ケイケイの映画日記
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びっくりしました。すごく良かったから。原作は未読ですが、原作ファンの方々から、主演の二人が描く内容からは綺麗過ぎると言う評判は聞こえていたからです。だからあまり期待はしていませんでした。ですが、モントリオール映画祭で主演女優賞に輝いたヒロインの深津絵里は、その透明感と美しさが光代の造形に深く陰影を与えていました。そして妻夫木聡が、本当に孤独で教養のない田舎の若者という風情を、びっくりするほど上手く表現出来ていたんです。妻夫木聡は器用な俳優で、爽やかでそれなりにどんな役でもこなします。それゆえ常に「妻夫木聡が演じている」と感じさせるため、演技巧者の印象はありません。しかしこの作品の初登場シーンで、魚が死んだような目の祐一に、私は目を見張りました。その生気のない目に引っ張られながら、何度も涙をぬぐいました。監督は李相日。
長崎の漁村に住む祐一(妻夫木聡)は、幼い時母親(余貴美子)に捨てられ、祖父母(井川比佐氏・樹木希林)に育てられています。今は叔父(三石研)の元で、解体業で働いています。出会い系サイトで知り合った、福岡に住む佳乃(満島ひかり)と逢瀬を重ねていますが、祐一を蔑む佳乃をはずみで殺してしてしまいます。その頃、やはり出会い系で知り合った、紳士服量販店に勤める30半ばの光代(深津絵里)からメールが届きます。ぎこちなく交際を始める二人。しかし警察の捜査は、祐一に及びます。光代に告白し、自首しようとした祐一でしたが、光代はそれをさえぎり、二人で逃げようと言い出します。
出会い系サイトというと、佳乃のようにセックス目的の男女がメールを送る軽薄なもの、という認識が一般的だと思います。しかし「本気だったと」と九州の方言で自分の心境を吐露する光代。「俺も本気やった」と言う祐一。確かに出会ってすぐにセックスする二人ですが、私たちが認識する思いとは、この二人は違うのです。
この手の作品で人の孤独を描く時は、押し並べて独り暮らしが多いはずです。しかし祐一には祖父母、光代には妹と、共に愛情を持って暮らす人がおり、天涯孤独ではありません。髪こそ金髪に染めてはいますが、祐一は真面目に肉体労働に従事し、光代もやはり真面目な販売員。二人ともきちんとした社会人です。なのに画面の二人からは、寂しさや虚無感が痛切に浮かび上がります。
もし私の親兄弟が殺人を犯し、「一緒に死んでくれ」と言われても、私は即答で断るでしょう。しかしこれが夫や子供たちなら違います。でも私の手を離れてしまった子供たちは、決してそんな事は私には言いません。これが夫の申し出なら、私は喜んで受け入れます。家族という括りの中で、たった一人血の繋がらないのは夫。
こう思うと、人とは成長するに連れ、血の通った身内だけと付き合うのでは、肉体的にも精神的にも、不足感を埋めるのには限界があるのだと感じました。しかし真面目に暮らせば暮らすほど、異性と縁遠い人はたくさんいるはず。その切羽詰まった閉塞感を解放する手段が出会い系サイトだった。そう理解出来ると、二人の「本気」と言う言葉はとても重いです。一見無軌道で激情に駆られた行動に出る二人ですが、決して特別な人ではなく、ごくごくありふれた身近な人達なのです。
他者との繋がりを求める二人を描きながら、同時に血の通った被害者の両親と加害者の祖母、それぞれの子や孫への溢れる思いもきちんと描いています。実の子なのに、心配どころか晒し者にされてと怒る祐一の実母。彼女は息子を育てていません。それに比べ、育ての親である祖母は、「祐一は私の子」と、何があっても言い切ります。血が通っていても、育て関わる、この行為がどんなに深い愛情を育むかを感じます。だから祐一は、祖母には自分の働いたお金でスカーフをプレゼントし、ぎりぎりの生活の母からはお金をむしる。お金をむしり取る事が、愛情の不足感を埋めることだったのに、母はそれに気付きません。
尻軽で虚栄心の強い佳乃。祐一の携帯に残る佳乃の裸体は、若いだけで何の魅力もありません。わざとそう撮っている演出だと思いました。出会い系サイトで知り合った男たちと関係を結んで、お金をもらっていた行動が露わになり、世間から売春婦呼ばわりされます。若さだけが取り柄なのに、こんな上等の女の自分と付き合ったのだから、相手はお金を払って当然だと思っていたのでしょう。思いあがりと間違った自尊心。その思い違いは、佳乃の父親が何度も問う「大事な人はいるか?」という言葉がキーワードだと感じました。
他人から見れば不肖の娘の佳乃。殺害される場面でも、同情さえ沸きません。しかし両親、取り分け父親の娘への思いには、何度も涙が出ました。父が佳乃の幻を見るとき、そこには不純さの欠片もない、愛らしく清純な娘がいます。親に取って子供とは、いつまでも幼い時のままなのです。当たり前ですが、どんな人にも親がおり、その人を「大切に」思う人がいるのだと再認識しました。それと同時に佳乃を観て、大事に思われるだけではいけないのだとも感じます。彼女が両親の思いに応え、本当に自分を大切にしていたなら、決して殺害されることはなかったでしょう。
「光代と出あうまでは、佳乃を殺した事を後悔しなかった。だけど今は、とても後悔している。」と、泣きながら吐露する祐一。光代と言う大切な人を得て、彼の心が成長し変わっていったのです。普段の彼女からは考えられない短絡的で刹那的な行動に出た光代とて、大事な人を失いたくない、その一念だったと思います。例えそれが間違った行動であっても、私は絶対責めたくないのです。
もう一人、強い印象を残す大学生の増尾(岡田将生)。傲慢で尊大、その心ない様子は、佳乃以上に嫌悪を抱かせます。彼の得ている恵まれた容姿や財力は、全て親がかりのものです。それを自分の力だと思い込んでいるので、自分の卑小さに気付きません。増尾の存在は、恵まれない境遇にいる祐一と光代との対比です。前者は平気で人を傷つけ嘲りながら、何の咎めも受けず生きている。後者は決して許されない罪を犯しているのに、理解も共感も出来る。誰が本当の「悪人」なのか?増尾は観客にその事を考えさせるための存在なのでしょう。
「俺はお前の思っているような人間じゃない」「あの人はやっぱり、悪人なんですよね」という二人の言葉の意味。そう思う事こそが、お互いを大事な人であると認める言葉のような気がします。自分を忘れてもらうのが光代のため、忘れてあげるのが祐一の願い。この哀しい逃避行がなければ、決して生じなかった感情ではないでしょうか?
主役二人は上記に記した通り。柄本明と樹木希林の演技は言わずもがな、本当に泣かされました。損な役回りの満島ひかりと岡田将生ですが、満島ひかりの方が演技的には格上を感じさせ、感心しました。でも岡田将生も健闘していたと思います。それよりこの役を二人に振った事で、二人が作り手たちから期待されているんだなぁと、しみじみ感じ、これからも頑張って欲しいと思いました。
「婆さん、あんたは悪くなか!」と朴訥に祖母を励ますバスの運転手(モロ師岡)。増尾の取り巻きの中、一人彼に抵抗感を露わにする友人(永山絢斗)。突然の娘の死に動揺し、亀裂が入りかけるも、お互い支え合って生きて行こうとする佳乃の両親の姿に、人間の持つ良心・善意・勇気が凝縮されて描かれており、決して暗いだけのお話にさせてはいませんでした。
表面だけをなぞり、野次馬的にはやし立てるマスコミに眉をひそめながら、隣人の裏側の実情に思いを馳せる事は少ないでしょう。自分とは縁のないようなセンセーショナルな事件を題材に、実は誰でも祐一と光代になるかもしれないという現代の世相を、二人に愛情をこめて描いていたと思います。彼らを私を救うのは、やはり彼らで私なのだとも、強く感じました。多分今年の邦画の私のNO・1作品だと思います。
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