ケイケイの映画日記
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映画好きさんたちの間で、すこぶる評判の良い作品。何でもTAOさんによると、松阪慶子演ずる母ちゃんは、私に似ているんだとか。確かに思い当たるところもちらほら。体型とか。でもこーんなに優しくて綺麗で逞しくって、豊か感受性の持ち主に似ていると言っていただいて、とても光栄です。実は私のモットーとしている母親哲学にも、通じる母ちゃんでもありました。
大阪の下町に住む久保房子(松阪慶子)と中三・中二と小学生の三人の息子。父(間寛平)が突然亡くなり、それと同時に父の弟と称するおっちゃん(岸辺一徳)が、久保家にころがりこみます。その状況を担任から「ハムレットのようだな」と言われた次男は、それがどういう意味か確かめるため、「ハムレット」を読み始めます。長男は女子大生との恋、三男は大きくなったら女の子になりたいと、それぞれ悩み事を抱えていました。
私が松阪慶子を好きなったのは、「事件」という作品を観てから。世間一般からは汚れた女である彼女演ずる殺人事件の被害者の、心の底の愛する男性と幸せになりたいという、切々とした気持ちに打たれた高校生の私は、劇場の帰りの道すがら、適当な言葉が見つからず、母に「あの女の人、清純やったね」と言うと、母は「あれは清純は適切ではないわ。言うなら純情かなぁ」と言います。その時初めて、女の哀しさの一つに、「あばずれの純情」というものがあると知りました。それから30年、哀しみも切なさも、豊かな包容力と母性で、みーんな吹っ飛ばしてしまう女性として、松阪慶子は私の前に現れました。
どうもこの兄弟は全部父親が違うらしいのです。一見破天荒な母ちゃんですが、昼は看護補助、晩はスナック嬢としてのアルバイトと、昼夜働いているのに、子供には絶え間なく笑顔見せ、苦労の影を見せません。というか、多分苦労と思ってないし。この辺がとっても素敵でね。
全編しょっちゅう出てくるご飯の場面。何度「ご飯出来たで〜」の房子の声を聞いたでしょうか?スナックに出かける時も、必ず晩御飯を用意してから出かけます。これは私も絶対作って行きます。(私の場合残念ながらスナックじゃなく、病院の受付なので夜診の時なんですけどね)。私が子育てで心がけたことは、「ご飯をちゃんと作る」です。家に母親が作った御飯があると思うと、子供(夫もかな?)は夜の街を徘徊せず、自然と家に足が向くのじゃないでしょうか?
次男が喧嘩して帰ったり、三男が女の子になりたいと言っても、全然動じない母ちゃんですが、一度だけ息子たちを殴ります。それは家族に馴染もうと頑張るおっちゃんの心を無にした時。人の心を思いやることができない息子たちが、許せないのですね。これはわかるなぁ。だいたい思春期で難しいからって、子供の顔色なんかみる必要はないですよ。裸で生まれてきた子を、おむつ替えて病気の時は必死で看病して、食べさせて学校に行かせて、自分はあれもこれも我慢して。なのにどうして子供の顔色観なきゃいけないの? 子供に口応えなんかさせて、たまるかい。
長男が中1の時、クラブの朝練で早朝からお弁当を作ってご飯を食べさせていた時、息子が「お母さん、何か忘れてへん?」「えっ?何」と聞くと、「お茶が出てへんで」と、ふんぞり返って言うではありませんか。当時息子は成績もそこそこ良く、クラブに勉強に頑張る自分が、世界で一番偉い様に錯覚していたのでしょう。その時頭がブチブチ切れた私は、
「あんた、パンツだけははかしてやるから、着てるもん全部脱いで出て行きや。裸で生まれてきたあんたを、大事にここまで大きくしたんは、お父さんとお母さんや。この家のもんは夫婦で協力して買ったもんばっかりで、あんたの甲斐性で買ったもんは、ひとつもあれへんで。あんたが今一生懸命頑張ってんのは、全部自分のためやろ?親は子供のために頑張ってんねん。『俺のために朝早く起きてもらって、ごめんな』の一つもよう言われん子は、この家にはいらんねん。そんな偉そうな態度とるねんやったら、塾もクラブも辞めてまえ!さぁ出て行き!」
私の迫力に見る見る青ざめる長男。「ご、ごめんな、お母さん・・・。俺が悪かったわ」と、以来朝練の時は、私を労ってくれるようになりました。以降次男三男も偉そうな素振りが見えた時、同じようにしたわけね。ぶすっとはしても、母に口応えせず黙っている房子の息子たちは、まるで我が家の三兄弟みたいでした。
久保家の次男は今は大阪でも絶滅種に近いヤンキーで、血の気が多く喧嘩ばかりしていますが、万引き・カツアゲ・シンナーはせず。房子が怒らないのは、このことをちゃんと把握しているからでしょう。三男のことにも心を痛めていますが、彼が自我を通すという事は、茨の人生を歩むということです。決して世間体が悪いことを気にかけているのではありません。長男が異常に老けているのも、きっと気苦労をかけているからだと、心の底ではわかっているでしょう。いつもにこにこ、能天気なようで、房子は子供を信じてちゃんと見守っているのが、わかります。
息子たちだってそう。世間一般からは好奇の目で見られるような家庭であっても、不足はあっても不満はないのでしょう。彼らは立派な母だと思うからこそ、自分のことを最優先します。私は常々子供が親を一番に思ってしまったなら、それは親失格だと思っています。子供が飛びたい時に安心して親の元を飛べる状態にしてこそ、親ではないでしょうか?自分の悩みにけりをつけた長男・次男が次に向かった先は、やっぱり「家庭」でした。これでええのんよ。家族の絆とは、意識せずとも自然に足が向いてこそ、値打ちがあるものです。
脇のエピソードも秀逸。白川和子演じるお婆ちゃんは、三男に「男でも女でもええ。生きとったらそれでええねん!」と、三男の心を汲み取ります。それは房子の妹で、変わり者だった亜希(本庄まなみ)のことを、最後まで理解してやれなかった自分を、きっと悔やんでいるんでしょうね。彼女が悔恨している様子は、亜希の遺骨を抱いた次男三男を迎える時の、「よう来たな・・・」の演技とセリフだけで涙が出ました。白川和子、元ロマポの女王の底力やね!
複雑なファザコン娘由加(加藤夏希)と長男のエピソードも胸に染みました。再婚相手になつく娘に、「あんたはお父ちゃんの子を産むこともできるねんで」と、嫉妬して言い募る母など、私は信じられませんが、何よりも母親が勝る房子との、対比になっているのでしょう。ファザコンから抜け出せない自分のみっともなさは、由加自身が一番わかっているはず。彼女が一目で長男を頼ろうと思ったのは、彼の醸し出す長男としての母や兄弟への思いを、包容力と受け取ったのでしょう。この辺は複雑な家庭に育った者同士、魅かれあうのは、私には理解出来ました。
甲斐性のないおっちゃんは、自分はこの家の迷惑者だと卑下すると「黙って家を出たらあかんよ」と、優しく房子は慰めます。きっとずっとダメンズ好きだった房子、男の一人や二人、養うのは平気なんでしょうね。「子供の頃から男の子がついてまわった」(祖母談)「今も昔もおんなじや」(二男談)の房子ですが、その美貌と天真爛漫な性格を生かして、玉の輿をゲットしようという浅ましい心はなかったようで。この辺も潔くて素敵です。
看護補助とスナック嬢とは、母性と美貌と言う自分の最大の武器でお金も稼ぐ房子。その逞しさやしなやかさは、まぶしいくらいです。人間学歴や資格がなくても、何やっても生きていけるもんやわ。ラスト四男を抱いた次男が夕陽を見ながら、「誰の子でもええ。お前はうちの子や」と語る姿が爽やかです。生きている、例えぶざまであっても、ただそれだけで素晴らしい。それがこの作品を貫くテーマなんだと、しみじみ感じました
陣痛の最中にも「あんたら、ご飯食べた?」と聞く房子には、思わず爆笑。いえ、私も三男出産の折、夫に連れられて見舞いに来た長男次男に、分娩室で同じことを言ったもんで。母親は子供を手放したら、もう母親ではないねん。それが父親とは違うところだと思います。子供を育てるというほど、母親にエネルギーを与える仕事はありません。房子はそれを知っているから、恵まれた子は、皆産むのでしょうね。
うちの子は優秀な子は一人もいませんが、三人とも心身ともに健康で、別段反抗期もなく、でも伸び伸び「健やか」に育ってくれました。母親として大変満足しています。その点は久保家の三兄弟と同じです。この作品が好評なのは、今の時代、子供達に欠けている「健やかさ」を、見せてもらったからでしょう。心身ともに健康ならば、後は全部もうけもんですよ、若いお母さんたち。この作品を観て是非感じ取って欲しいです。
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