ケイケイの映画日記
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主演のシャーリーズ・セロンが、本年度オスカーの主演女優賞を取った作品。類まれな美貌でセレブな雰囲気の強いセロンが、実話を元にしたこの作品のため15キロ太って、その上逆メイクと言うか不細工に変身して演じたことばかりが注目されていますが、ストーリーもなかなか見応えがあります。
主人公アイリーンは娼婦です。私のイメージしている娼婦とは、毒々しい化粧をほどこしながら、露出度の高い服を身にまとい、少々安物の色気を振りまく女性、と言うものです。まず驚いたのは、ヒッチハイクで客をつかまえるアイリーンは、男だか女だかわからないような姿なのです。化粧っけもなく女性らしい色気もなく、何日前にお風呂に入ったのか分からないような有様。それでも客はつく。これが女の性を買うと言うことか、と男性の持つ性に対しての浅ましさ、滑稽さ、そして少しの哀れさも感じます。
対する13歳からこの仕事しかしたことのないアイリーンは、底辺を這いずり回りながら、人からの侮辱と好奇の目に慣れっこになり、何の希望もなく生きています。この観ている者に、猛烈なやり切れなさを感じさせるセロンの演技が素晴らしいです。歩き方・話し方から、本当に下品で荒んだアイリーンになりきっています。
ふとしたことから知り合ったレズビアンのセルビー(クリスティーナ・リッチ)と恋に落ち、彼女のために真っ当な仕事を探しますが、学もなく手に職もない彼女を雇ってくれる所はありません。ですが、彼女は獣医になると言ったり、面接に選ぶのもいきなり弁護士秘書であったり、あまりに世間を知らなさ過ぎます。これは世間の冷たさを責めると言うより、家庭の愛を知らず、学校に行けず、まともな仕事についた事のない、人生で学ぶべき場所に一度もたどり着けなかった、アイリーンの哀しさと孤独を、無知・無教養と言うことで表現していたと思いました。
対するセルビーは、「私の面倒をみてね。」と甘え、お金がなくなると、「お腹がすいたのに、あなたは何も食べさせてくれない。」と泣き叫び、まるで幼い子供並みです。生活のため再びアイリーンに客を取ることを望んだり、自分の保身のために彼女を切り捨てたりのセルビーですが、私はしたたかさより、彼女も未成熟なあまり、こういう思考しか浮かばなかったと見えました。その性的嗜好を周りから罵倒され、ノーマルになるよう強要されてきた彼女は、未成熟でいることで周りの関心をつなぎとめようとする処世術が、知らず知らずついたのでしょうか?
アイリーンは、レズビアンになったのではありません。初めて自分を受け入れ、自分の庇護を求めるセルビーが、たまたま同性であっただけです。セルビーの未熟さ危うさを、アイリーンもまた愛したのです。
私が気になったのはキリスト教を通じての父系社会です。セルビーの父親は画面には出てきませんが、常にセルビーの背後で彼女を支配しています。セルビーを一時預かった父親の友人宅の主婦は、「今度あの女をうちに入れたら、主人が撃ち殺すわよ。」と、いつも自分の言葉でなく夫はこういう考えだと、セルビーに伝えます。アイリーンの父親も、9歳の時に父親の友人にレイプされたと訴えると、嘘をついた、友人を侮辱したと彼女を殴ります。
その時母親たちは何をしていたのでしょう?一向に母親の存在が出てこない。こういう場合、日本なら母親が影に回って、子供の傷ついた心を癒そうとするはずです。日本も社会は男性中心に動いていますが、家庭は大黒柱として妻が夫を立てると言う形をとっても、実際は家庭の決まりごと・実権は妻が握っている場合が多いかと思います。
去年観た「マグダレンの祈り」で、刑務所よりひどい修道院を脱走して逃げ帰った娘を、鬼の形相の父親が修道院に連れ戻しますが、その父親を演じていたのが、監督のピーター・ミュランでした。キリスト教の陰の部分に焦点をあてていたこの作品で、監督自ら暴君の父親を演じた事に、宗教の戒律に振り回され、何のための信仰か解らなくなっているさまが象徴されていました。「モンスター」でも、日曜日に教会へ礼拝に行く様子や、何度も神の愛を信じないと言う言葉がアイリーンの口から聞かれ、暗に行き過ぎた宗教心を批判しているように感じました。
やはり昨年観た「アントワン・フィッシャー/君の帰る場所」は、同じように親の愛を知らず、里親の家で性的虐待を受けた黒人男性が、立派に社会人として生きていく様子を描いていて、こちらも実話を元にしていました。同じような生い立ちをたどった二人が、明暗を分けたのはどうしてでしょう?その辺りの掘り下げが、「モンスター」の場合は社会のせいにしているように見え、今一歩であったかと思います。
モンスターとは、アイリーンでもセルビーでもなく、彼女達を覆う男性を通じての暗雲の立ち込めた社会であり、まぎれもなく自分もその住人なのだと 、観た後痛感しました。
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