ケイケイの映画日記
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2009年10月11日(日) 「私の中のあなた」

生と死の尊厳を真摯に見つめた、あざとさのない難病もの。死の迫る少女の痛々しさを描きながら、平行して母親の業も描いていました。お友達によると、監督のニック・カサベテスには心臓病のお子さんがおられるそうで、こっちは裏テーマかも。半分くらいからずっと泣きっぱなしでした。姉役のソフィア・ヴァジリーヴァとキャメロン・ディアス、とっても頑張ってます!

11歳のアナ(アビゲイル・ブレスリン)は、2歳の時白血病を発症した姉ケイト(ソフィア・ヴァジリーバ)の命を助けるため、遺伝子操作から生まれた女の子。しかし生まれた時から、健康な体を傷つけられ続けたアナは、もう臓器提供はしたくないと、勝率91%という辣腕弁護士キャンベル(アレック・ボールドウィン)を雇い、ブライアン(ジェイソン・パトリック)とサラ(キャメロン・ディアス)の両親を訴えます。

まず冒頭、自分が遺伝子操作で姉のために生まれてきたアナの、何とも言えない寂しさのこもる独白が流れます。「ガタカ」で描かれていたことが、本当に行えるようになったのだなぁと思いつつ、生の誕生という神の領域に、人間の関与はどこまで許されるのかという疑問に、一つの答えを出しているように感じます。しかしラストのアナ自身の独白では、全く別の答えが出てきます。

猛々しいまでに子供を愛するサラは、母親以外の人には、どう見えるのでしょうか?予告でも流れていましたが、抗がん剤の副作用のため毛が抜け落ち、外に出るのを嫌がるケイトに、自らもバリカンで坊主頭にしてしまい、娘を連れだすサラ。一見母心の美談に描いていますが、この有無を言わさぬ強引な「母性」に、家族みんなは抑圧されています。そのことにサラだけが気付きません。

少し距離を置いて妻と娘に接する父。何度も妻に助言をしたでしょう。しかし聞き入れぬ妻。子供が死んでしまうことを受け入れられない妻の気持ちが、同じ親なればこそ痛いほど理解出来るのでしょう。やはり子供は母親のものなのかと、誠実な寂しさを漂わす父。

寂しいのは弟ジェシーや妹のアナとて同じです。しかしアナは多大な犠牲を払っても、自分の存在で姉が生命を得ているという自負もあるでしょうが、ジェシーの場合は行き場のない寂しさを、夜の街をさ迷い歩くということで、解消しています。不良になることも出来たでしょう。しかし難病の姉を中心に回っているこの家では、他の子供が曲がる事なんて御法度です。彼らも母を理解しているのです。病気の子を盲愛する母親と、寂しさを託ちながら、二人を愛する家族という図式を丁寧に丹念に描いて、胸に沁みます。

母親の理想の在り方としては、多分間違っていることも多いだろうサラ。客観的に観てはそう思えても、私はサラの気持ちが本当に痛いほどわかります。ガンであった私の母が、もう今日明日には亡くなると言う時、妹と交代で私は母に付き添っていました。その日は次男の4歳の誕生日。眠り続ける母の病室から出た私は、電話口から二人の息子の面倒をみてくれている姑と兄嫁に礼を言い、夫に頼んであったプレゼントとケーキの確認をしました。

病室に戻り昏々と眠る母を観て、私は初めて自分が何てひどい娘かいうことに気付き、涙しました。健康に育っている次男には、来年も再来年も誕生日は来ます。それに引きかえ、自分を生んでくれた人は、今亡くなるかもしれないのに、私は幼い息子が、私のいない誕生日に寂しい思いをすることが心配だったのです。これが逆だったら、私は母の誕生日なんて、意識外だったことでしょう。母だって同じ思いを抱いて、私を育ててくれたはずなのに。母が亡くなったのは、その翌日です。

そんな母親の業を身を持って感じたことのある私は、何故彼女がアナに一言の感謝も言わないのかも、わかるのです。いくら姉のために生んだといえ、お腹を痛めた健康体の我が子が、手術台に何度も上ることに心を痛めない母がいるのでしょか?出産までの経過がどんな理由にせよ、生めば同じ可愛い我が子です。アナに感謝や詫びの言葉を口にすれば、もうアナにはドナーは頼めなくなってしまう。弱い者のため家族が協力するのは当たり前のこと。強引にそう思い込まなければ、こんなことは続けられなかったと思います。母とは良き母であればあるほど、家族全員を黙らせてしまう、こんなにも圧倒的で哀しいのかと、痛感させられます。

ケイトが家族に犠牲を強いて闘病生活を続けることに、辛さを感じているのもよく描けています。そして当たり前のことですが、闘病というのは、やはり本人が一番辛いのだということも、彼女を通して理解出来ます。二歳の時の発病なので、人生のほとんどが病気だったケイト。ですが全てが病との闘いであったわけではありません。闘病生活一辺倒だけではなく、楽しい事や思春期の少女らしいロマンスや容姿の葛藤など、年齢にふさわしいケイトの人生があることをきちんと描く事で、暗くなりがちな内容を、爽やかなものにしています。




ケイトを演じるソフィアですが、最初はダコタ・ファニングが予定されていたとか。ダコタが坊主頭がNGで断り、ソフィアに回ってきたとか。結果は大正解。抗がん剤の副作用で、頭髪どころかまゆ毛やまつ毛まで抜け落ちる姿がほとんどですが、体当たりの演技で、とても好感が持てます。若手女優としてこの頑張りは、私は称賛に値すると思います。

当初は危惧していたキャメロンの母親ですが、ふたを開けてみれば、全編ほとんどノーメイクの大熱演で、闘病の娘より母親役の彼女に泣かされました。近年美貌の劣化が囁かれるキャメロンですが、これくらいの演技が出来れば、まだまだ安泰かと思われます。

他のキャストも全て良かったですが、私が心に残ったのは、娘を交通事故で亡くしたばかりの裁判官役のジョーン・キューザック。まだ娘を亡くした哀しみから完全に立ち直れず、時には動揺して涙する姿の人間らしい素直さが、とても胸を打ちます。哀しい時はいくらでも泣いていいのよ。強くある必要は、私はないと思います。

彼女の語る「死は恥ずべき事ではない」という言葉は、とても重いです。病には頑張れという言葉に共に、勝つのだという言葉も添えられます。若い死は負けなのでしょうか?病を得ると何故こうなったのか、人生を振り返り反省するとともに、その意味を見つめたり、プラス思考で奇跡を起こそうとしたり、様々です。この作品の中でも、そういったシーンがでてきますが、良かれと思って口出しするのは、皆普段は疎遠の親戚です。その無力さや白々しさは、壮絶な体験を経た家族へは、何の慰めにもならないと、監督は断罪しているように感じました。これは監督の経験なのかも。

裁判にはある秘密が隠されていました。私は早々に多分そうではないかとわかり、母を思う子の愛にも泣かされました。ケイトは母も自分も、そして家族も、病から解放されたかったのでしょう。子供とは親が思う以上に成長するものです。それがわからないのもまた、親の性だとこの作品は優しく教えてもくれます。難病の子供を抱えて、仕事のキャリアも捨て、人生の全てをケイトに捧げたサラ。しかしこれだけは言えるのは、ケイトを生まなかった人生より、難病のケイトを得たサラの人生の方が、何十倍も幸せだったと、私は思います。人生に何を求めるかは人それぞれ。豊かでもなく、充実してもいなく、価値もなくてもいい。ただ生きている、それが幸せなんだと、気付かせてくれる作品です。


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