ケイケイの映画日記
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「ハッシュ!」の橋口亮輔監督の作品。実は橋口監督のデビュー作「二十歳の微熱」は、ケーブルテレビで数年前観るも、全然生理的に合わなくて途中で降参しました(私には滅多にないこと)。なので当時大評判だった「ハッシュ!」(レンタルで鑑賞)も、身構えて観ましたが、こちらは手に取るように登場人物の気持ちも理解でき、とっても楽しく拝見。前評判の高いこの作品は、すごく楽しみにしていましたが、実体験と重なり非常に身に詰まされるシーンも多くて、泣いて笑って心に染みました。ありふれた夫婦の10年間の日常を描いただけの作品ですが、とても心に残る作品でした。
美大時代から10年の付き合いの翔子(木村多江)とカナオ(リリー・フランキー)夫婦。ただ今妊娠中の小さな出版社に勤める美人で几帳面な翔子と、靴の修理屋から法廷画家に転職したばかりの、甲斐性は乏しいけれど根は優しいカナオは、一見不釣り合いなれど、仲良く暮らしていました。しかし翔子が生んだ女子は、誕生後にすぐ死亡。悲しみの深さに、翔子は精神を病み鬱になってしまいます。
妊娠中のしっかり者の妻と頼りない夫ぶりが、とても微笑ましいです。何でも決まり事を作って、そのルールに則る妻と、全然守れないのもご愛敬の夫。夫婦が言い争いする場面ではクスクス笑いました。いやー、男に毎日10時までに帰って来いだの、週三日、曜日を決めてセックスしようだの、それは無理でしょうー。その気になるように口紅をつけてくれというカナオの言葉に、堪え切れずに声を出して笑ってしまいました。場内も同じような反応だったので、私を含めて身に覚えがあるような会話なのでしょうね。仕事ではきちんとスーツを着こなす翔子が、家庭では着古しのスウェット姿で素顔なのも、オンとオフの翔子を上手に表していて、この夫婦がとても身近に感じました。
ただ気になったのは必要以上に決まり事を作るのと、妊娠中であるのに、週三回はやっぱりセックスしなくちゃと思い込む翔子の性格です。わたくし事ですが、妊娠した!とわかった時点で、毎回そういう気はほとんど起こらなくなったもので、ちょっと不思議でした。もちろん私が一般的というのではないのですが。しかしそれは、翔子の抱える背景が段々と露見すると、とても理解出来るのでした。それはカナオも同じです。
橋口監督自身「ハッシュ!」の制作後、鬱になったそうで、翔子は自身を投影しているとか。私は鬱の経験はありませんが、翔子が自分に思えてなりませんでした。実は私も最初の子供を妊娠四か月の時流産しているんです。結婚して避妊しなければ、翌月には妊娠するもんだとばかり思っていたのに、何で毎月生理が来るんだとイライラし始めた矢先の、結婚四か月の時でした。四月の中旬に妊娠を確認して、六月の初めに流産しました。画面で映る翔子は、あの時の私と全く同じ。ボーとして家事も手につかず、訳もなく大声を上げて泣いて泣いて。だけどそれは誰にも見られたくないのです。泣いた気持ちを訴えればいいのに、夫が帰ってくると、仏頂面で不機嫌に迎えてと、何で監督は子供を失った女性の気持ちがこんなにわかるのかと、感嘆しました。
私がその状態から脱したのは、二ヶ月後。長男を妊娠してからです。前回の妊娠は自然流産(一口に言えば、受精卵の異常)なので、母体は健康だから普通にしていればいいとの医師の言葉も、素直に聞けました。しかし翔子は、それから長いトンネルの中に入り込みます。一見不可解な行動も、すぐ死んだのは丈夫な子に産んであげられなかった私の責任だと、自分を責めたからだと思います。当時何も知らない21歳だった私は、亡くした子が帰ってきたと素直に喜びましたが、30を過ぎた翔子では反応は違って当然です。豊富な人生経験は、悩みを深くすることもあるのでしょうね。
翔子の育った家庭は、父は女性を作り出奔、母(倍賞美津子)が女手一つで兄(寺島進)と翔子を育てました。怪しげな医療行為でお金を稼いだり、新興宗教の教祖めいたいことをする母の姿や、昔は悪さしてましたけど、今は成金です風の兄の様子から、翔子がきちんとすぎるくらい几帳面に真面目なのは、この家庭環境からぐれないように曲がらないようにと、自分を律することで身を守っていたのでしょう。私も育った家庭が複雑なので、似たような思いを抱いて暮していました。
翔子が「こんなはずじゃなかった。もっとちゃんとしたかったのに」と号泣する場面では、私も号泣。彼女が家庭に夢を描き、どんなに賭けていただろうかというのが、痛いほどわかるのです。私もそうだったから。
カナオはというと、子供の頃に父親が自殺。今は親兄弟とも疎遠と描かれ、彼も一般的な幸せな家庭に育ったとは言い難いのでしょう。飄々として優しくていい人なのはわかるけど、何も考えていなさそうなカナオ。彼には深く物事を考えないことが、自分の身を守る方法だったのでしょう。病んでいる自分に何も言わない夫は、翔子にはとっても物足らなかったはず。責められた方が気持ちが楽になる時もありますよ。そう、喧嘩した方が、スカッとする時があるんです。二人が映画の中で初めてぶつかる場面は、翔子の気持ちを前面に出していたのに対し、控えめながら、カナオがいかに妻を大切に思っているかも伺える、本当に夫婦らしい場面でした。
カナオの仕事は法廷画家なので、この10年間の事件が、犯人の名前を変えて登場します。幼女連続誘拐殺人事件、オウム事件、小学生殺傷事件など。カメオ出演的犯人役で秀逸だったのは、友人の子供を殺した母親役の片岡礼子。彼女は橋口作品の常連です。涙を流し続け、すみませんと繰り返しながら、どす黒いものが、未だ彼女の心を覆いつくす様子が、手に取るようにわかるのです。他の犯人役は異常者ぶりを際立たせていたのに対して、あまりに違う演出方法だったので、これが監督のこの事件に対する感想なんだと受け取りました。セリフも全然少ないのに、すっごく上手でした、片岡礼子。
法廷を映しながら、不動産屋の兄のバブル期から以降の衰退ぶりも描き、上手く時代の移り変わりと、夫婦の変遷を絡めていました。特に最初は素人だったカナオが、辛い事件では描きたくないと反抗したりしていたのが、最後の方では事件の内容に振り回されず、きちんと職業画家として成長した様子を見せてくれます。それは法廷画家としてだけではなく、夫婦の葛藤を潜り抜けた、カナオの夫としての成長をも感じさせるものでした。
木村多江には、今年の主演女優賞を全部あげちゃって下さい!静かで古風なイメージを覆す大熱演なのですが、これがとても自然に受け取れるのです。大竹しのぶ風の人が演じたら、辟易してしまいそうな翔子を、こんなにも素敵に共感を呼ぶ人に見せてくれたのは、お礼を言いたいほどです。リリー・フランキーは、演技なんだか地なんだか、全然境目がない風でしたが、とってもチャーミングで、なるほど、「東京タワー オカンとボクと、時々オトン」の人だわと、ものすごく納得出来たカナオぶりでした。
予告編に出てきた、天井を見つめてふざけあいながら笑う二人。ああしたシチュエーションは、恥ずかしながら未だにうちもあります。こののんびりとした、豊かにゆったり流れる時の幸せは、夫婦だけが分かち合えるものだなと思います。うちもこの映画の夫婦みたいに、一見は全然合わないんです。でも私たち夫婦と似ているような似ていないようなカナオと翔子が、私たちにぴったり重なり合うとき、夫は私にとって、とても大切な人だと再確認しました。
天井の絵は、翔子が描いたものです。彼女の復活を表す、色鮮やかで優しい生命力に溢れた絵を、どうぞご覧下さいね。
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