を意味します。何度も「愛しているわ」とエディに語りかけた彼女。それが彼女の意味する責任なのでしょう。愛されることばかりを望んでいた彼女が、きっとエディは初めて愛した相手なのでしょう。

自殺するのは大昔もそれなりに意味はわかりましたが、何故バートと情交を結んでから死んだのか、それがわかりませんでした。しかし今回観ると、サラの気持ちが充分理解出来るのです。自分を貶めて死にたいと言う気持ち。そしてバートは、「相棒」の女にも簡単に手を出す男よ。あなたが最高にクールだと思って生きる「勝負」の世界は、所詮はやくざで汚い世界なのだと、命を賭けてエディに訴えたかったのだと感じました。

ラストの再びの対決場面は、もうちょっと長く描いて欲しかったな。でも「俺は今までの俺じゃない。あのホテル(サラが自殺した場所)で全て学んだ」的セリフは、「彼女を愛していたんだ」と言うセリフの答えでしょう。明日の事などわからぬ浮き草の自分だから、愛するという言葉は、サラには言えなかったのです。サラの気持ちが通じるのを感じました。

そして化けの皮の剥がれたバートの様子は、今までの大物感から一変し、狐のように小心で狡い男になっていました。これが彼の本質なのです。もっと言えば、それが「ハスラー」と呼ばれる彼らを食いものにする賭博の世界です。あの立派なファッツまでが、長いものに巻かれています。嘘と欲だらけの世界で、エディは生きてはいけないのだと言うサラの願いは、正しかったのですね。戦いの後「いい腕をしているな」「あんたもな」と、お互いを称え合うエディトとファッツ。やっとファッツと対等になれたエディがいました。

ニューマンのあの素晴らしく美しい目が、色覚異常なのは、広く知られているのでしょうか?裕福な家庭に生まれ、容姿にも恵まれ、育ちの良さが全身から溢れている彼が、何故アウトロー的役柄を好んだのか?それはどんなに頑張っても、100%の人生などないと、生まれながらに知っていたからではないでしょうか?人の痛みがわかり、弱い立場、辛い境遇の人への共感が生まれ、数々の名演技に繋がったのではないかと思います。

では最後にただいまの私の携帯の待受画像をどうぞ。私は世界一美しい男性は、若い頃のニューマンだと思ってまーす。


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