ケイケイの映画日記
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わ〜、すっごく楽しい〜!この作品の元作は、あのカルト映画の王様ジョン・ウォータースが監督した1988年度作の「ヘアスプレー」なのですが、その後この作品はブロードウェイでミュージカル化され、そのミュージカルを映画にしたのがこの作品と、ちとややこしいです。「これであなたも愛され上手」とか「究極の愛され服」とか、若い子の雑誌で最近よく常套句として「愛され○○」と形容するのが出てくると、何だかうんざりした気分になる中年の私ですが、その「愛され系女子」がおデブちゃんのトレーシーになるだけで、媚ではなく、活気あふれるものになるのには、びっくりでした。
1962年のアメリカのボルチモア。16歳の高校生のトレーシー(ニッキー・ブロンスキー)は、歌とダンスが大好きなちょっと(本当はだいぶ)太めの女の子。今日もスプレーをバンバンかけて、高めのヘアスタイル作りに余念がありません。そんな彼女と親友ペニー(アマンダ・バインズ)の一番の楽しみは、テレビ番組の「コーニー・コリンズ(ジェームズ・マースデン)ショー」を観ること。ティーンが歌い踊るこの番組で、いつの日かレギュラーになるのが夢なのです。しかしやはり超太めのママ・エドナ(ジョン・トラボルタ)は大反対。太めの体をバカにされて、娘が傷つくのを恐れているのです。しかし「ジョークのおもちゃ」の店を経営するパパ(クリストファー・ウォーケン)は応援してくれます。ほどなくコーニーの目に留まったトレーシーは無事レギュラー入り出来、あっと言う間に人気者に。しかしそれまで番組の中心的存在だったアンバー(ブリタニー・スノウ)と、番組プロデューサーのベルマ(ミッシェル・ファイファー)の、美人ブロンド母娘は面白くなく、あの手この手でトレーシーに意地悪します。しかしその意地悪のお陰で、黒人差別の実態を知ったトレーシーは、友となった彼らのために、力になりたいと感じ始めます。
あぁ今回はあらすじが長かった。最後の二行にたどり着くまで、是非書きたかったのです。ということで、実はこの作品の本当のテーマは、因習深き60年代のボルチモアで、人種差別に抵抗する全てとの黒人たちと、それを応援する少数の白人たちのお話なのです。
差別されるのは黒人だけではありません。ベルマ母子から蔑みの言葉や嫌味を言われ続けるトレーシーだって、その体型から差別されるのです。しかもその差別は、実は男性より同性の方がネチネチしているのですね。男性の方は、性格美人のおデブちゃんがいっしょにいて楽しい子だとわかると、「コーニー〜」の一番の人気者リンク(ザック・エフロン)のように、その外見には案外無頓着になるのに対し、同性の女性の方は、意地悪アンバーのように「何よ、デブのくせに!」と一層差別心丸出しになる子がいるのですね。私は女子高育ちなのですが、容姿に恵まれない子が突出して出来が良いと、陰でひそひそ「ブスのくせに」と、それで全人格を否定する輩が、どの学年でも必ずいました。女性は美が全てを支配する、そう女性たちが思いこむのはどうしてでしょう?
それをデフォルメして体現していたのがベルマ。彼女は元ミス・ボルチモアなのですが、それは審査員たちと寝て、勝ち取ったものです。女性として当時としてはかなりのキャリアのあるベルマですが、トレーシーのパパを誘惑しようとする様子など、それも寝技でのし上がってきたのは明白です。アンバーはその輝くような美貌を武器としなければ、どんなに優秀であっても男性優先の社会では、生き残れなかったのでしょう。1962年当時を映す風俗描写のはずですが、離婚した夫を見返したい意地を感じさせるところなども、この辺は脈々と現代にも通じているものがあります。だからイマドキの女の子が、受動的にしか愛を表現出来ない「愛され○○」が、私は嫌いなの。
トレーシーを演じるニッキー・ブロンスキーが素晴らしい!とにかくキュートなのです。画像を観ておわかりのように、かなりのおデブちゃんなのですが、ハリがあって声量のある歌声、キレもあるけど、ゴムまりが跳ねるようなユーモアを感じさせるダンスが、これまたとっても愛らしいです。何故こんなに可愛いのかと考えたのですが、この可愛さは赤ちゃんに通じるのですね。丸々太ってボンレスハムみたいな赤ちゃんを観て、「この子太り過ぎでブサイクね」と思う人は、よっぽど意地悪な人でしょう。純粋に黒人たちの踊りをカッコ良いと憧れ、教えをこう素直さ。仲良くなった彼らの苦境を知るや、何とか力になりたいと奮闘するある意味分別の無さは、世の中の構図を知らないから出来る、若さだけの特権でしょう。その瑞々しさや純粋さには、大人をも目覚めさせる力があるんですから、これも赤ちゃんと同じですよね。
その他登場人物が全てよく描きこまれています。演じる俳優もベテラン揃い。腕もあって華もある俳優ばかり集めているので、普通これくらい集まればギトギトするのですが、目立って良いシーン、相手の個性を引き立てなければいけないシーン、それぞれがわかってお芝居しているので、とってもアンサンブルが良いです。ファイファーは意地悪アンバーを演じて嫌らしさ満開ながら、50歳前にしてその美貌の凄みに感嘆。上に書いたような女の哀しさもきちんと感じさせるなど、絶妙の敵役で、とってもチャーミングでした。ウォーケンも超鈍感で変人ながら、とっても善人で愛妻家の夫を演じて出色でした。クィーン・ラティファも、黒人たちのビックママ的存在のメイベルを、包容力があって求心力抜群の存在感で表現し、それをご自慢の歌声でさらに強化して、お見事でした。嬉しかったのはジェームズ・マースデン!いっつもいっつも優等生でいい人なのに、ふられたり死んでしまったりの役ばっかりで、明るい彼は観たことがありませんでした。あぁしかし、この作品では弾けるような明るさで、スーツを着て髪型もびしっと決めて、60年代の品行方正で由緒正しきスターっぷりを見せてくれます。未来は差別がなくなる世界だと信じて、押してもだめなら引いてみな、的な柔軟な手法で黒人たちを応援する姿は、向こう見ずではない、大人の対応の仕方だなと勉強になりました。 その他若手の主要人物たちも、若々しくて健闘していましたが、如何せんベテラン陣が素晴らしくて、ちょっと影が薄かったですが、それはキャリアの差なので、致し方ないことでしょう。
そしてそして、画像のトラボルタ!元作のエドナが、伝説のドラッグクィーン、ディバインであったための起用かと思いましたが、舞台のミュージカル化に際してのウォータースの注文も、「エドナ役は絶対男性で」だったとか。
トラボルタと言えば、私が青春時代熱狂した「サタデーナイト・フィーバー」や「グリース」などでも、ダンスの腕はお墨付き。こんなファットスーツ着て踊れるのか?と思っていたんですが、弘法筆を選ばず、じゃない役者役を選ばずで、全然OKなステップでした。なんでもエドナになるための特殊メイクは、毎日6時間かかったそうですが、その甲斐あって、見事な母親っぷりです。その超ふとっちょな体からは、暑苦しくもありがたい母性が充満です。仕事が忙しくなかなか夫がかまってくれなくても、「男の人は家庭よりお仕事が大切なのよ」と、60年代は日米とも良妻賢母のおかげで社会が成り立っていたのだなぁと、つくづく感じました。結婚して太ってしまった自分を恥じて外へは出ません。実は私も結婚前から十数キロ太ってしまって、夫からは詐欺師呼ばわりされて幾歳月、昔は傷ついたもんですが、最近では「あんたが三人も子供産ますから悪いねん」と開き直る有りさまで、エドナの爪の垢でも煎じて飲まなくてはと、深く反省(嘘)。
エドナはクリーニング店も営んでいるのですが、ガチガチに堅くお上品であることが生活の信条のペニーの母親は、ペチコートの値段が高いと文句を言います。「シミを取るのに苦労したからよ」と言い返すエドナ。「失礼じゃないの!」と言うペニーの母ですが、このシミって多分生理の血液でしょう。お金を出すからと生理の血のついたままのペチコートをクリーニングに出すなど、まったくもって恥知らず。女としてあまりに不作法です。
対するエドナは慎み深く、夫への愛を表現する姿は本当にいじらしく、パパが「お前にしか興味はない」と言い切るのに充分な女らしさです。こんな素晴らしい女性のエドナを男性俳優でと拘ったウォータースの真意は、人間は表面の氏素性や地位で計るなかれ、中身を見ろ、そういう意味かも知れないなと感じました。
最後になりましたが、ミュージカルシーンは盛りだくさんで、時代設定の60年代にマッチした軽いロックンロールが楽しく、歌いあげる黒人のブルースはファンキーで、声量の豊かさには圧倒されます。踊りも同じ若さの表現でも、白人は端正で正統的な雰囲気、黒人は自由自在で力強いステップと振り付けも変え、こちらもとても楽しめました。
主役は超重量級なのですが、スクリーンはどの場面でもとっての軽やかでコミカルで、爽やかさがいっぱいです。舞台版をご覧の方には物足らないかもですが、こちらもとっても上出来ですので、是非ご覧下さいませ。
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