ケイケイの映画日記
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素晴らしい!何故この作品がオスカー作品賞にノミネートされていないのか、とても不思議です。最初は観るのを躊躇っていました。失踪した子供を探し求める母親のお話など、全編ずっと胸が詰まって、辛すぎるかと思ったからです。でも現役監督で世界一だと私が思うイーストウッドで、主演はアンジーという魅惑的な組み合わせに、結局初日に観ました。単なる母モノの枠をはるかに越えて、人権問題、当時の警察の腐敗、宗教感、死刑制度などにも言及した傑作。私は光市母子殺人事件の遺族、本村洋さんを想起してしまいました。この作品も実話の映画化です。
1928年のロスアンゼルス。シングルマザーのクリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)は、電話会社に勤めながら一人息子のウォルターを育てています。休日に急に出勤せねばならなくなったクリスティは、息子を置いて仕事に出かけます。しかし帰宅すると、ウォルターがいません。警察に連絡するも、息子は見つかりません。憔悴し息子を探し続けるクリスティ。そして五か月経った時、ロス市警より息子が見つかったと連絡が入ります。勇んで駅に向かうクリスティでしたが、そこには息子とは別の少年がいました。
前半の母親の強さと優しさを余すところなく描いた演出と、それに応えたアンジーが素晴らしい。「子供は私の命」という言葉は、私は執着の愛を感じてあまり好きではないのですが、愛情いっぱいに子育てもし、仕事もきちんとこなす彼女には、この言葉が相応しいと感じます。息子の待つ家路に向かうとき、上司から昇進の話をもちかけられて、丁寧に対応しつつ、発車する電車の方が気になるクリスティン。子供を一人で置いて出る時、例え仕事であっても、母親とは一分一秒でも早く家に帰りたいものです。その時は子供が私を待っているから、と思うものですが、本当は母親が早く子供に会いたいのです。その細やかな母親の感情を、とても上手く表現していたシーンで秀逸です。
ウォルターが失跡してからのクリスティンの様子には、すっかり同化してしまい、予想通り胸が苦しくて仕方ありません。冷静であれと思いつつ涙がこぼれてしまう様子、狂乱して警察や息子を名乗る子供に喰ってかかる様子など、激しい感情の起伏を見せるクリスティン。とにかくアンジーの演技が素晴らしい。彼女は最初この役を貰った時、断ったと聞きます。養子を含め6人の母である彼女には、クリスティンの役は正常な精神状態を保てないと思ったのでしょう。本当に渾身の演技で、クリスティンが乗り移ったのではなく、アンジェリーナ・ジョリーの母親としての軌跡を全てさらけ出したような演技は、同じ母親の私を打ちのめし、深い共感と感動を与えてくれます。
ここからロス市警の腐敗、それに対抗するキリスト教団体、人権問題、女性蔑視、連続殺人事件、宗教感など、様々な要素が織り込まれますが、これが見事に整理されて、とてもわかり易いです。二時間半とやや長尺の作品ですが、その利点を生かした、たたみ掛けて展開するのではなく、余裕を持った作りです。その甲斐あって、一つ一つの問題定義に、自分なりの答えを見出す時間も与えてもらえます。なのに間延びした感覚は皆無。これは本当に監督の力量あってこそだと思います。
汚職やマフィアとの癒着にまみれたロス市警は、大切なのは自分たちの対面だけで、ウォルターが本人であるかどうかなど、まるで関心がありません。そして彼女の精神状態がおかしいと言い出す。「あなたは気楽な独身生活に味をしめて、親としての責任を放棄したいのだ」と断定する事件担当のジョーンズ警部(ジェフリー・ドノヴァン)。ウォルターの父親は、その親の責任を放棄して、彼が誕生する前に母子から去っているのです。それ故誰よりも親の責任を重んじている彼女に浴びせる、この屈辱的で心ない言葉。クリスティンが発狂したように怒るのも当たり前なのです。
精神病院に入ってからの描写も、警察の腐敗の深さを表しています。立場の弱い女性は、少しでも警察関係者に楯突くと、皆この病院に送られて口封じされてしまいます。人権の尊重など皆無の管理の中、医師や看護師に至るまで、警察の支配下に置かれている様子が描かれます。その冷酷な様子が克明に描かれていて本当に恐ろしい。ただ私が非常に感銘を受けたのは、クリスティンがシングルマザーであったり、入院患者に娼婦がいても、「警察への抵抗」のみが描かれていて、直接彼女たちへの偏見の様子は描いていなかったことです。ひとくくりに弱者の立場の女性でした。当時はそうではなかったでしょう。やれクリスティンはシングルマザーで不道徳だとか、仕事に行ったがため、息子は寂しさから家出したのだの、実話なのでゴシップ記事は溢れてもいいようなものです。しかしそんな卑しい描写は、一切ありませんでした。その事で権力者側につく医療者女性の酷薄さも浮かび上がるし、腐敗した警察と闘うというテーマの的も絞れます。当時では珍しかったであろう、生き生き働くクリスティンの会社の同僚達の様子なども含め、監督の母性だけではない、女性性への尊重を感じました。
クリスティンを救ったのは、直接には教会の長老グリーブレク牧師(ジョン・マルコヴィッチ)です。しかし親切心だけではなく、クリスティンを広告塔に使って、自分たちの勢力を拡大させようとする野心も少し感じさせる牧師。しかしここからのクリスティンは、牧師の思惑より大きな人となります。この事件から自分に課せられた使命を痛感したのでしょう。ここが私が本村さんを思い出した所以です。
あるテレビ番組で彼の特集が組まれた時、「事件当時は何故自分がこんな目に遭うのかと嘆き悲しんだ。でも今は自分だからこそ、与えられた試練だと思っている」と答えられていました。そして殺人事件の遺族の人権を訴える活動をすることは、会社に迷惑をかけるからと、社長に辞職を申し出たところ、「社会人の肩書があった方が、聞く人の心に届くのではないか?休みは取っていいので、会社にいなさい」と返答されたそうです。特集最後に映されたこのシーンが、私は忘れられません。牧師のその後の動向は、この社長さんのように、クリスティンに触発されたのかも知れませんね。
クリスティンは最初から人権問題まで幅を広げて活動しようと思っていたわけではありません。最初から最後まで、ただ息子が見つかりますように、それだけを願っていました。彼女のその心が、上司であるジョーンズ警部に逆らって捜査をしたヤバラ刑事の勇気、精神病院でクリスティンを助けようとする患者のキャロルの反骨心を呼び起こしたのだと思うのです。そして「地獄に堕ちたくない」と罪を告白する少年の心も、彼女の思いが神に通じたのかも知れません。
法廷で「この裁判は公平ではない」と語るある被疑者。私もそう思う。彼こそ、精神鑑定が必要だと思うからです。もちろんそれで罪が帳消しになんてなりませんが、この言葉もまた、重要なこの作品のテーマと重なりました。
たった一つ不満だったのは、ウォルターを名乗る少年の背景がまるで語られていないこと。何故嘘をついたのかは、子供らしい理由ですが、何故長期間平気で母ではない人を、「ママ」と呼べたのか、不思議でなりません。実の親には虐待されていたとか、施設で育って、母と言うものの存在を確かめたかったとか、この辺は実話通りではなく脚色しても良かったかも。「私を母と呼ばないで!」と、怒りを爆発させながら、後で年端もいかない子に何てひどいことをと反省する、母親ならではの感情の起伏を、アンジーがとても繊細に演じてくれていたので、余計不満が募りました。
ラストで描かれるエピソードは、息子を誇りに思って一生を送れるよう、クリスティンへのプレゼントでした。しかしそのため、彼女はその後も息子に人生を賭けてしまったのだなと、エピローグで語られます。でもそれは不幸でしょうか?一筋の希望を胸に抱いてその後の人生を歩んだ彼女は、人が思うより、私は幸せだったと思います。
重要な証言をする少年が、何故今になって出て来たか?という問いに、「ママに会いたかったから。パパにも」というシーンが、私は一番号泣しました。子供は親を選べないという考え方もありますが、私は子供がこの親を求めてこの世に生まれた、と言う考え方が好きです。だからこそ、大事に育てなければいけないのだと思います。クリスティンはウォルターが自分を求めて生まれたことに、立派に応えた人だと思います。
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