年々、年末らしさが薄れてきているのは、日本全国の流れなのでしょうか、それとも、私自身の問題なのでしょうか?
2003年も残すところ後数時間となりました。2003年もこのさんかくのしそうを継続できたことを感謝するとともに、懲りずに読み続けていただいた多くの方々に感謝します。ありがとうございました。
さんかくのしそうは2004年から新たな展開を行っていければと考えております。これまでどおり飾らずおごらず、自分のために、そして、人の役に立てるようなサイト運営を心掛けていきたいと思っています。
まずは、「You Talk!」をはじめます。これはわたしが長年心の中に持ってきたひとつの人に役立つ手段だと考えています。言語聴覚士をはじめとして、コミュニケーションにおける社会貢献を今後も追及していきたい、そして、2004年はそのスタート年にしたいと考えています。
2003年は本当にありがとうございました。心から皆様に感謝!
今日、愛用しているブックオフという古本屋をぶらぶらしました。本を売ったり買ったりすることができて、しかもその値段に応じて、新たに本が買えるポイントがもらえるのが好きで良く使うのですが、今日は、300ポイントを持っていました。(300円相当)このポイントを使わない手はないということで、普段だったら手を出さない系統の本を買ってやろうということで吟味していました。
で、買ったのが「創造者(アーティスト)になるためのおおざっぱなルール」(著:ピエール・ベヌ、DigiCube社)という本でした。これが、なかなかいい。自己啓発ものの本なんですが、これまでの自己啓発ものとは一線を画します。なぜなら、15分で読めてしまう。最初のほうにこんなくだりがあります。「おれ、本を読むたびにいつも疑問に思うんだけどさ、どうしてみんなさっさと要点を言わないんだろう?」
理屈をこねる本は多々ありますが、実は何十ページにも書かれた内容がたった二行に凝縮されていること多いです。大事なのは、その要点がどこに書いてあるかがすぐに分かること。多くの本は要点を見つけるのに時間がかかる。この本は全体で15分もあれば読めるので、要点がすぐに見つけられる。
この本のおもしろさだけの話にとどまらず、やはりみんなは何を求めているのか?を敏感に感じ取って、それをポイントを絞って表現していくのは大事な技術だなと感じました。このホームページでも、長い文章よりも、短い文章でポイントだけ書いたときの方が反応多いんですよねぇ。
いろいろとありまして、実家が引っ越します。そこで、大掃除を兼ねて自分の荷物を片付けに行ったのですが、懐かしいものが出てきて大笑い。小学校6年生の私です。(今の私を知らない人には意味無いけど。)
ゆっくりとした朝を過ごして、関西ローカルでやってる「週間えみぃShow」を見てから実家へと向かいました。寒い部屋の中で出てくる懐かしの物に見入りながら捨てるものと残すものを整理したのですが、これがなかなか捨てられない。どれにもやはり思い出が詰まっているのです。
しかし、こうしたきっかけが無い限り、そうした過去のものに興味を示す瞬間は日々の生活に無いわけで、なんだか微妙な心持ちで捨てるものを選んでいきました。そしたら、お宝も出てきましたよ。西武ライオンズ時代の清原選手のサインボール!次期西武ライオンズ監督の伊東のサイン色紙!86年、87年のライオンズの優勝アルバム!(球団が関係者だけに配ったもの。)
実は、私は西武ライオンズの大ファンでした。小学校5年生〜高校3年生の間、ずっとファンでした。今じゃ、野球なんて別にどうでもよくなってしまって、とりあえず在阪球団を応援してるだけになりましたけど...
今年も終盤を迎え、大掃除を機に昔のことを思い出すのも良いかもしれません。
就職活動を開始しました。
沖縄で見学した病院以降、ほとんど就職活動らしい活動は何もしていなかったのですが、本土に帰ってきてからいくつかあたり始めています。先日はホームページで求人していた神戸市内の施設に見学に行ってきました。就職活動の方法としては、1)学校への求人 2)ハローワーク 3)手当たり次第に問合せ の三つの方法を取っています。
この中で効果的なのが三つ目の手当たり次第の問合せです。ネットでホームページを持っている病院でリハビリテーション科があるところ、老人保健施設などに問合せのメールを送ります。すると意外と反応があるのです。これまでに病院と施設から連絡があり、来週の頭には一つ見学に行ってきます。
言語聴覚士というのは専門職ですから、その必要性をこちらから説く必要もあるのではないかと考えています。これからは高齢者の増加によって嚥下障害を筆頭に失語や構音障害なども増えてくるのは目に見えているわけです。それに気がついていない病院や施設にその必要性を説くのはこの専門資格を持つ者としての最初の役割なのではないかと考えるのです。
「おたくには言語聴覚士がいませんが、必要じゃないですか?」と自分の仕事を売り込むこと、これも一つの勉強だと思ってやっていくつもりです。
こんなのもたまにはいいでしょ?
今週はホームページの更新をサボろうと思ってたら、軽く改装したい衝動に駆られ、少しだけ変えてみました。
1)「言語聴覚士メモ」の最新版をメニューに表示。 2)タイトルイメージを作り替え。
タイトルイメージはどうでしょう?タイに行った時に撮影した大好きな写真です。この写真が撮影できたことに満足したタイ旅行だったのですが、すごく奥の深い写真ですよねえ。さんかくのしそうというタイトルにマッチしたので、新たに作ってしまいました。
本当は部屋の片付けをして、明日から国家試験対策に乗り出す準備をしようと思っていたのですが、怠け心の強いこと!レンタルビデオ屋でDVDを借りてきてしまいました。二本も...
一本目はもう観ました。「ストーカー」という映画です。ロビン・ウィリアムスが出ている映画ですが、このロビン様が悪役をしているということで借りました。全然面白くないです。ちょっとおっぱいが出てくるところで「おっ?」と思うくらいです。(うそ)だいたいですよ、この日本語タイトルが安直過ぎです。原題は「One Hour Photo」で、スーパーとかによくある写真屋さんのことで、確かに分かりにくいけど、「ストーカー」ってのはないだろって思います。
DVDにはロビン・ウィリアムスが宣伝の為に出演したトークショウの模様が入っていたのですが、こっちが大爆笑です。めちゃくちゃ面白い。ロビン・ウィリアムスは天才です。DVDでこれを観るだけでも価値があります。
という感じで、非常にゆっくりとした怠惰な1日を楽しく過ごしております。
実習が終わって思考回路がストップです。
とにかくまったり生活です。
ホームページの更新、少しサボっていますが、
今週中はちょっとこんな状態が続くかもしれません。
今日、実習先で症例報告を行いました。
鋭い突込みをPT(理学療法士)やOT(作業療法士)の方々からいただきまして、約一時間の発表は終了。傷だらけです。(ウソ)本当は、とても勉強になりました。やはり、同じリハビリスタッフとは言え、異なる視点をたくさんお持ちです。特に作業療法士の方々からは、認知面や知的能力などの高次機能の面、聴覚や視覚などの受容器レベルでの問題点について鋭く突っ込まれました。
そんなことまったく考えなかったよ!という視点で突っ込んでくるあの人たち、ある意味マニアックです。でも、それはプロであるということの裏返しです。敬服でございます。
知識がどうのこうの、技術がどうのこうのというレベルではなく、「視点」に気付くか、「問題意識」が持てるか、「知りたい」という欲を行動に移すかどうか、そういうレベルなのです。
生半可な知識しかなくて、臨床経験が浅い学生が短い実習時間にそこまで知り得るかよ!というレベルではありますが、それに気付かされたというだけでも、非常にいい勉強になりました。
あそこまでプロになりきれるだろうか?そんな不安がよぎるのですが、今日はまあ考えずにおきましょう。今は終わった喜びに浸りたいのです。
『あなたはすばらしい! すごいねぇ。ホント、すごい! ここまでの人に出会ったことがないよ。 すごいわ。 もう、何も言わなくても大丈夫だね。』
ここまで褒められると、それから後は下手なことはできません。もっと褒められたいから、もっといい仕事ができる。これが褒めることによるやる気向上のメカニズム。
『ここが気になるんだ。 なんでここはこうなの? これは何? これちゃんと説明してみて。 ちょっと足らないんじゃない? 大体はいいんだけど、つめが甘いね。』
こうチクチク言われると、じゃあそれを直します。指摘されないようにチェックしなきゃと思いながら、仕事をします。自分の考えや表現に自信がなくなります。これが細かく指摘されることによるやる気低下のメカニズム。
私の場合、褒めてくれる人の下で学ぶとめちゃくちゃ頑張りますが、細かく指摘される人の下で学ぶと、平均以下になります。私の意志の問題ではなく、そういう傾向があるんですねえ。
あなたはどちらのタイプの人にまなびたい? あなたが教える立場ならどちらのタイプ?
言葉によって私たちは混乱している。そんな風にずっと考えてきました。そして、言葉を失った人たちに言葉を取り戻すための職業を目指していても、その考えは変わりません。
言葉によって自分自身をだましている。そんな風にも言えるでしょう。言葉は実用的な側面を持ちます。たとえば、「そこにあるかばんを取って。」という言葉にはかばんを取って渡してくださいという実用的な側面を持ちます。同時に、言葉は抽象的な側面を持ちます。「君のことが好き。」と言えば、ある人がある人を好意に思っているという気持ちを伝えることになります。
この抽象的な側面において言葉は非常に頼りないのです。一言「好き。」と言ったその裏に潜んでいる人の思いというのは計り知れないからです。気持ちを伝える手段として言葉は、とても頼りないものなのです。
実用的な側面からも言葉は大変頼りのないものです。ちょっとした指示がうまく伝わらないことありますよね。こうした「誤解」というもは日常茶飯事にあるわけです。言葉は道具でなので、使い方を間違えることもあるし、複雑な気持ちを適切に表現できる素材がないこともあるわけです。
こうしてホームページで言葉を前面に押し出して表現していると、言葉の持つ頼りなさに不安を感じることがたくさんあります。また、携帯電話でメールを送るときも言葉の選択には非常に気を使います。ちょっとした使い方の違いで、大きな誤解を生むことが多々あるからです。
言葉は単なるシグナルなのです。何かを表現しようとしていますが、その何かが正しい言葉で伝えられているかどうかの保障はまったくないのです。だから、その言葉を鵜呑みにする前に、「この人は何を伝えたいのか?」ということを考える余裕が欲しいですね。
今回の実習で私が感じていた違和感の根本が見えたような気がします。
前回の病院では、ベテランの先生が「患者さんのニーズを汲み取りなさい。専門的な訓練をする前に、人間関係を作ることが大事。」ということを口うるさく言われていて、実際に私は人間関係を作ることに成功したし、その延長線上で訓練を行うことができました。
今回の病院では、どちらかというと技術や知識的な視点からしか先生の指摘が入らないので、人間関係に目を向ける前に先生に指摘される技術や知識面に目が行ってしまっていたのです。だから、どんなに系統立てた訓練を行っても、なんとなく時間は過ぎていくし、患者さんにも私にも特に満足感の無い訓練になってしまっていました。
残り日数が少なくなって、痛切に感じるのは、「たぶん、この患者さんたちの中に、俺って存在は何にも残らないんだろうなあ。」という寂寥感なのです。このままでは、「面白くない訓練をする不慣れな学生がやってきたなあ。」程度の印象しか残らないでしょう。
そこで、残った日にちを人間関係構築に使ってみることに決めました。系統立てた訓練は行わずに、訓練を行う以前の過程に重点を置くことに決めました。先生が何を言おうと知りません。知識や技術は大切なものですが、それだけを振りかざしても何の訓練にもなっていなかったこと、今になって痛切に感じるのです。
人と人との関係は、知識や技術では作られない。医療人を目指すものとして、再度、心にしっかりと留めておきたいと思います。
さあ、あと5日で実習が終わります。約2ヶ月ぶりにほっとできる瞬間がやってくると思うと楽しみで仕方がありません。
就職活動に国家試験の準備と、これからもやりたいことはたくさんあるのですが、とにかくこの実習は早く終わって欲しいです。実習って、働くよりもしんどいですよ。お金ももらえないしね。
さて、症例報告を書き上げます。
ちょっと更新しない間に金曜日になってしまいました。最後の更新が火曜日ですから、なんと二日も自分のホームページを見なかった。そして、それに気が付かなかったという大変な事態です。(うそ)
実習の方も後半に入りまして、なんとなく一日の流れが落ち着いてきました。意外と暇です。というか、自分で暇にしています。何と言っても、気持ちが乗っていないので、できるだけ面倒くさいことはしたくないという状態になっています。自分の担当患者さん以外にはほとんど関わっていません。
もちろん、病棟でお話をすることはありますが、先生について訓練を見学したりとかも今はしなくなりました。別に、それでいいと思っています。おそらく、今はそんな気分じゃないし、そんな気分じゃないときに見学しても何も印象に残りません。そう考えて、自分のペースでそれなりにやっています。
相変わらず、卒なくやりこなすタイプなので、それなりの評価はもらってるし、「ま、いいか。」という感じですね。とにかく早く帰りたい。ゆっくりしたいんです。時間がどうのこうのではなくて、気が疲れるんです。慣れない環境、ほっとできる環境がないというところが疲れるんですねえ。
犬が自分の寝床にこだわりますよね。あの気持ちなんとなくわかります。
昨日は、帰りも遅くて異常に疲れていたので、何にもせずに寝てしまいました。今、病院の控え室でこっそり更新中です。
いよいよ、二週間を切ってさすがに気持ちはうきうきです。「早く終わって欲しい。」というのが正直な気持ちですね。沖縄がどうのこうの言う前に、私は実はさびしがり屋なのかもしれません。(今頃気付くなって感じですが。)
その昔、私がまだ19歳の頃、オーストラリアで一緒に暮らしていた日本人の友人が、「たけちゃん、たけちゃんはさびしがり屋だろ。間違いないよ。」と言っていました。19歳の私は、今よりもプライド高いし、さびしがり屋さんなんて呼ばれて「そんなことないよ。一人でも平気だよ。」なんてむきになって言い返していましたが、今となってみれば、ただの強がりでした。
しかし、それからも強がってきました。今でも、強がらないわけではありません。やはり、30いくつにもなって「僕ちゃんさびしい。」なんていえないわけで、こうしてひっそりとホームページに書くのが関の山です。
しかし、さびしがり屋であるということを自分自身の中で認めることで、じゃあ、自分にとって大事なものは何か?ということをもっと素直な気持ちで考えることができるようになったと思います。お金以上に、名声以上に自分にとって大事なのは、自分を理解してくれる近くの人なのです。
やるべきことを先延ばしにしてブルーになっているところです。昨日、ウロウロしてきた時の写真です。
(左)伊佐〜普天間、米軍基地と北谷を望む。(右)美浜ビーチにて。
さて、先延ばしした課題をはじめることにします。
2003年12月06日(土) |
「私」が社会を形作る |
ここのところ、「私であることとは...」という視点で日記を書いていたら、反応が多くて喜んでいます。
私は、ここに自分で書いていることを実践できている人間では決してありません。日記として書く内容には、自分の望みを書いていることもたくさんあります。
今回、反応を多くいただいた内容に関しても、私が実習という評価される状況の中で、評価を意識するがゆえに自分らしさを失っていくことに対する焦燥感の現われなのです。「高く評価されたい。」「認められたい。」という気持ちが悪いわけではありませんが、それが行き過ぎるとなんだか自分の体に自分の精神がフィットしていない感じがするのです。
批判されたり、怒られたり、諦められたりしても構わないのですよ。本当は。自分が納得行く形で生きているのならば。自分の人生に責任を持って生きているのならば。批判されないように、怒られないように、諦められないようにやっていれば、世間的に優秀な人にはなれるでしょう。しかし、それが逆に私らしさを押し殺してしまっている自分への手かせ足かせになることもあるのです。
「良い」とは何なのか?「優秀」とは何なのか?
そうやって、社会一般から自分を突き放すことで、自分らしさを取り戻したいのです。そうした思いを持っている方が多いのかもしれません。
社会が私を形作るのではなく、たくさんの「私」が社会を形作っていく。本当はそういうものなのです。だから構わないのですよ。私のままで。
こんな体や精神を持って生まれてきた私はですね、
誰にも変わることはできないのですよ。
俺って、私って、なんてダメなんだ。と思うことありますよね。
しかしですよ、ダメならダメでいいじゃないですか。
ダメな自分でいいじゃないですか。
だって、この体、この精神を誰かのものと変えることはできないんだから。
ダメでも自分、良くても自分。
そのままの自分。
2003年12月03日(水) |
そのままでいいんじゃない? |
完璧でなくていいんです。 常に褒められるひとじゃなくていいんです。 正しいだけが能じゃない。 間違ってもいいんです。
結局、それが自分に向いていないときもある。 そのときは、そのとき。 また、別の道を探せばいい。 それが、楽しくて仕方がないときもある。 そのときは、頑張らなくてもより良い自分を求めるものです。
完璧でなくていいんです。 常に褒められるひとじゃなくていいんです。 正しいだけが能じゃない。 間違ってもいいんです。
しかしまあ、やることが多すぎて頭が回りません。ただでさえ、帰ってきてグターっとしているのに、帰ってきてからもすることがたくさん。実習の本質を見失いそうで恐ろしい。提示されたものをやりこなすことが一番になって、見て感じたことを熟成する余裕がないのです。
ま、愚痴を言ったところで仕方がないので、私が将来学生を指導する立場になった時の勉強ということでいい経験をしていることにしましょう。やはり、高知の先生はベテランだったせいもありますが、やりやすかったなあ。
若いのになんじゃそりゃ?と言われそうですが、疲れています。毎日、気疲れですね。そして、その疲れをほぐす瞬間が無いんだから疲れます。東京にいた頃を思い出します。やはり、地元が一番だ。
ということで、今日の日記は愚痴っぽくなっておしまい。愚痴をはけるのも、このサイトだからです。
ふひ〜。レポート二つ、初期評価三つ、その他の簡易評価三つを今日中に仕上げないといけませんでしたが、できません。レポート二つ、初期評価二つだけ仕上げたので明日持って行きます。それも推敲していないので×を食らう可能性大ですが… 全て書けたのですが、最終的に細かく修正入れようと思うと時間がかかる上に、これだけあると頭が混乱してくるのです。
あまりスーパーマンになろうとせず、頭を下げて提出をずらしてもらいます。やっぱり寝ないとね。レポート書くのが実習の目的じゃありませんから。
今日は、いつもの病院を出て、通所リハビリと訪問リハビリというものを見学してきました。病院でのリハビリと異なり、この二つは地域リハビリと言われます。通所は、在宅で療養されている方が施設まで来てリハビリを行うというもの。訪問リハは文字通り、リハビリのスタッフが在宅療養されている患者さんのお宅まで伺いリハビリを行うものです。
以前から、地域リハビリには大変興味があったのですが、今日、実際に一日見学してみて、「これだ!」という気持ちを強くしました。私は、やはり地域に出て行きたいんです。病院というコンクリートの壁に押し込まれた患者さんにいくら訓練をしても、だから?という感覚が拭いきれなかったのですが、今日、気持ちがすっきりしました。
病院内で、いくら日常動作の改善やコミュニケーション能力の向上があったからといって、病院内で何の役に立つのか?ということ。それから、退院してしまってから日常生活の中で患者さんは実際のところどうなのよ?という部分が見えないままになるということ。この二つが、私には疑問でした。こんな状態で本当に患者さんのためになるのか?という疑問です。
やっぱり、人が人らしく生きていくとはどういうことか?を考えると病院は人らしく生きられるところではないのではないかと感じます。やはり、生まれ育った地域、家、家族なんですよね。きれいなベッドに寝たいんじゃない。見慣れた風景を見て、思い出がある部屋に、寝慣れた布団を敷いて寝たいのですよ。
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