ケイケイの映画日記
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2007年09月26日(水) |
「酔いどれ詩人になるまえに」 |
チャールズ・ブコウスキーが主人公チナスキーに自分を投影して書いた、自伝的小説「勝手に生きろ!」が原作です。恥ずかしながらブコウウスキー作品は何も読んだことがないので、この作品を観る前に何か読もうと古本屋に立ち寄りましたが、ブコウスキー作はなし。出来れば「町で一番の美女」が読みたかったのですが。代わりに目についた中村うさぎの本を買ったのですが、これが面白くて数冊読むほどはまってしまいました。何やらこの作品の試写会では「日本の最後の無頼派作家」として、うさぎ氏が招かれたらしく、縁があったのかな?中村うさぎは破滅の道を行く自分自身の分析がしっかりと出来た、かなり聡明な人で(わかっちゃいるけど止められない、というところも人間臭くていい)、やはり共通項があるのか、彼女の作品を読んだおかげで、普通は通り過ぎるような箇所に新鮮な発見があり、この無頼なろくでもない男を、最高に好きになってしまいました。
自称詩人・作家のヘンリー・チナスキー(マット・ディロン)。生活のために仕事は見つけるのですが、せっかく就いた仕事なのに無断欠勤したり、途中で呑んだくれたりして、すぐクビに。そんな時知り合った、同じような飲んだくれ女のジャン(リリ・テイラー)と意気投合したヘンリーは、すぐに彼女のアパートに転がり込みます。職を転々としながら、酒・女・煙草を手放さず、そして時々ギャンブルのチナスキーなのですが、書くことだけは辞めませんでした。
そのしまりのない体は不節制のせいなのですが、見方を変えれば少々のたくましさもあり。今度の仕事は続きそうだと思うと、やっぱり酒が祟り失職。「チナスキー君、クビだ」。この言葉が、何度劇中出てきたことか。しかしチナスキーは、誰が認めていなくても、詩人であり作家なのです。何故なら自分で決めたから。決めたからには毎日書くことだけは続けます。
その姿は自堕落すぎるし、「カポーティ」のような、書くことへの狂気でも熱意でもありません。孤高なんてとんでもない。あるのはいつか世間を認めさせてやるという気概と、「自称詩人」としての意地なのです。これがだらしないチナスキーを、一種清々しくさえ見せるのです。その意地が人としてのチナスキーの崖っぷちのプライドなのだと思いました。とは言え、立派な身なりの本当の作家に会うと途端に弱気になり、競馬で儲けた金で、スーツをオーダーして見てくれだけ「作家」にするのですが、これも一歩間違えば卑屈で屈折した描写になるのでしょうが、この作品ではチナスキーのペーソスたっぷりの愛嬌として描いています。
マット・ディロンがもう最高!普通はただのぐうたら男にしか見えないはずのチナスキーを、熱演ではなく飄々と演じて素晴らしいです。この不精髭で汚ならしい男の、束縛されない内面の自由自在さを、余裕綽々で演じていました。
まさに腐れ縁という言葉がぴったりのチナスキーとジャン。二人とも好きものであるとは感じますが、酒には溺れてもセックスには溺れているようには見えません。求めてはいるのですが、そこには肉欲はなく、「愛」という言葉を使うけど、まるで分身を求めているようなのです。この二人はとっても「肌が合う」のでしょうね。「肌が合う」というのは、単に上級の体の快感を得る相手だというより、セックスした後に、共に満足感を感じる相手なんじゃないでしょうか?それは肉体的なものだけではなく、心も暖められる相手のはずです。刹那的な明日の見えにくい生き方をしている、それも若くもない二人だからこそ、セックスに心の拠り所を求めていたと思います。二人とも何人もの異性が人生を通り過ぎていったはず。山ほど相手の欠点も知っているはずなのに、これが理屈ではない、男と女なんだなぁと感じます。
ディロンも素晴らしいですが、ジャンを演じるリリ・テイラーがまたもう素晴らしい。彼女はメジャーからインディーズ作品まで幅広く出演していますが、光り輝くのは断然インディーズ作品の方。決して美人ではなく若くもない彼女が、この作品では何と愛らしいことか。ろくろく家事もせず、身なりは年も考えず常にノーブラのタンクトップ姿でミニスカート、考えることはセックスと飲むことだけ。どこから見てもロークラスの女なのですが、決して下品ではないのです。チナスキーが迎えに来た時の幼女のような無心で純粋な笑顔、チナスキーに日銭が入るのを宛てにして、彼女なりに精一杯お洒落する様子など、女の私でも可愛いと思うのですから、男性ならイチコロでしょう。
お金がなく無人の車から煙草を失敬して、嬉しそうにふかす二人。本当にバカなんですが、女としては、覚ありたいなぁとも思うのです。惚れた男が泥棒したのを咎めるのは、チナスキーみたいな男の女としては、失格ですよね。だって男は自分で変わりたいと思ってないんですから。もう一つ好きだったシーンは、ハイヒールが痛くて足を投げ出すジャンに、チナスキーが自分の履いていた靴を脱ぎ履かせ、自分は裸足で並んで歩くシーンです。私はこんな優しい男を観たことがありません。
下品に見えないのはチナスキーもいっしょ。ディロンのなりきった役作りと監督ベント・ハーメルのチナスキーへの愛もあるでしょうが、演出でそこかしこ工夫していました。まず家が古くても片付いている。普通ああいう人の家は、足の踏み場もないほど汚いはずです。チナスキーもジャンも、酒や煙草には際限がありませんが、決してドラッグには手を出しません。ジャンもチナスキーと上手くいかない時、人肌恋しくて他の男と寝ますが、体を売るわけではありません。車から煙草を失敬しても、お金には手を出さない。そういうギリギリのところで尊厳を守っているので、二日酔いの朝、二人で代わる代わるトイレで吐いても、ユーモラスに思えるのです。
チナスキーの両親が出てきますが、厳格な父、優しい母です。こんなろくでなしで理解不能な息子に育つなど、実直な彼らの人生の汚点かも。しかしこんなしっかりした親を持つからこそ、息子は安心して破天荒に、「勝手に生きて」これたのだと思います。久しぶりに顔を見せる放蕩息子に、何も言わず笑顔で手料理をふるまうお母さんが、印象的でした。この母あっては、息子は警察沙汰は起こせませんよね
そして何より飲んだくれている時のチナスキーは、本当にまったりと幸せそうなのだなぁ。私は全くお酒が飲めず、いつも宴会ではつまらないのですが、この作品を観て、やっぱりこれは人生の痛恨の極みかもと感じました。 愛すべきろくでなし男を、シニカルやクールにではなく、悪臭ではない人間臭さを散りばめながら、暖かいユーモアとペーソスを滲ませて描いた秀作でした。私は大好きな作品です。これがブコウスキーの世界なら、絶対何か読まなくちゃ。マリサ・トメイもすっかり老けちゃったけど、とってもいい味で出演しています。
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