心と脳は同一か?
昨晩、NHK教育テレビで音楽療法士のことをやっていました。音楽を使って脳に障害を負った人の機能を取り戻そうとする専門家を音楽療法士と言います。アメリカでは国が定めた音楽療法士が5000人いますが、日本には法的に資格が制定されていません。また、このような音楽を使った療法を実際に行っているのは500人前後だそうです。
この番組の中で、音楽療法士の仕事を2つに大別していました。恐らく、視聴者の理解を助けるために非常に分かりやすいアプローチを取ったのだと思います。一つは、さまざまな難病や、治らない病気を患っている患者さんへの心理的なサポートとしての音楽療法。そして、もう一つは脳卒中などで脳の機能障害により、失語や痴呆的症状を示す高次脳機能障害の患者さんへの、機能回復のための音楽療法です。
番組は「心」と「脳」への2つのアプローチを取っていました。この番組を見ながら、私自身は「心」と「脳」を別で考えるなんて、どうしてだろうと思っていました。「心」という実体は無く、外部の情報を私達自身が理解できるような形に処理してくれ、私達がそれらを「思う」「感じる」「考える」などのように象徴化している。それが脳の機能であり、動かざる科学的な事実だと考えたからです。
この、番組を見たその後に、先日、創刊されたばかりの「考える人」(新潮社)という雑誌を読んでいました。その中に「小林秀雄」という作家?哲学者?の「心脳問題」に関するエッセイが載っていました。その中で、「心」は「脳」とは別の機能があるという話が出ていたのです。例えば赤い色を見たとき、私達の脳はこれまでの経験という情報を基に、「これは赤色だ。」と判断するわけです。しかし、この赤を見て「昔見た夕焼け」を思い出す、また、それにまつわる幼少期の経験が呼び出されたりするというのは、個々の主体的な感覚です。いわゆる一般的な脳の活動だけでは説明のできない機能がある。というわけです。
「私」という存在を考える際に、この心の有り無しが非常に大事な問題になるのではないか?と私は読んでいて思いました。これまでの脳科学をベースにした、単なる科学反応の結果として、私達の記憶や感覚があるのであれば、「私」という存在がなんだか非常に危ういようなものになってくる気がしたのです。
心と脳は同一なのでしょうか?
引越し、電話の移転、部屋の整理などが終了し、ようやくサイトに関わる時間ができました。それにしても暑いですね。毎日、起きたら汗びっしょり、歩いたら汗びっしょり、食事したら汗びっしょり。いつになっても乾きません。「日本の夏、金鳥の夏」という宣伝文句がありましたが、このまま温暖化が進むと、とても危ないことになるのではないかと心配です。「日本の夏、緊張の夏」にならなければいいですけれど。
本日より夏休みに入りました。夏休みとは言え、色々とやりたいこと、やるべきことが山積しています。楽しくやります。明日、25日は、私自身の引越します。市内の引越しなので、そんなに時間はかからないだろうと思います。その後、天神祭りに行く予定です。忙しいなあ。いいことですよね。
今日は、実家の引越しを手伝いました。非常に疲れました。
テレビで観たダイエットを昨日から始めています。さて、お腹は引っ込むでしょうか...
今度、引越す先の部屋は今より広い部屋になることになりました。引越しは金曜日あたりを予定しています。
明日は試験ですが、あまり準備ができていません。でも、なぜか焦っていません。何とかなると思っていますし、何とかします。
貯金が尽きてきました。そろそろ本格的にアルバイトをしようと思っています。
ゴンチチのチケットが来ました。不在で受け取れませんでした。郵便局は電話による再配達の自動受付をしているのですね。サービス向上ですか。
体のだるさがとれません。なんとかします。
相手をしっかり観察する力。相手の立場で物事を想像する力。相手に対して共感できる力。相手を踏まえた上で自分を表現できる力。これが、対人関係能力です。
願望を明確に想像する力。想像を整理する力。整理された想像を行動に変換する力。その結果を真摯に受け止め反省する力。そして、そこから新たな願望を想像する力。これが、自己管理能力です。
うまく生きる事は、実は簡単なのです。意志の力さえあれば。
思考の方向性を考えて見ると、なぜか「前」「後」しかないのです。前向きな思考、後ろ向きな思考などです。方向と言えるかどうかわかりませんが、他には「プラス」「マイナス」がありますが、使い方としては同じでしょう。わたしは、この前後の方向以外に思考の方向性はないだろうかと探っています。なぜなら、前後の二つで、人間の思考レベルを説明しようとしてもそれは無理だからです。非常に危険でもあります。というのは前というのがどれほど前なのか全く持って不明確だからです。前を向け!それ進め!という考え方は、決して無駄な努力ではありませんが、人は必ずつまずくもの。その時に少しでも立ち止まれば、少しでも後ろを振り返れば、もう後ろ向き思考となってしますからです。そう、最先端を行っていなければ前向き思考とは言えないのです。これほど、人にプレッシャーを与える思考があるでしょうか?
わたしは、後ろ向き思考を推奨します。最後端に意識を置くことで、その地点から見渡す景色は、全てが前向きになります。「私は最低のバカだ。」と思ってください。あなたが見る先は、前しかないのです。ただし、決して前に1歩も踏み出さないことが肝心です。常にバカでいることが大事なのです。決して前には進まないで下さい。そこで、肝心なのはあなたの居る最後端の位置を高くすることなのです。「わたしはバカだから、調べる。」「わたしはバカだから、努力する。」決して、自己を卑下しろと言っているわけではありません。「わからない。」ことを認める事で、わたしたちはスポンジの様に物事を吸収することができます。変に格好をつける必要もないし、ウソをつく必要もない。ありのままの自分で居ることができるのです。この人間の謙虚さを重要視する思考法、とても有効です。前向きに!なんて言っている人をみたら、「この受け売り野郎。」と罵っても良いかもしれません。嫌いなものは嫌いといえるのも、この思考法の良い所です。
ありのままの自分でいることが、どのような状態なのか、正直言ってわかりません。今まで、行動を起こすことにより、その一瞬に自分らしさを得たと感じたことはありましたが、それは長続きしませんでした。時間が経つと再び、「ん〜、俺らしさってどうしている状態なのだろう?」という底知れぬ不安を伴った疑問が沸いてきます。わたしの言動すべてが、外向けの自分のような気がしてなりません。人に気を使い、愛想よくしている自分が本当なのか?それとも、独りを好み人にそれほど気を使わない自分が本当の自分なのか?得体が知れないのです。様々な外枠だけの『私らしさ』が、涌き出てきては、何も残さず消え去って行きました。ある本は、「親に本当の愛情を与えられていない人は、社会と根っこの部分でつながることができない。」と説きます。親の愛情がどうだったかは良くわかりませんが、「社会と根っこの部分でつながっていない。」という感覚は非常に良く分かります。自分自身の足元も良く見えないのに、その周りを認識できるわけがありません。わたしは何を失っているのでしょう?不安だけが募ります。
脳神経学の授業で、古館一郎と養老猛司がメインキャストを務める脳の特集番組のビデオを見ました。非常に分かりやすくビジュアルで脳の仕組みを色々と解説していたのですが、その中で一つだけ心に残った言葉がありました。それは「人間はなぜ共感できるのか?」というトピックの中で、脳神経学者の養老猛司が言った言葉でした。「人の心がわかる心を教養という。」養老猛司も自分の恩師から聴いた言葉だと言っていましたが、非常にいい言葉です。ビジネスの世界も人の心がわからないとビジネスになりません。人の心を知るためにマーケティングを行い、人々が望む商品を望む形で出していかなければなりません。また、リハビリ医療に関してもそうです。その人が持つ、障害による心の動きを敏感に読み取っていかなければ適切なリハビリは行われないでしょう。すべての人間の行動は、心をベースにしているという点で、この言葉が持つ的確さにうならされたのです。
「きれいなおかあさん」という中国映画を観ました。聴覚障害の子供を持つシングルマザーの奮闘を描いた映画です。障害を持っているが故に、普通の子と同じように学校に行けない。だから補聴器を付けて早く学校にいけるようにしようという内容なのですが、「障害者が普通の人と同じように...」という部分が、ちょっと引っかかる部分として残りました。障害者は常に普通の人を追いかける立場なのか?という疑問です。色々な見方・考え方があると思いますし、映画としては母親の愛情を描きたかったのだと思いますので、聴覚障害はメインの話題ではなかったのかもしれません。それよりびっくりしたのは、この映画が文部科学省推薦だったということです。国は障害者をどのような立場で観ているのでしょうね。
食欲・睡眠欲・性欲は人間の基本欲です。それに付け加えて、金銭欲とか、名誉欲とかあります。ところが意外と認識されていないのが、『意欲』です。これ何に対するどんな欲なのか良くわかりません。だから、辞書で調べてみました。
物事を積極的にしようとする意志・気持ち。[大辞林より]
「積極的にしようという意思または気持ち」があれば、何をするのも楽しいでしょう。「要は気持ちの問題」と軽く言う人は多いですが、この「意欲」という欲としての特性に注目して、その欲を刺激してあげることが大事だと思います。
おいしいそうな料理が前に出されれば、否応無しに「食欲」は引き出されます。だけど、それは「おいしそう」でなければならないのです。自分でその料理をおいしそうと思うには、料理についての知識がなければおいしそうと思わないかもしれません。また、過去の経験があるからその料理は「おいしそう」と思えるのかもしれません。
欲というのは人間の本能です。自分の意思とは関係なしに人間を動かす力があります。この欲を自分の心の声でうまくコントロールすることによって、自分の心持ち、そして、生き方をドラマチックに変革できるかもしれません。「おもしろくない。」ではなくて「おもしろくしてやる。」なのです。また、人に何かを教えたりする場合にも、この欲を刺激するやり方は非常に有効な手段です。「しなければいけない。」のではなくて、「したくなるようにする。」という視点が必要なんですね。
わたしも意欲をじっくり飼い慣らす訓練を始めてみます。
■今日のブルー ・昨年の住民税の納付通知が来てブルーです。 ・今度、引越す先が今の部屋より狭くてブルーです。 ・貯金が底を尽きそうでブルーです。 ・学校の授業が単調でブルーです。 ・NHKの「今日の健康」でやっていた精神疾患のうつ病チェックですべての項目が該当したのでブルーです。 ・自分が情けなくてブルーです。
■今日のハッピー ・朝、通学の電車の中で前に立っていた女性がかわいかったのでハッピーです。 ・解剖学の時間に隣に座っているクラスメイトと楽しく話ができたのでハッピーです。 ・お手伝いしているお花屋さんのオーナーが「君のおかげで助かっている。」と言われてハッピーです。 ・お手伝いしているお花屋さんを、花の雑誌の大手「花時間」が取材するきっかけをわたしが作った(と思ってる)のですが、その取材が明日あるのでハッピーです。 ・好きな音楽を聴いてハッピーです。
募集 9/14の大阪城野外音楽堂で行われるゴンチチのコンサートに一緒に行きたい!という方大募集。ゴンチチは最近TVCMなどでも話題の癒し系ギターデュオです。歌詞なしのインストです。夏の野外でビールを飲みながら聴くゴンチチは病みつきになります。2年前の日比谷野外音楽堂でも行きました。ゆっくり癒されたい方は是非一緒にいきませんか?
9/14の大阪城野外音楽堂で行われるゴンチチのコンサートに一緒に行きたい!という方大募集。ゴンチチは最近TVCMなどでも話題の癒し系ギターデュオです。歌詞なしのインストです。夏の野外でビールを飲みながら聴くゴンチチは病みつきになります。2年前の日比谷野外音楽堂でも行きました。ゆっくり癒されたい方は是非一緒にいきませんか?
引越すことになりました。今、神戸の繁華街ど真ん中の「元町」に住んでいますが、もっと西の「板宿」という所に引越す予定です。7月中になるでしょう。わたしの意向ではありません。実家の問題が、わたしにまで及んでしまいました。なんだか、家族の嫌な部分ばかりが見えてしまって大変です。わたしまでもがその問題の仲間入りをしてしまうと、どうにもなりませんので、何も言わずただ流れに任せています。私利私欲は脱ぎ捨てて、みんながまずは満足して落ち着くことが大事です。焦らず、ゆっくり、確実に。
わたしを押し通して、あなたとの距離を取ると、孤独で寂しい。わたしを押し通して、あなたとの距離を取ると、自分らしさが発揮できて心地良い。どこまでが、わたしらしさを保つ境界線で、どこからが孤独を紛らわすための越えるべき境界線なのか、見極められなくて中途半端に両方とも満足できないのです。
実家がバタバタしています。下手をすれば家族崩壊にもなりかねません。問題を解決するためにだとは思いますが、家族それぞれの思いが錯綜し、かなり混乱しているようです。そんな中、私は実家に戻る気になれません。なぜなら、家族の嫌な一面を見なければいけない現実に直面するのが辛いからです。私は外から客観的な意見と、冷静な対応を家族のメンバーに呼びかけていますが、反応は今一つです。
問題の中心に居る彼らにとっては、私の冷静さは意味をなさないのかもしれません。非常に寂しい現実ですが、家族における私の精神的存在価値はさほど無いのかもしれません。また、彼らのそのような態度が私を実家から遠ざけます。どうせ帰ったって... どうせ意見を言ったって...
これほどの無力感、そして、孤独感を感じたことがありません。
この家族への不信感、果たして修復される日が来るのでしょうか?心配です。
言葉遣いというのは本当に恐ろしいものです。
今日、私は、あまり親しくしていない女性のクラスメイトに「おやじ」と言われました。彼女の鈍感さにはあきれました。
他のクラスメイトが、私を「おやじ」と呼べるその根底には、その言葉を発しても良いという人間関係の構築があるのです。また、そのような場の状況があるからこそそういった発言が可能になります。
まあ、常識なのですが...
言語聴覚士という職業を目指す人の中に、このようなレベルの低い人が居ることを嘆くと共に、自分が同じ過ちを犯さないように充分に注意していきたいと感じました。
しょうもないことです。
テスト前の雰囲気が大嫌いです。何のために私たちは勉強しているのか?と嘆きたくなるからです。いえ、別に私は試験勉強などしません。昔からそうです。試験のための勉強などしたことはありません。別の言い方をするならば、試験のための小技の準備はしたことはありますが、『勉強』などというものをしたことがありません。
私にとって『勉強』とは、『学問』そのものであります。『問うて学ぶ』ということであります。『問う』ためには理解しなければなりません。そして、それに対して疑問をもつことが必要です。疑問をもつということは、理解した内容を自分の考えで吟味するということであります。それが学ぶことなのです。
教科書に書いてある内容を、先生が気に入っていただけるように書くというのは、ある意味一つのゲームでありまして、そこにはテクニックが関わってくるのです。(むろん、しっかりしとした学問の試験を実施してくれる先生も居ますが...)そんなテクニックばかりを磨いても良い職業人にはなれません。社会人経験者ならその辺はよくおわかりいただけると思います。
テストのために無駄な小技の準備、そしてエネルギーの無駄遣いをしております。
金曜日に実家で問題が発生いたしまして、どうも気持ちがそればかりに集中しておりまして、日記が滞っておりました。その内容を書けば良いのでしょうが、後悔するには気の引ける問題なのです。落ち着いた段階でまた概要をお知らせいたします。
いつもテスト前になると言っていますが、テストのために勉強するなんて自分が、非常に情けないです。
また、テストが暗記を必要とするテストでもう夜も11時なのにいまだに試験の準備をする気になれません。
なので、教科書を読んで理解をして、それでテストに挑みます。それで、ダメならそのときに考えます。あくまでも自分のやり方、ペースを守ります。それに、本来、普段の準備があればできるはずのことなんですから、私自身の問題でもありますから。
勉強しなければなりません。基本的欲求が満たされない、軽いうつ病ですなどと、たわ言を言って自分を慰めているなんて、客観的に見てみると、非常に情けない限りです。自分を責めてはいけないと言われますが、覚悟をもって、責任を持って、自分の人生を送ると心に決めている人間が、外に原因を求めてただため息をついているなんて、なんてことでしょう。
私は自分の責任で、現状を打開します。
今日は、朝から気分がすぐれず、その影響か体の調子も悪かったのですが、学校にいきました。「無理はしないほうが良い。」と、簡単に人には言いますが、実は自分自身にとっての『無理』ってのがどんな状態なのか分かりません。分からないのに無理しないでって人には言うし、言われるとありがとうと答えます。
そんな状態の朝だったので、かなり頑張って学校に行きました。朝の時間はずっと不機嫌でしたが、午後からは調子も戻りました。ふと、冷静に「俺ってうつ病みたいな症状示してるな。」と思いました。軽いうつ病なのかもしれません。
話は変わりますが、夜食事のために外に出たときの軽い驚きをご紹介します。今日は雲が立ち込めた空になっています。私が住んでいるのは神戸の元町、いわゆる繁華街のど真ん中です。その繁華街の明かりが立ち込めた雲に反射して、空が真っ白になっていました。夜なのに夕方の雰囲気でした。あの妙な感覚、不思議でした
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