日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら (若干のアンダーテール含み) - 2018年04月14日(土)

なんだかヘロヘロしています。現実面でなにか起きているわけではないんですけど、内面の動きが多くて疲れています。
まぶたもピクピク痙攣してるので、自分にお休みを与える必要があります。(動画の見過ぎではある・・・)

ということで、今回はACIM宿題は書き留めるのはお休み。
ACIM宿題とのかかわりを一週間を振り返って書いていると、書くことでさらにわたしは深く感じ取ったり気づいたりしてしまうのですけど、・・・今はもうお腹いっぱいで普通に過ごしていても多すぎて・・・ちょっと休憩して消化します。

ちなみに今回の宿題は「特別な関係性を超えたところに行けるように求めていく」でした。それから、公式テキストP464にある祈りでした。
ある意味すごくその宿題に取り組んだ感覚がします。特に、わたしの内側でそれが起きている感じがします。




アンダーテール。何名かの実況者さんのプレイ動画を見ました。考察動画も見ました。その度に震えています。その人のプレイの仕方で全く変わるし、それはエンディングのルートってだけじゃなくて、本当に個人的なプレイの仕方みたいなものが、キャラクターとの関わり、主要なキャラクターだけではなくて通りすがりに会うようなモブのキャラクターとの関わり、モンスターたちとの関わりみたいなものが、本当にそういうものの個人的な感覚というものが映し出されるゲームだなと感じました。
購入したけど遊ぶ時間が取れないから実況プレイ動画を見た、わたしの動画視聴の動機がそういうものだったにもかかわらず、自分でもプレイしたくなっていますしね。。。

関わること、時間を共に過ごすことからわたしはどう感じるのかな?って興味が出てくるゲームでした。
(ストーリーや小ネタを楽しんで満足するつもりで動画を見始めたのですけど、それだけでは十分わからないなって感じられたゲームでした)

このゲームの好きなところはたくさんあって、ひとつは皆と友達になれるところです。(『トクベツ』として他と切り離していない友達関係)
この中に、このひとつの中にいるんだなって自分を感じられるんですよね。

それからゲームの中でした選択がプレイヤーに直に来るというところも好きです。
(そうでなくても、登場人物に共感するところを探しながら本を読んだりゲームをしたりする傾向があるので、それで現在ヘロっているとも言えます・・・)

このゲームにはいくつかのエンディングがあるけれど、真の平和主義のルートを見ると、「自分が正しいことをやっているというだけでは、本当のハッピーエンドにはならないんだな」って思わせられます。別にだからといって間違ったことが必要という意味ではないんだけど、人(?)と関わることっていうのがその秘密なんだろうなって思いました。
(「人と関わったら得られる」という取引っぽい考え方ではなく、ね)

それからこれはこのゲームだけじゃなくて、ドメインフォーカシングの練習&クラスと合わせて今週感じたことなんですが、わたしの動機として「知るため」っていうことって結構強いんですよね。
その動機をエゴベースで行ってることも多いなって気づいたんですね。アンダーテールのGルート(ジェノサイドルート)を動画で見て、自分に照らしてすごく納得したのがこの辺です。

Gルートはわたしにとってすごく難しいからできないって思ってるんですけど、裏を返せば「できる能力があったとしたら、やるんだろうな」と思いました。そして、ああ、、、って感じたんですよね。
退屈だからっていうのはわたしはあまり動機とか理由として使わないのだけど、時間がなくて面白そうだけどこのゲームができない、として実況プレイ動画を見始めたわたしとしては、やっぱり「時間があったらGルートも挑戦してはみるのかもな」とも思うんですよね。
(Pルートを見てからだとしんどくて途中でやめそうですけど、自分自身の知りたいって欲求の強さをわたしは知っているので、やりたくないのにやる、こころがしんどいのにやる可能性みたいなのが見えるんですよね・・・難しいのを突破した!っていう感覚を得たいとかね・・・)

別にゲームってだけじゃん?といえばそうなんだけど、「ほんとにそうかな?」って思うんですよね。その考え方って、本当の本当にゲームだけに使えてる?みたいなね。

そういったことを、わたしの内側で現在消化中です。




アガサ・クリスティ原作とした「黒井戸殺し」見ました。
(4/21までインターネットにて無料配信中です)
すごくよかったです。キャストが魅力的な面々(脚本三谷さんだし、真田丸を思い出す面々)だったので見たのですけど・・・すごいよかったです。
視聴後1時間を過ぎても余韻に浸っています。

キャスティングってこんなに大事なもの、威力を出すものなのだなと実感しました。この登場人物を悲しませたくないなあとか、続編作るならまたこの登場人物出てほしいなあとか、そういう視聴者の持つような感情含めて演出された感じがします。
最高でした。
続編が作られたらまた見たいです。


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ACIMホームワーク - 2018年04月08日(日)

今回の宿題は、前回に引き続きこちら↓

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特別な関係性へと私の思いが迷い込むときは、聖霊とともに聖なる瞬間に入り、その中で聖霊が私を解放するに任せる。
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この宿題とともに一週間過ごしました。

2週目も1週目と同様に、自分がどれだけ特別な関係を作りたがっているのかを見ました。ふわあ〜ってその感じを感じるのですよね。これは「特別な関係を作ろうぜ」っていうわたしのエゴさんからのお誘いだな、みたいなものが、ふわあ〜と来ます。お誘いには基本乗らずに、こんな感じで特別な関係性を作りたがるよねーって見ていました。

そうやって見ていたら、過去のことも思い出しました。
自分が相手の人にとって特別と思われたい、こうしたら特別と思ってもらえる、と行動してみたりとか。そんでしんどくなってみたりとか。(作り物の自分なので)
逆に、自分にとっては普通のことをしているだけなのだけど、それを相手の方にとって特別なものと扱われて戸惑った、そういうこととか。

自分がそれをされると「特別だ」と感じることと、相手がわたし(誰か)にそれをされると「特別だ」って感じること、そういうものがあるなあ、と思いました。

それから他に思ったのは、わたしが特別な関係性を使うような物事の中に、そこにわたしの大切なものも一緒にあるっぽいぞ、ということですかね。
特別な関係性だけでなくそこには別の惹きつけるようなものもあって、それは「特別な関係性」をそこに使ってしまうとわたしを惹きつけるものをぼんやりした印象にさせてしまう、と気づきました。

というか、そもそも過去のわたしは特別な関係性になるとその居心地の悪さに、そこにあった自分にとって大切なものも含めて、ぽーいって投げていてそれ以前だったな、と思い出してみたりして。。。
10代、20代の頃はそれを「しょうがないよな。。。」って思っていたなあということも思い出しました。そんな自分が愛おしい! そして「ぼんやりした印象にさせる」まで来た、今の自分も愛おしい・・・。


で。
そういうことが過去あったなあ、そういうものが今あるなあ、それらを全部含めて持っていたいなあ、と思いました。

その後で、買ったばかりの本を読みました。山下良道著「光の中のマインドフルネス」です。
購入動機は、マインドフルネスのこの感覚をどう他者に経験してもらえるように伝えるかというのを考えていたからです。自分がマインドフルネスをしているのか確認したい、そういうクライエントさんに手助けできるようにと思って。
企業向けのマインドフルネスってありますけど、宗教に忌避感がある方でも使えますしメソッド的にありと思うのですけど、自分がそれを使って人に教えたいかっていうとそうではなかったのでした。
(その理由もこの本の中で書かれていて、そーのーとーおーりーと深く頷きました。エゴちゃん枠限定のマインドフルネスってびみょー、みたいな。)

わたしは自分が惹かれるものについて教えたいんですよね(仮に教えるとしたら)。教えることでわたしの惹かれるものに関してさらに一緒に学べるから。

本を読んだ感想としては、自分がまだ言語化できないふわっとした理解を言語化していただいているという感じで、そういうことか!と腑に落ちることがたくさんありました。いつの間にか移行していたり変化していたりしていると、自分で経験しているのに自覚がないのだな、ということも認識しました。

実践する前に読んだとしたら、わたしはたぶんチンプンカンプンでした。仏教がどんなかとか知識がないですしね。でも実践してきてるならわかります。これのことを仏教ではそういう風に表現するんだ、みたいな。実践者にお勧めの本です。

で。
その本の中で、エゴを使ってなんやかや、勝った負けたとやっているような層の自分に対して、そこを通過した別の層の私(もっと広い私)から慈悲を送る、というような記述がありました。

この記述はとてもわたしにフィットしました。これだ!という感じがとてもしました。今のわたしが解決したいもの、これだ!って感じました。

それで、「私が幸せでありますように」って、エゴの層に向けて祈りを送りました。
そうしたら涙が出てきました。

エゴさんって幸せを求め続けてるわけで、つまりいつも幸せではない、今幸せであろうとしない、そういうものなので、「この祈りってエゴを機能させなくしちゃう、溶かしてしまうようなものだなあ・・・」なんて、どこか思考が動きながらもすごく心地がいい感覚のなかにいました。

どこかこの感覚は覚えがあって、ジャックさんのクラスでの瞑想?それとも母が亡くなったときの感謝で溢れたあの感覚?みたいな感じがあるんですけど、今回わたしにとって貴重だったのは、「自分がそれに気づいて、自分が願おうとして、願った」「それができた」ということでした。

ジャックさんのクラスであっても、母が亡くなったときであっても、わたしは周りを受けてその感覚に入りました。それはありがたいことだし、人によってはそちらのほうが重みがある体験だとは思うのですけど、今のわたしにとっては今回の体験が重みがありました。

わたしが、そこに向かった、という経験。
わたしは、この感覚を他の人と共有したい。
自分が足を踏み出して参加をする、という形でそう感じたからです。

今回の宿題のなかにも「聖なる瞬間に入って」ってありますが、これが「聖なる瞬間」の感覚なのかな?と思った今週の経験でもありました。


ちなみに、この感覚は次の日の朝まで続いていたので、この調子で!と思っていたのだけど、日中を過ごしていたらなくなりました笑
1人のときはできた、見せてもらえたので、今度は誰かとやり取りをする時間にこの感覚を見せてもらいたい感じですねー。前に感じたのとは別の感覚を感じられると思います。楽しみ!




一見まったく別の話。
今、アンダーテイルというRPGの実況プレイを見てます。
マザーとかラブデリック系とか、敵と戦わないで経験を積んでいくゲームが好きなので、PC版をDL(1000円しません!安!)したのですけどプレイする時間が取れないため実況プレイを見ることにしました。

何人かの実況を拝見して、いちばん見やすいというか、このゲームに対しての愛があるなーと感じる実況(shunさんの実況)を拝見してますが・・・いいわあ、このゲーム。

何気にこの世界観とACIMとを組み合わせながら楽しんでいます。「見逃す」とかいいしさあ、ずっと自分にとってヒーローだった存在よりも友達を選ぶとか!熱い! 最高です。


追記。

あああ。アンダーテイル。
涙が止まりませんー。
これまでもゲームで泣いたことはあるのだけど、、、間違いなくいちばんわたしのこころを打っています。

まだ皆と友達になる前のそれぞれとのいろいろなことが、それが攻撃的なものや伝わりにくかったものであっても、それがとても懐かしく感じられて、そして主人公の力になっていく、、、ああすごいこれ。。。何この作者さん。。。



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ACIMホームワークと勉強会 - 2018年04月01日(日)

今回の宿題はこちら↓

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特別な関係性へと私の想いが迷い込むときは、聖霊と共に聖なる瞬間に入り、その中で聖霊が私を解放するに任せる。
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こちらの宿題と一週間過ごしました。


なにがあったか、というと特別なにもなかった感じですが、細かく拾うといつもは経験してなかったことがいくつかあるかな?という。

学生時代のある友達に対しての感覚や、「学校」についての感覚を突然思い出したりしました。
わたしにとって、学校って「特別な関係性」を使うということに関わっている感じがあります。

思い出した友達はあまり好きじゃない友達だったんだけど、賢いし明るいし人気がある友達で、何でわたしはその友達が好きじゃなかったんだろうな?って改めて思う時間を過ごしてみました。ちなみに、当時のわたしはその友達を好きじゃないっていう自覚はありません。

もっと正直に・・・当時そういう風には生きれない、今振り返ってもその頃のわたしには無理だーって思うのだけど、わたしがもっと正直に生きていたならその友達との関係性は少し違ったものかもしれないなと思いました。
自分の正しさで生きてて、相手をわかろうとしてなかったなあと。そんなつもりはなかったし、当時のわたしにとってはむしろわかろうとしてたけど、それも自分の狭い指標からでしかやってなかったなあって思いました。
※ここ(↑)の発言を少し気にしておいてください。書いているときにはまったく気付かなかった部分です。この思考パターンは今日の日記後半に書いたこと(それにハマること)につながっています。「わたしのわかろうとしていることでは、足りない」という思考パターン。

今は学生の頃のわたしの倍以上生きているのもあって、改めて見てみると見えるものが少し違うなあと。見ようと思いもしなかったわけで、思い出したから改めて見たって感じで、だから思い出さなかったら更新せずにずっと保管したのかもしれません。



それから、「人を嫌う」というのも特別な関係性だなあって思いました。逆に、この人の助けになりたい、という時もこの感覚が発現するなあって。

人を嫌うということに関しては、「よほどわたしはその人と特別な関係性を作りたいのだな」と思いまして、そう思ったのと嫌っている感情とを一緒に持ってみたときに、なんかとても奇妙な感覚がしました。

そうしたら自分から何かが抜けて、いつもの自分の態度や行動とは少し違ったものを差し出す、そういう自分を見られました。
それと、嫌っているときってなんか「意地を張る」みたいな感覚があるんだな、ということに気づきました。それを使わなくていいのはとても楽だなということにも気づきました。
あ、なるほど。わたしから抜けたのは、「意地」に似てるかも。

逆にこの人の助けになりたい、というときには、「あ、別にそれをわたしがしなくてもいいんだった」「他の人で適任がいるかもしれない」という場所から、自分がさらに理解したいことを学びなおす、みたいに変換することもありました。これもすごく楽です。自分も相手も自由にする感じがあるな。
あ、なるほど。自由にしないようにするのが疲れるのか。


で、昨日はACIM勉強会でしたが、シェアリングを主に行った日だったので宿題は次回も同じものを引き続き行います。
来週はどんな経験ですかね。




余談。

昨晩はとても眠くて、先週の一週間は夜勤入り日や休みがなかったから?なのか寝たりない感じがずっと続いていて、で、やっと次の日はお休みという日が来たので「寝るぞー!」って21時半くらいにもう布団に入りました。

そうしたら夜に、一度起きました。
ぐっすり寝た感じはするのだけど、意外に時間はまだ0時を過ぎていませんでした。そして、ぐっすり寝た感じはあるのにすごく眠くて頭が痛い。眠いのに眠れない。それが気持ち悪い。そんな感じでした。

寝ぐずりする赤ん坊ってこんな感じ?と、なんかじたばたしたい気分を抱えつつ、頭の痛みに意識を向けてセルフプレゼンシングをしていたらいつの間にか寝落ちして朝まで寝ました。

朝起きて、何かがなくなったような感覚。ずうっと持っていたもの。何かがわかりませんが。



昨日の勉強会を振り返って、わたしはわかりたいからコースをやってるところがあるなあ、ということがわかりました。わかりたい欲求が大きいんだなあって。

先週の個人的な日記にわたしは、「わかろうとするから、お腹を緊張させる。わかろうとすることと特別な関係性がつながってた。」と書いているのですが、使い道次第なんだな、と思いました。
個人的な日記に書いた「わかろうとする」というのは、過去わたしが学生時代に友人を「わかろうとした」というのと同じもので、この意味での「わかろうとする」のはしんどくなります。

ワーキングメモリと対人関係の話題を先週読んだのですけど、ここで書かれていることがすごくよくわかります。「わかろうとしすぎる」、まさにこれ。
他のところに使えないくらい容量をとるのが実感として腑に落ちるので、この意味での「わかろうとする」ではないかどうか、注意しようぜという感じです。

しんどくなるのも容量を取りすぎてしまうのも、恐れから来るのだなあと。「足りない」「足りない」ってずうっと求めちゃってたんだなあって。


わたしにとってコースをわかろうとするのは、二種類の「わかろう」が混在しています。ただ心から惹かれるものと、「足りない」思考。
理解しようとすると「足りない」思考がやってくるような気もします。独力で理解しようなど思わず、理解したいぞーと望みながら任せておいたほうがよさそうです。

わたしはコースのテキストを始めたばかりの頃はずっと読めませんでした。読んでも意味が分からないというか、頭に入ってきません。言葉の意味は分かるけど、空回りをする、次の文章に行くまで覚えていられないからまだ戻って読み返さないといけない、そんな感じでした。

それなので、テキストは読んだ途中で開きっぱなしで数か月放置、そしてまた最初から読む、とかがざらでした。
結局はワークブックから始めて、ワークをし終えたら読めるようになりました。それなのでわたしのテキストは前半だけが手垢で汚れています。

これを今振り返ると、よく読むのを諦めないもんだな、と思います。他人事みたいに思います。

そういったことも、昨日の勉強会で振り返ることができました。
どこか、スコーン!と留め金が抜けた感じ。

コースを学習するということに関して、自分にとって難しかったところ・難しいところを話し、他の人が難しく感じるところを聞いていたら、スコーン!と何かが抜けました。

自分はこれについては、たやすいことなんだ。
自分はこれについては、難しいんだ。

ということがわかったというか。。。わかったというよりは、見ることができたって感じか。

自分の得意とすること、それを否定したりとか、あるいは優越感みたいに使ってみたりとか、はたまた相手を否定することに「自分が得意だ」ということを使ったりするなあって思いました。

また逆に、自分にとって難しいこと、それを自分否定に使ったり、他の人もそれは難しいことなんだと思い込んだり、「自分がそれは難しい」ということを他者否定に使ったりするなあって思いました。

朝、そういうことに気づきました。気づいたというよりは、整理されたという感じか?
夜にいったん目を覚ますはずだ、とどこか納得してます。



追記。

ACIMの宿題をしていて、特に穏やかでシェアするようなことは特になかった、という時があります。今回もそういう感じでした。
でも、「あれ?」と思いました。
穏やかな時の経験、それもまた大事だ、と思いました。

というのは、先日ドメイン・フォーカシングのオンラインクラスにて経験したことを思い出したからです。

それは例えば、今ひどいことが起きている自分に対して慈悲を贈るって結構難しいことだと思うのですけど。自分を慰めたいみたいな類はあるとしても、悲しいことが起きているさなかに、その自分に対してただ愛を贈るって難しいことだと思うのですよ。少なくともわたしにとっては難しいです。

だけど、過去に自分にとって悲しいことがあって、その自分に対して愛を贈るということは、今のリアルタイムの自分に対して行うことに比べるとしやすいことと思います。

それがもしもできたとしたなら、その感覚を感じられます。過去の悲しい思いをしている自分に対しての慈悲の感覚、それを感じられます。
もしその感覚をしっかりと感じるということができたなら、その感覚をそのまま今の自分に向けられるか、ということが挑戦できます。

階段をひとつ上って、同じようにもうひとつ上れるか?という挑戦。

だから、穏やかな時の経験というのはひとつめの階段を上るということと同じで、これは上れるぞ、これならできるぞという経験・確信を得られてるわけで、それって結構大事だよなあと思いました。
これなら別に問題ないですよ?っていう、その感覚を覚えられるそういう機会っていうのは大事だよなって思いました。



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