ケイケイの映画日記
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2004年06月17日(木) 「かくも長き不在」(BS2)

この作品は1960年度カンヌ映画祭のグランプリです。

戦後の復興も一段落ついたパリ。そこで安カフェを営むテレーズには、戦時中ゲシュタに連れ去られたまま行方不明の夫がいます。町に根付きそこそこ繁盛している店と、ピエールと言う精悍でたくましい恋人もいる彼女の現在は、平穏な暮らしですが、店の看板は「テレーズの店」ではなく、夫の名「アルベールの店」のままです。その彼女の前に、突然行方不明の夫そっくりの男が現れれるのです。

テレーズを演じるアリダ・ヴァリは、「第三の男」やビスコンティの「夏の嵐」などでもお馴染みに女優さんで、大柄な体に大きな瞳のグラマラスな美女ですが、この作品ではその魅力的な瞳の下にクマを滲ませ、少々無愛想に接客する姿は、女一人で厳しい戦後を生きてきた苦労を、言わずもがなに忍ばせます。

男は戦後すぐから記憶喪失らしい事がわかります。彼に徐々に近づき、夫であると確信するとテレーズは、夫の叔母と甥に頼み、彼が夫であるかどうか確認してもらいます。この時の演出方法が秀逸で、カフェに男を呼んだ隣で、叔母・甥とテレーズが、夫の生い立ちやら親戚関係、ゲシュタポに連れ去られた時の様子を、噂話として男に聞かせて反応を見るのですが、時の流れと夫の半生が、懸命に語るテレーズの切なさと共に、観客にも理解出来ます。

叔母と甥の答えはNO。別人だと言うのです。しかしテレーズは男は夫だと言い張り、誠実な恋人にも別れを告げます。カフェで働く時のしっかり者の姿はなく、ただひたすら夫らしい男に思いを募らせるテレーズと、冷静な叔母の対比に、血の繋がりを越えた、夫婦の愛を感じずにはいられません。いいえ、それ以外にも必死に昔の記憶を呼び戻し、嫌われないよう恐る恐る彼に近づき一喜一憂する姿は、妻だけでなく母のようにも感じます。「私も彼を忘れていた」そう語るテレーズですが、忘れていたのでなく、思い出さないように記憶を封印していたと感じます。このテレーズのような思いを戦後の長い間、どんなに多くの女性たちが、夫や息子に対して思っていたか、胸を切られるような痛みが走ります。

ある日テレーズは男を夕食に招きます。色気のない店での服装と違い、夫であろう人だけに見せる彼女の着飾った服装に、女心が滲みます。夫の好物だった品を用意し、二人でオペラのレコードを聴き、そしてダンスする二人。
久しぶりに満ち足りた気持ちになり、何か男の記憶を呼び戻す手立てはないかと思う彼女は、ダンスの最中男の後頭部に手術の大きな傷跡を見つけます。ナチスによって、人体実験を受けたのか?夫であると信じているこの人の記憶は、もう永遠に戻らないのかと深く絶望してしまうテレーズ。監督のアンリ・コルピも、このシーンを二人の「夫婦」のセリフのない演技だけで語らせますが、どんな言葉を使っても、このシーンの悲しさ切なさは言い尽くせません。私が今まで観た中で、一番深い印象を残すダンスシーンです。

「あなたは優しい人だ。」男の精一杯の感謝の言葉に、胸を詰まらせるテレーズ。帰り際、抱擁もキスも無く、握手だけの別れの儀式に、思わず男の後姿にテレーズは叫びます。「アルベール!!」何度も何度も呼ぶテレーズ。固唾を呑んでカフェを見守っていた人々も、口々に彼を呼びます。「アルベール!!」

一瞬記憶が戻ったように、逮捕される前の犯人のように両手を上げる男。ここのシーンの演出は鳥肌が立つほど。そしてすぐさま走り出し、あっと言う間に車にぶつかるその瞬間場面は変わり、気絶から目覚めたテレーズが映ります。ピエールが、「彼は大丈夫だ。またどこかに行った。」彼のこの嘘”に、愛する女への思いやり、その女の夫という存在に対しての敬意が感じられます。「夫を冬まで待つわ。」そう答える彼女。

映画はここで終わります。脚本はマルグリット・デュラスです。彼女自身、戦後長い間拘束された夫がおり、獄中の夫を支えながら待ち続けた経験があります。しかし念願叶い、再び一緒に暮らすようになってほどなく、デュラスは離婚したそうです。その苦くやるせない妻の心を、精一杯テレーズの
造詣に込めたのではないでしょうか?

この作品は優れた反戦映画です。戦争とは、希望を、未来を、愛する人を奪い取り、人の人生と人格を踏みにじるものだと観た者に深く感じさせます。
市井のありふれた夫婦の死ぬまで終わらぬ戦後を描き、地味ですが映画史に残る大傑作だと私は思います。あの淀川先生だって「この作品の監督、アンリ・コルピは、これ一作で映画史に名を残すであろう。」と言わしめた作品です。この感想文を読んで下さっている全ての方々にお薦めしたい作品です。





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