赤信号

ゴンチチに一緒に行く人が決まりました。最初は、誘う人誘う人片っ端から断られました。「お金払っていく価値なし。」、「誰?」、「歌ないんやろ。」などなど、私のゴンチチへの思いを踏んづけるような発言までありました。音楽に対する好みなんてそんなものなんですかね。私は、色々な音楽を聞いてみたいと思いますし、ライブに行けば必ず何か頭での理解を超えた感動があると思うのです。たかが音楽の好みですが、「ゴンチチ行かへん?」の一つの誘いでその人の心の柔軟性が計れます。断り方一つとっても、その人の人柄が出ますね。

というわけで、9月14日の大阪城野外音楽堂、楽しんできます。[ゴンチチとは?]

本質を捉えるということは、私の生活の中で重要な考え方です。当たり前と思われることや、常識と言われていることが、実は本質的には間違っていることがあります。また、建前で曇ってしまって分からない状態のまま世の中に氾濫していることがあります。先日、学校の先生が偶然にも私と同じ考えを授業中に言っていました。「赤信号なら、あなたはどうする?」

これは意外に奥の深い質問でして、解釈の仕方によって答えが分かれます。「公共性」をキーワードにするのであれば、あなたは「止まります。」と答えるでしょう。「安全性」を重視するのであれば、「ちょっと遠くから車が来ているのなら、無理はしませんが、まったく車が来ていないのであれば、渡ります」と答えるでしょう。「緊急性」を重視する人であれば、「走れば間に合うのであれば、渡ります。1分1秒を争っているので。」と答えるでしょう。

「赤信号」というのは、規則だしルールだから、みんながそれを無視してしまうと秩序が保たれない。という意見もあるでしょう。そう考えると、ルールありきという考え方は、秩序優先の考え方ということができるでしょう。秩序優先が極まると管理される状態が生まれます。管理されるということは、私達の行動が制限されるということです。私達の個人の感情や思考や判断は、それほど大事なことではなくなるのです。

ルールを守るということは、管理されること、管理されるということは、考える必要がなくなると言うこと。なんだか、悪い一面だけを見ているようなので、良い面を考えてみましょう。ルールを守ることが徹底されれば、交通は管理され、事故は減るでしょう。ん?ルールを守ると言うのはそれだけのメリットしかないのでしょうか?それ以外に何か思いつきますか?

こうして考えると明らかですが、赤信号は止まるものという世間的には当たり前のルールが実は非常にアンバランスなルールであるということが分かってきます。ただし、私はここで「赤信号は止まらなくて良い。」と断定しているのではありません。物事には優先順位があります。赤信号における優先順位とは「緊急性>安全性>公共性」と考えられます。私が、どの優先順位を持って赤信号に対応するかは、私の判断となります。

赤信号のルールが持っている大命題とは、交通の秩序です。秩序が保たれているのであれば、公共性にこだわることなく、個人がそれぞれの判断を下してもいいのではないでしょうか?私は、車が来ていない赤信号であれば、躊躇無く渡ります。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」こんな集団の秩序に左右される人生はゴメンです。大きなものに巻かれることが公共性ではない、一人一人が考え判断し、責任を持って行動することで、自然に秩序ができあがる。それが本質だと思います。

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2002年08月31日(土)

日差し指す

少しづつですが、テンションが上がってきています。以前に比べて、「面倒くさい」という気持ちが減り、新しいことをやろうという気持ちが強くなってきました。人間関係においても、積極的に話し掛けたりするなど、前よりも自らコミュニケーションの起点になるような行動が増えてきました。うまく行くときは、すべてがうまく行くように感じますが、油断は大敵です。まだまだ、勢いに乗ったわけではないので、もうすこしの間は粘り強く、気持ちの張りを切らないようにしています。

今回の気持ちの改善には、特に努力らしい努力をしていません。すべてがタイミングです。すべてが自然の流れです。決して、努力したからといって気持ちの問題がすべて解決するわけではないです。この上向きな気持ちが沸いてくるまでに、約2年半かかりました。久しぶりに感じるこの心の高揚感は、非常に気持ちの良いものです。

うまく行き始めた要素を挙げます。

1)行動することを増やしたこと。
働く、本を読む、ホームページのアイディアを考える等、とにかく悩む前に行動することをこの1ヶ月心がけてきました。

2)熱中するためのルーチンを作ったこと
通学の電車の中で、必ず本を読むことをルーチン化したこと。電車の中で、無駄なことを考える時間が減りました。

3)女性の友達と2人で遊びに行くこと
とにかく、デートをすることで男性的な本能が刺激されたような気がします。また、女性と話すことでセルフエスティームが上がります。

これらの行動が相互に作用して、今までに避けていたことが普通にできるようになりました。例えば、通学路で同級生と会っても以前はできるだけ声をかけるのを避けていましたが、今は、自分から声をかけています。知らぬ内に眉間にしわを寄せて歩き、面倒くさいとかあー嫌だとか、文句や愚痴ばかり言いって、普通のことがなかなか出来なかった状態から抜け出せそうな今、非常に気持ちは明るいです。

時間はかかりますが、必ず晴れる日が来ると信じてきましたが、ようやく雲の切れ間から日の光が差しました。できれば、このまま全快快晴になって欲しいものです。

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2002年08月29日(木)

音と自然

朝、急いで家を出ると外は雨でした。マンションなので、傘を取りに帰るのも面倒くさいし、時間も無駄なのでそのまま駅へ向かいました。昔の木造作りの家に住んでいたなら、こんなことにはならないのだろうなあと思いながら駅へ向かいました。マンションに住んでいると外の音がまるで聞こえないので、雨が降っているのかどうか分からないのです。テレビで確認する、ベランダに出て確認するという方法もあるにはありますが、朝はテレビ見ませんし、ベランダに出ることもありません。

古い家は今のような、静かでエアコンがついていたりオートロックがついていたりという快適さはなかったですが、自然とのつながりは今でもありました。トカゲが家に上がって来たり、アリンコが部屋を行進していたり、隙間風があったり。音もその一つでした。雨の音、風の音、お隣近所の音。自然や生活の音が溢れていたような、そんな気がします。私は昭和47年生まれで、都会で育ったことのほうが多く、早いうちからコンクリートの家に住んでいました。引越しで木造の家には2回ほど住んだことがあります。そのときのわずかな記憶です。

オーストラリアの暮らしには、自然が入りこんでいました。日本と比べることはできませんが、やはり自然の中で暮らすということは、自分のあり方を自然のままにしてくれます。帰国直後、私がびっくりしたことの一つに、日本人が眉間にしわを寄せて、ぶっきらぼうに早足でうつむき加減に歩く姿でした。向こうで慣れていた、道端で見知らぬ人と交わす軽やかな挨拶なんてものは日本には無かったですし、目が合ったときにニコッと笑う心の余裕が日本にはありませんでした。

日本にもたくさん良いところはあります。私は日本人ですから、やはり日本でなければと思うことはたくさんあります。しかし、この『心の余裕』という側面では日本はかなり発展途上ですね。私も、すっかり今では日本人です。日本人の道徳心の低下には、公共心の無さがあるのでしょうが、私はもっと違うレベルで日本人の心は変化していると思います。幼稚な言い方で申し訳無いのですが、「愛国心の欠如」ですね。ここでの愛国心は決して右翼とか国粋主義の意味ではありません。

私の言う「愛国心」というのは、細かく砕いていけば「愛居住区心」ということですね。これは都会だけで言えることなのかもしれません。とにかく、コンクリートやアスファルトなどで覆われたこの町は、どこか排他的な雰囲気を持っています。見られる自然のほとんどは、人工的に植えられた街路樹とか公園です。ここを通れと言われている歩くための歩道を歩き、まるで自分が偉いみたいに走ってくる自動車に気を使う。電車に乗る時だって、分刻みの電車のスケジュールに追われます。それはとりもなおさず、多くの人が時間に追われ縛られる生活を送っていると言うことになります。

外国と比較して日本が、この点で劣っているとか優れているとか、良し悪しの問題ではなく、人間性という観点で、みんなが、自身でこの状態に満足しているのでしょうか?恐らく満足していないのでしょう。しかし、それに対して何もできないというあきらめ感があるようです。または、この状態が安心感を生んでいるのかもしれません。

自然との接点が無くなったというきっかけから、今のような時間に追われるストレス社会に変化していったというのは、理論的には飛躍のし過ぎかもしれません。しかし、雨の音に気付かず外に出て、面倒くさいなと思ってそのまま駅へ向かってしまう私自身の行動は、なにか自然との接点を失った現代人の心の寂しさを物語っているような気がしたのです。

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2002年08月28日(水)

人が人を癒す

暑い日でした。梅田駅から学校に行くには、途中、約400mの地下道を通らなければいけません。クーラーが効いているわけでもなく、動く歩道があるわけでもなく、非常に過酷な通学路です。この季節は、まさに天然サウナ。しかも、その中を大勢の人がいそいそと歩いているのですから、これが都会?と思うほど開発されていない場所です。

この地下道の上にはJRの操車場があります。この土地も再開発が決まっていますが、この再開発が終了すると巨大な商業施設が梅田に誕生することになります。私的には緑が多い公園を作っていただきたいです。オーストラリアのブリスベンに住んでいたときに、万国博覧会が行われた川沿い土地をうま〜く開発した例を知っています。サウスバンクという公園と商業施設をうまく融合させた再開発をしていました。大阪はただでさえ緑の少ない都市ですから、できるだけ公園を中心にした土地利用して欲しいですね。

物事に熱中することを目標に、毎日の生活を送るようにしています。学校では先生の話している言葉に耳を傾け、それについて考えることに熱中する努力をしています。ここでいう熱中とは、集中して授業を聞き、考えることです。行き帰りの電車の中では、本をじっくり読む努力をしています。昨日も書きましたが、シャーペンで大事なところ、まあまあ大事なところ、面白いところの3つに線を引きながら本を読みすすめています。そして、最後にもう一つ、これは偶然的な事で意図はしていませんでしたが
、自分にとって「大事だな。」と思える人を見つけかけています。そして、その人のために自分は何ができるのか?ということを考える時間も増えました。

この「大事だな。」と思える人は女性です。まだ、恋なんて段階までには遠い段階ですが、先日、じっくり話してみて、ピンと来たものがあったのです。嬉しいですね。その人と今後どんな関係になるかは、あまり重要な問題ではありません。プロセスによってどんな関係になるかなど分からないのですから。ただ、友人でいようが恋人になろうが、その人のために、また、その人自身に熱中できることが、漠然とした不安を取り除き、未来への希望を抱かせます。やっぱり、人を癒すのは人なのですね。

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2002年08月27日(火)

本紹介

ようやく、アルバイトが決まりそうです。正確に言うとアルバイトではなく、派遣になります。先日、「スルッとかんさい」という関西の私鉄のほとんどで使えるカード1,000円分欲しさに、派遣会社に登録したのです。すると、すぐにお仕事の依頼が来ました。土日祝日限定で、関西の電気量販店で行う、あるプロバイダさんの光ファイバーのプロモーションスタッフです。あるプロバイダさんといっても、光ファイバーを提供してる大手プロバイダさんは関西では2社しかありませんけど。これまでにアルバイトの面接を何回も失敗していますので、今回こそは何とか働かせてもらいたいです。

「とにかく働きたい。」気分になったのは、生まれて初めてのことです。これまでに、人並みに色々なアルバイトをしましたが、いつも「できたら働きたくねぇ。」というのが本音でした。しかし、今は「自分のために使うお金はすべて自分で払いたい。」「働くことで、社会につながっていたい。」という気持ちが、とても強いのです。特に、学生に戻って一番不安なのは、自分が物理的に何も生み出していないという現実でした。学生は勉強するのが本分なので仕方がありませんが、責任もなければ、その分、喜びもありません。学ぶ喜びと、生み出す喜びはまったく違う次元のものということを実感しました。

昨日、本屋さんでとても面白い本を見つけました。最近、「声に出して読みたい日本語」で、有名になった斉藤隆氏の本で、「三色ボールペンで読む日本語」という本です。3色ボールペンで大事なところ、まあまあ大事なところ、自分が面白いと思うところに線を引きながら読みましょうという読書法を紹介する本です。このような読み方で、理解力とコミュニケーション能力を向上させるという振れ込みです。実際、昔から私は国語の評論文が大好きで、文のつながりをエンピツでなぞりながら、「こことここの文章が並列で、こことここの文章が主従の関係だ〜。」と喜んでいた人間なので、この本の言おうとしていることに非常に親近感を感じました。

そこで、ものは試しです。本に書いてあることが効果があるのかどうかを今日の授業で試してみました。(本は立ち読みで、流し読みなので正しいやり方をしたのかどうかわかりませんが...)教科書や、評論文では非常に役に立つと思います。小説もできるかもしれません。私の場合、とりあえずエンピツで線の種類を変えてやってみたのですが、線を引こうと意識することで、しっかりと文章を読みます。また、その文章のポイントをつかむために理解をしようとします。そして、ポイントがつかめてくると、そのアイディアがどのような展開を見せるのかに、だんだんと興味が沸いてきます。久しぶりに、昔の「こことここの文章が並列で、こことここの文章が主従の関係だ〜。」の喜びを感じました。

これは、恐らく書き言葉を、言葉からイメージに置きかえる作業をしているのではないでしょうか。教科書や、評論文には、必ず理屈の筋があります。そして、論理的なつながりをもっているわけです。論理的であれば必ず図式化ができるはずです。こうして、作業をすることで脳の言語機能、視覚機能など、ただ眺め読みするよりも多くの機能を稼動させることでより印象的に物事を理解することが出来るのかもしれません。ものごとの筋をあらためて見なおすという意味でも、非常に面白いアイディアだと思います。

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2002年08月26日(月)

しゃぶしゃぶ

今日は、久しぶりの休日だったので、朝から知人のお花屋さんのホームページ(wood fragrance)と、このサイトの更新を行いました。細かいところを、ちまちまと修正し気付くともう夕方。一日中、パソコン見ていたことに気付き唖然です。パソコンもテレビと同じように、一度はまると時間の流れが速いですね。

現在、2冊の本を平行して読んでいます。1冊は『「わかる」ということはどういうことか?』、もう1冊は『言語の脳科学』です。2冊とも「脳科学」を取り扱う新書なのですが、非常に分かりやすい言葉でかいてあります。『言語の脳科学』は、まだ、読み始めたばかりです。『「わかる」というのことは...』の方は、もうすぐ読み終わります。人間がどのように、物事を理解していくのかということを分かりやすい例をあげて説明されています。説明はわかりやすいのですが、今一つ理屈としてわかりにくいところがあるので、再度、読みなおしが必要かもしれません。



今、私のマイブームは「いかに物事に熱中するか。」ということなのですが、このようにして、読書や考えをまとめることで時間を過ごすことは非常に大事なことです。常に頭をOnの状態にしておくことで、ふとした日常的なことから新しい発見があるのです。

夕方から、祖母と祖母の妹(なんて言うんでしたっけ?)と一緒に三宮にしゃぶしゃぶを食べに行きました。最近、祖母が私の引越しに伴い、近い場所にいるのでよく来るのですが、私がたまたま食べていたカップラーメンを見て心配になったのでしょう。「しゃぶしゃぶ食べに行こう。」と誘ってくれました。78歳の祖母と71歳の祖母の妹を連れ、三宮のダイエーの上にあるしゃぶしゃぶ屋へ。1980円の食べ放題コースを頼み、お腹いっぱい食べました。

こうして祖母と時間を過ごすことを、非常に大事にしています。もちろん、78歳のおばあさんですから、大変なこともあります。口うるさいし、価値観は偏っているし、など上げればたくさんあります。しかし、78歳のおばあさんの欠点を今更あげつらっても意味がありません。恐らく、私の知り得ない孤独感や、老人特有の不安などあるはずです。そして何よりも孫と一緒に過ごせる時間と言うのは、理屈抜きに精神的なゆとりを与えるのではないかと思います。

私自身の人間的な成長のためにも、祖母とのコミュニケーションは今後も大切にしていきたいです。

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2002年08月25日(日)

バカ精神

昼過ぎから、少し暑さが戻ったような感じの大阪でした。今日も、授業が朝から15時までありました。空いた電車で土曜日のゆったりした時間を感じるのが好きで、働いていた時も土曜出勤は苦になりませんでした。

この8月後半は集中講義で、音響学、音声学、言語学の3科目を同じ先生が、2週間毎日朝から16:40までぶっ続けでやります。当初は、ぶっ続けで同じ先生が同じ科目をやるという授業方式で、私自身が集中できるのかどうかがとても不安でした。しかし、今はこの集中講義をずいぶんと楽しむことができています。やはり、言語学は私の「ことば」への興味を決定付けた科目だったからなのでしょう。非常に関心を持って授業に望めるということが、楽しみの大きな一因です。実際、4コマの授業が非常に早く感じられます。

土曜日ということもあり、放課後はちょっとホリデー気分だったので、帰りに三宮に立ち寄り、映画を観て帰りました。「オースティンパワーズ ゴールデンメンバー」を観ました。何も考えずに、とにかくくだらない映画が観たかった私の気分に最適の映画でした。ストーリーを語るのもくだらないほどですが、何が一番楽しめたかというと、非常にくだらなかったところです。大満足でした。ちなみに、私の携帯の着メロはオースティンパワーズのテーマ曲です。(原曲はボサノバ音楽なのですよ。いつのまにかオースティンパワーズのテーマソングとしての方が有名になってしまいましたが...)



言語学の先生もそうなのですが、オースティンパワーズでも、表現のストレートさが目立ちます。そして、私はそのストレートさに惚れます。以前、知り合いのバンドのライブに行ったときにも、その歌詞のストレートさに感動しました。

ストレートであるということは、うがった見方をすれば、「単純」なのです。「単純」というのは、どちらかというとマイナスなイメージで、「バカ」というイメージさえあります。何かに一途に打ち込む人を「〜バカ」と言ったりするのはそのようなイメージがあるからでしょう。マイナスなイメージではありますが、バカは憎めない要素も持ち合わせています。

理屈ばっかりこねている人間を、なんとなく信用できないということがありませんか?私自身、比較的理屈をこねるタイプなので自分自身のために気をつけているのですが、理屈で人の心は動かないのです。やはり、最後は気持ちの問題になります。一つ一つの言動にどれほどの気持ちがこもっているか?そこが、人を見るときの最終的なポイントとなります。まったく無意識の内に、それを感じ取る能力を人間は持っているようです。

今、世の中はさまざまな複雑なシステムによって構築されていますが、実はその構築の基盤として、単純なシステムがないといけません。その単純なシステムとは、人間の心、気持ちなのです。すばらしい複雑なシステムを作っても、そこに人の気持ちが乗り移っていないと、システムは機能しないのです。住基ネットなどは、その最たるものではないでしょうか?人の気持ちが乗っていないシステムに、私達は信頼を寄せるわけには行かないのです。

人の気持ち。これがもっと重視される社会になって欲しいと願っています。同時に、自分自身がそういったストレートさを失わない、俗な言い方をするならば、「擦れない」まま、これからの人生を生きて行くように意識しなければいけないなと思うのです。

オースティンパワーズのおバカ精神、万歳です。

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2002年08月24日(土)

ノリノリ

毎日毎日、同じ授業を一日中受けていると、だんだんと頭がウニになってきます。そんな授業の毎日の中での楽しみの一つは、やはり食事なのです。弁当の話を以前にしましたが、今は外に売りに来ている弁当屋さんを利用しています。買った弁当は学校の地下で、少ない男子学生が車座になって地味に食べるのです。

別に男が嫌いなわけではないのですが、男が車座に座って弁当を食べても大した話で盛り上がりません。特に、熱い話をするのでもなく、バカ話かエロ話か沈黙か... というまさに生産性ゼロの会話が繰り広げられます。私は、それほど「ノリ」に乗って話すのが得意ではないので、クールに周りの話を聴いていることが多いのですが、どうして日本人はあそこまで普段のコミュニケーションに、下世話なユーモアを求めるのでしょうかね。不思議です。

また外国かぶれの意見で申し訳ありませんが、オーストラリア・カナダの大学では、こんな下世話な会話を聞いたことがありません。大体、みんな何かについて議論をしています。そんなに、机をバンバンたたくほどの議論ではありませんが、それぞれの意見を主張しあっています。その議論の中で、題材に関連するウィットに富んだユーモアを発揮することは多くありますが、バカ話エロ話はありませんね。

ラッキーなことに、私は多感な18歳〜24歳をオーストラリアで過ごしたおかげで、そのような外国流のコミュニケーションが非常に心地良いと感じるようになってしまいました。今、弁当を食べる際に繰り広げられるコミュニケーションには入っていけないのです。それぞれが、楽しんでいるからそれはそれで良いのですが、やはり、私自身がいかに楽しむか?ということを考えると、今のままでは良くありません。

それにしてもこれほどにまでコミュニケーションスタイルが違うと、その人達の知的レベルを疑ってしまったりします。危険な徴候です。

まじめな人が損する国、日本。結構、住みにくいところですね。

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2002年08月23日(金)

単純な生き物

涼しい日が続きますね。関西はこれで連続4日間、低温日が続いています。このまま、そっと秋に移っていって欲しいのですが、また、暑い日が戻ってきそうです。

今日はほんのちょびっとですが、夏休み中のバイト代の入金がありました。久しぶりの肉体労働の結果のお金で、なんだかうれしかったです。この調子で、レギュラーのバイトも頑張ろうと思ってるのですが、面接した2つの会社からは、いまだに連絡がありません。ん〜、嫌な予感。

これほど、バイト先を見つけるのに苦労したことは今までありません。ことごとく落ちています。やはり、店長さんは若い女の子のほうに目が行くのでしょう。どれだけ、条件をフルフルで満たしていても採用されないのですから...

このところ、学校が始まったせいか、テンションが少し高めです。周りの人間にそのことを言うと、「え〜、うっそ〜」という反応が返ってくるので、客観的にはそれほどテンションは上がっているように見えないようです。しかし、問題は私自身の気持ちの問題ですから、このままのテンションを維持して、今まで以上にテンションを上げていこうと思っています。

テンションを上げる一つの手段として、「女のことしゃべる、遊ぶ。」を心がけています。やはり、男心をくすぐるのは女の子なのでしょうか。男同士で話していても、エロ話をしているか、黙っているかですから、テンションの上がりようもありません。女の子と話している方が、なんとなくテンションはあがりますね。むろん、私が女性を好きだということもあるでしょう(世のほとんどの男がそうだと思いますが...)、しかし、それ以上にやはり女性にはテンションを上げる華やかさがありますよね。

恋愛に発展するかどうかは、私の気にするところではありません。そんなことを意識し始めると、楽しさ半減です。色々と気を使い始めるのは嫌ですしね。最近は、自然な付き合いから徐々に恋愛に発展していけばいいんじゃないのかなと思うようになりました。「付き合ってください。」ってのもなんだか交際のルールをがっちりとマニュアル化した感じが拭えませんし。

恋愛に発展すればしたでいいのですが、それ以前に、私が一緒に居てテンションの上がる女の子と友達としていいお付き合いができることが私自身にとっては大事なことです。

なんて単純な生き物なのでしょう。

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2002年08月22日(木)

テスト嫌い

お昼はいつも学校に出入りしている仕出し業者の弁当を500円で買って食べているのですが、今は私の在籍する言語聴覚科以外はまだ夏休み中ということもあり、外に弁当を買いに行っています。学校は梅田のスカイビルの近くにありますが、昼休みになるとそのスカイビルに入っている企業で働く人達向けに、多くの弁当業者が簡易で露天を開きます。夏休みの間だけというつもりで、その露天の弁当を買うようになったのですが、これが安いのです。弁当+お茶で、昼休み終了直前に行くと300円で買えてしまいます。学校の弁当なんて、これからバカらしくて買えませんね。

音響学の集中講義は一応、今日で終了です。集中講義はこれから「言語学」「音声学」と続きますが、「音響学」は終わりなので、テストがありました。夏休み終了後三日目にしてテストということで、非常に気分的にはブルーでした。何よりもテストとという言葉が嫌いです。テストというのはどうしてもその場限りのやっつけ暗記になってしまうので、本当の意味での理解力が試されている気がしませんし、受ける私達もテストが終わったら、はい終了。という感じになってしまい、良くありません。もっと、知的好奇心をくすぐる評価方法は無いものなのでしょうか?

テスト中心の評価法はどうしても、生徒を受身にさせてしまいます。先生が授業で言っていることを一つ残らずノートに書き記し、試験前になると「範囲はどこですか?」「これは出ますか?」という小手先のテスト用の勉強になってしまいがちです。試験前に繰り広げられる、こういったテスト準備期間の周りの行動は、正直いってゲンナリします。普段のちょっとした努力で、大部分は解決できるような問題ばかりです。努力というのもちょっと変なニュアンスですね。自分の意思でやりたいことをやっているのだから、努力という感覚はないはずです。

普段からの興味の持ち方。それだけで、勉強の効率もかなり変わるはずです。

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2002年08月21日(水)


一人暮し12年にピリオドを打ち、現在、父親と二人暮らしになったことは以前にも書きました。夏休みの頭から、この父親との二人暮しが始まりました。私が、夏休み中は、私が寝ている間に父親は出勤していましたが、私が通学を再開するようになってからは、私の方が微妙に早く家を出ます。

ここで大きな問題が発生しました。父親は朝風呂が好きで、結構、時間をかけて風呂に入ります。その父親の入浴時間が、ちょうど私の朝のシャワータイムと重なるのです。今日の朝が、それに気付いた朝でしたが、私はベッドの中で遠くの方で聞こえる水の音を聞きながら「ヤバイ」と感じていました。一人暮しになれきった私は、このような事態をまったく想定していなかったのです。

これは戦争と言っても過言ではないでしょう。朝のトイレ、朝の風呂、朝の洗面台... 戦場は約3ヶ所。そして、その狭い三角形の地帯をニアミスしながら、朝の忙しい時間を過ごすのです。ん〜、家族で暮らすとはなんと危険なことなのだ。と改めて思いつつも、朝から生身の人間に向かって「おはよう」と声を出したり、戦場をくぐりに抜けて「行ってきます。」と言える幸せを感じているのです。父親の存在自体には、なんか面倒臭い感じが無いわけではありませんが...

月曜から始まった、集中講義では「音響学」をやっています。私達、言語に携わろうとしている人間にとって「音響学」は非常に大事な科目です。なぜなら、ことばの基本は音だからです。どのように、音が生成され、どのように音が伝わるかという概念は、基礎知識の中の基礎知識であるべきなのです。

人間が発する音というのは(他の動物も恐らく同じだと思います。)、とても複雑な過程を経て音として発声されます。まず、肺から空気が気管を通じて押し出されます。その途中で、声門を通過し声帯を震わせたり(有声音)、声帯以外の部分を狭めることにより空気に振動を与えます(無声音)。例えば、「あ〜」と言いながら喉を触ってみると声帯が震えているのが感じられます。また、「ふ〜」と唇をすぼめて空気だけをため息を付くように出すと、空気が擦れる音がします。

生成された音は、音波として空気中を伝わります。知っていますか?海などで見られる波は「横波」で、空気中を伝わる音波は「縦波」なのです。横波とは、まさに「〜」です。縦波は表現しにくいのですが、ミミズが這っている姿を思い出してください。バネのように延びたり縮んだりするようにして、密度の濃いところと薄いところが交互に前に進んでいくような波なのです。

こうした、人間の生理学的な側面からの「音」、そして、物理学的な側面からの「音」のルールをこの集中講義でやっています。こうした科学的な側面からの言語リハビリというのが必要だということを先生がおっしゃっていましたが、まさに、私が常日頃思っていることだったので、とても興味を持って授業を聞くことが出来ています。


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2002年08月20日(火)

環境要因

久しぶりの学校は、思ったよりも早く終わりました。今日、2週間にわたる集中講義が始まりました。音響学、言語学、音声学を勉強します。すべて同じ先生が教えてくれるのですが、「すごくおもしろい先生です。」と言われていたので期待していました。しかし、期待は裏切られました。毒舌を吐く割には、教え方、説明の仕方がわかりにくく、生徒の意欲を上げる授業ができる先生ではありませんでした。

私が行っている専門学校では、外部から呼ばれた先生は一コマ10万円のギャラをもらっているとのうわさを聞きましたが、割にあいませんね。予備校の先生はもっとシビアに生徒に評価されているのではないでしょうか?まあ、先生の人格や、教授としての質を否定しているのではなく、教育する人間として、生徒の気持ちや状況を想定した教え方ができていないと感じるだけなのですけれども...

学校が終わってから、タダ券をもらったので、グリーンスタジアム神戸にオリックスVS日本ハムを見に行きました。そう、かなりマニアックな試合です。観客はまばらで、試合内容もしまりの無いものでタダ券でなければ決して行きません。どうしてオリックスはここまで来てしまったのでしょうか?球団の体質もそうですが、選手のやる気、それを出す立場にいる首脳陣。すべてに問題がありそうです。

選手一人一人のやる気が、最終的に上がれば、すべてがうまく行くのでしょう。でも、選手を取り巻く環境が、そのような気持ちを生まないものなのかもしれません。周りの環境だけのせいにするのは極端ですが、気付かないところで影響されているのは確かなようです。球団の状況、そして、学校の授業内容、重ねてみると意外と似たような感じです。何とか、環境を十分に利用し自分の能力を発展させるためには、環境に左右されない強い意思を持ちたいものです。例えば、イチローみたいな...

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2001年08月19日(日) 楽しいかい?
2002年08月19日(月)

きっかけ

関西は久しぶりに雨が降りました。気温が下がれば良かったのですが、期待ははずれてムシムシ。まだ、少し風があったのが救いです。降るならもっと思いきって降ればいいのに... と愚痴を言いながら帰ってきました。

今日は、朝から学校へ行きました。授業ではなく、学校説明会のアシスタントとしてです。仕事自体は誰でもできるものでしたので、まったく楽しくはなかったのですが、他の学部の人達と交流できたのは面白かったです。医療秘書、視能訓練、作業療法士、看護とそれぞれの人達の志を少しとはいえ、聞けたことは非常に良い刺激になりました。

このところ、私のテーマとなっている心の「熱さ」。なかなか自分の力だけでは着火しませんでしたが、今まで興味を持たなかった分野に、自分の意思ではないにしろ、飛び込むことによって、まるで炭にほのかに見える赤い部分からじわじわと燃えるような感じで「熱く」なりつつあります。

今日で夏休みも終わり。明日から授業が始まります。このほのかな「熱さ」をキープして、より「熱い」ものにしていきたいですね。

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2002年08月18日(日)

針金細工

今日は、引越し時に面倒くさくて放っておいた荷物を解いて、捨てるものと置くものを選別し、整理をしました。面倒くさくて放っておいたくらいのものですから、大したことないのですが、やはり、普段は使わない昔の写真や手紙などが出てきて、懐かしい気持ちになりました。引越すたびに昔を思い出します。整理したついでにパソコン周りも少しデコレート。趣味悪いですけど...



午後から、学校の友人と神戸を散策。北野周辺を歩き回りました。女の子のアクセサリーショップ周りにはちょっと閉口しましたが、良く見るとかわいいアクセサリーもありました。女性が「かわいい」という感覚と、男性が「格好いい」という感覚のズレが、昔は気になりましたが、最近は、女性の「かわいい」の感覚が分かってきました。好みのものを見つけると「かわいいやん。」というのが口癖です。

これから始めようと思っていることの一つに、「ワイヤークラフト」があります。日本語で言うと、「針金細工」ですね。今から10年前に一度自己流でトライしたことがあったのですが、しばらくやって忘れてしまっていました。是非、再度、しっかりとした基礎を身につけて、知り合いのお花屋さんで販売できたらなあと考えています。それと、針金細工をリハビリの道具として使えないかなとも思っています。

物を買うよりも、やっぱり創ってみたいですね。自分の分身をこの世にいっぱい生み出して、生きてる証を表したいなと思っています。自分自身の何かが変わることも少し期待しながら...

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2002年08月17日(土)

熱中する

今日は、東京で働いていた会社で一緒だった女の子の親戚がメンバーでいる、インディーズのバンドのライブを聴きに行ってきました。これまで、コテコテのインディーズロックバンドのライブハウスなど行ったことがありませんでした。今日が初めての体験でした。

神戸のアートハウスというライブハウスです。小さなオフィスで、入場料を払い、薄暗い階段を上っていくと、チケットのもぎりの姉ちゃんが小さなスポットライトだけが照らされている小さな机に座って、ハリーポッターを読んでいました。そこで、チケットと交換に、左手の甲にスタンプを押してもらい、入場です。

バンド名は、「ザ・マス・ミサイル」というロックバンドです。[ホームページ]雰囲気としてはブルーハーツとか、ハイローズです。シンプルな音楽に乗せて、シンプルな感情を歌い上げていました。メロディーも意外としっかりしていて、昔懐かしいフォーク調のメロディーでした。何よりも、詞が非常にシンプルだけど心に響く詞で、忘れていた「熱さ」を思い出すような音楽でした。

「熱い」気持ちって大事なことですね。何かに夢中になりたい。何かに熱中したい。そんな気持ちにさせてくれたライブでした。目の前の事に熱中することができれば、他人の目や社会の基準に惑わされないのでしょう。

熱く生きることにします。

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2001年08月16日(木) 無精ですまん
2002年08月16日(金)

夏休み

近くの公園を散歩して、小高い丘の上にある神社に行ってきました。特に理由はありません。ただ、歩いてみたかっただけです。



公園では人間様が座るベンチの上で、ネコが堂々と寝ていました。アスファルトの上を歩いている時は、非常に暑かったのですが、公園に入り土の上を歩くと、やっぱりちょっと涼しいかったです。そして、木陰に入るとそよ風が気持ちいいのです。最近、話題のヒートアイランド現象を体感しました。土を踏んだのも久しぶりかもしれません。

今年は海にも山にも行っていません。都会の喧騒の中に身をゆだねていると、時間の流れがとても速く感じます。今日は、小さな公園でしたが、ゆっくりとした時間の流れを感じました。

良い夏休みをお過ごしですか?

過去の今日
2002年08月14日(水)

ボランティア再考

掲示板で少し盛り上がった「ボランティア」の話を再度、考えてみました。

私が危惧していることの本質は、「ボランティア」という言葉が、本来あるべきボランティアの概念とは違うことを表現しつつあり、それに気づかず、「ボランティア」という言葉を使って、あたかも自分が「奉仕」していると思っている人達が増えているのではないか?ということなのです。

まず、本当に純粋に心の奥底から無報酬で人の役に立ちたいと思っている人のやることはすべてボランティアですよね。これには皆さん意義はないと思います。しかし、このような事柄の中には「ボランティア」と命名されていない活動が、意外と多くあり、そして、それらの多くは無視されているような気がするんです。

ところが、それとは対照的に、「ボランティア」と命名された奉仕活動をしていれば、行為の中身や、その際の心理的な本質を無視し自動的にそれがボランティア活動だと捉えられてしまう節があるような気がするのです。「節」がです。体よく用意された「ボランティア」という言葉になんとなく自分の行為を当てはめて安心しているような、そんな感じです。

簡単に言うと、ボランティアという言葉と、それに対応する本来的な行為や心にちょっと変なズレあるように感じるのです。

このように感じるには訳があります。

今、これだけボランティアが世に広まったにも関わらず、巷では以前にも増して、人々の「モラルの低下」が叫ばれているのです。実際に、モラルって何だ?と思わせるくらい、今の世の中は道徳的な基準があいまいです。この「ボランティアの生興」と、「モラルの低下」という矛盾の本質は一体何か?

それは、「ボランティア」という枠組みの中でしか、活動ができない人が多いということを示していて、「ボランティア」という枠組みを外れたら、もう、他人のためなんて意識は無くなるってのが、最近の傾向なのではないか?そう思うのです。道端で、タバコのポイ捨てする人が、ボランティアをしている人になれるし、優先座席で何食わぬ顔して座っている人が、ボランティアをしている人になれるのです。「ボランティア」という冠さえかぶれば、みんながすばらしい!なんて言うことがまかり通る社会になんだか不安を覚えるのです。

人の心がわかる心を教養という。

ボランティアなんてことにこだわらず、人の役に立つことを考えればいいのです。そうそう、言葉がなければ概念も生まれない。概念が無ければ意識が生まれない。私は、人々の意識の迷いに「言葉」の迷いを感じるのです。言葉が無意識になる瞬間が一番危ないと思うのです。

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2002年08月13日(火)

刺激

蘭というお花の種類をご存知ですか?蘭にも色々な種類がありますが、一般的に外国の品種を洋蘭、日本の物を東洋蘭または和蘭と呼ぶそうです。その和蘭の中の、「ふうらん」という蘭に非常に興味を持っています。何が興味を持たせるのかわかりませんが、その風情がなんとも言えず「いい感じ」なのです。

ここ2,3日、家から出ることも少なく、日記のネタさえない状態です。テレビを見ても、思考は止まる一方です。昨日、買ってきた言語に関する本も、読んでは休み読んでは休みで、なかなか前に進みません。頭に入らない読書は単なる拷問ですね。こうやっていると、心は焦るばかりです。

先日の日記にも書いた「Constant commitment brings you constant reward that makes you a constant happy man.」と書いた紙を部屋の中に貼って、気持ちを鼓舞しようと躍起になっています。今日も、アルバイトの面接の予約を2件入れました。実は昨日もアルバイトの面接に行ってきました。こうして、Commitはしているのですが、なかなかRewardが思い通りになりません。そして、結果、Happy manではないのです。

心が焦ると書きましたが、焦るというのは心の「安定」が得られていない状態ということになります。学校に行っているときは、学校に行くこと、授業を聞くこと、帰って来てそれを思い出すこと、友人と話すことで、「不安」の入る余地はありません。しかし、これらはすべて外側からの刺激であって、私自身の中から湧き出すような刺激がまるでありません。だから、夏休みに入り外からの刺激がなくなったとたんに、心は不安になり、そして、焦りになるのです。

外に刺激を求めるのではなく、自身の内側から湧き出すような刺激を積極的に求めていく必要があるようです。

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2002年08月12日(月)

ボランティア

お昼から知り合いのお花屋さんのお手伝いをしてきました。とくに決まったお給料をいただいているわけではないので、これも「ボランティア」と呼ぶのでしょうか?私は、巷で言われるチープな「ボランティア」という、押しつけがましい概念に違和感を感じます。

私は、純粋にお花屋さんのために自分の能力を活かしてお手伝いをしたいと思っています。また、それにより何らかの報酬が得られるならば、是非、頂きたいと考えています。ただし、それが無理ならば仕方がないし、だからといって手伝いをやめるわけでもありません。その動機は、オーナーの人柄であるし、良いお店をもっと多くの人に知ってもらいたいという気持ちでもあるし、自分ができなかったことを実行しているオーナーへの羨望でもあります。

「手伝わなければいけない。」という気持ちは一切ありません。また、何のために、どんな風に役に立てるというビジョンを持って手伝いをしています。

和製英語的な「ボランティア」という概念に胡散臭い「偽善性」を感じるのは私だけでしょうか?なんだかアルバイトと同じ感覚で使われる「ボランティア」という概念に非常に違和感を感じるのは私だけでしょうか?大体、ボランティアの募集に応募して、一体それが「ボランティア=自発的に奉仕する人」なのでしょうか?

ボランティアという言葉がダメだと言っているのではなく、その言葉を使っているだけでなんとなく自分が良いことをしているのだと勘違いする人が多いことに、なんだか違和感を感じるのです。また、それが客観的に評価の対象にしたり、公共宣伝の対象になったりすることも変な話です。大体、「ちょボラ」って何ですか?こういった、道徳性を型枠にはめられて押しつけられても平気な人達が多いことに危機感を感じます。大体、Volunteerをちゃんと英和辞典で調べたことがありますか?本来、Volunteerには国に命をかける人達のことを言いました。

自発的に手伝わせて欲しいなという事柄に対してのみ、自発的に対応していくべきだと思います。ボランティア活動とは、決して学びの場ではないのです。いてもたってもいられない人が、「お願いだから手伝わせてください!」というのが本当の「ボランティア=自発的に奉仕する人」だと考えます。それはとりもなおさず、個人の道徳性(宗教性でも良い)であるし、人格であるし、教育であるわけです。そいうった根本を無視し、「ボランティア」をすることはなんだか良くて大切で良い経験になるなんて軽薄な概念を振りかざす人々を私は信用しません。

本当に思い入れの無い、心の入っていないボランティアは、校則違反した生徒が道端の掃除をさせられているようなものです。

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2002年08月10日(土)


今まできつかったジーンズのウェスト、太ももが今日はすっきりと入りました。

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2002年08月09日(金)

リズム

今日はアルバイトでした。短期バイトを紹介してくれる派遣会社におととい登録したところです。早速、仕事を依頼し、朝から働いてきました。久しぶりの労働は、どちらかというと肉体労働でした。軽作業ではありますが、これを一日中行うとかなり疲労します。財布を100回上げ下げするようなものです。普段は何とも無い動作が、非常につらくなります。ま、私の財布の場合は、100回以上行くでしょうけれど。

主にダンボールの箱作りをしていました。冷房の無い倉庫での作業なので、汗がダンボールの上にポタポタと落ちます。だんだんと薄れ行く意識の中で、ふと「リズム」ということが生活において非常に大事なものだということを再認識しました。

昨日、「型」にはまることで人間の能力は思った以上に発揮できるということを、職人の例をあげて書きましたが、まさに、職人技を見ているとその所作には「リズム」があるのです。あえて、「所作」という言葉を使ったのは、職人さんの仕事は作業ではないからです。作業と所作の違いは「リズム」なのではないか?と思ったのです。

初めての仕事ですから、ダンボール一つ作るのも、最初は段取りがわからず時間がかかります。しかし、時間が経つにつれ、ダンボールを作るスピードが落ち着いてきます。そして、最後には、あまり考えなくても勝手に手が動き始めるのです。この勝手に手が動き始める瞬間、私の作業は少し所作に近づいたのです。リズムが出てくるのです。細かいところでリズムが大事な役割を果たします。ガムテープを持ちかえるタイミング、ダンボールを折るタイミング、それらすべてがリズムを成すのです。

私は、ことばのリハビリ士を目指しています。ことば、特に話しことばにおけるリズムの重要性は、実は皆さんが考えている以上のものです。書き言葉で、このリズムの重要性を説明するのは難しいのですが、これを試してください。

通常:「わたしは、あついなつがきらいです。」
リズム障害:「わーたっし、はあつーいっなー、つっ、がきーらー、い。」

これを音声にしてみること自体が、非常に難しいと思います。どんな感じの話し方になるのかお見せできないのが残念ですが、なんとなくお分かりいただけますか?このようなリズムの障害は「プロソディー障害」と呼ばれています。

日常の中で、物事をうまくスムーズに行うために「リズム」というのは非常に重要な役割を果たしているのです。簡単に考えがちな「リズム」。今やっている仕事のリズム、勉強のリズム、会話のレベル、見ているテレビで流れているCMのリズム、車が走る音のリズム... あらためて、耳を体を目を澄まして感じてください。さまざまなリズムの調和が、自然の奏でるリズムなのです。そして、私達人間の体もリズムそのものなのです。

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2002年08月08日(木)

頭の模様替え

軽く自分の部屋を模様替えしてみました。ちょっとした気分転換みたいなもので、これをきっかけにテンションがあげればと思ったのです。で、結果はとても良かったです。家具のレイアウトはほんの少ししか変えませんでしたが、学校のプリントの整理など細かいものを「捨てる」「まとめる」「見なおす」ということを徹底的に行いました。

昔から、「掃除」「片付け」というは、環境を清潔にしておく、物を整理しておくといった直接的な目的以外に、心の中の清潔さや整理といった面にも大きく作用してきたのだろうと思います。散らかった机の上で、整理された思考はできないだろうし、新しい発想も生まれないでしょう。

以前、私が居た会社の社長、そして、私自身の机の上が一番二番を競うほど散らかっていたことがありました。お互いに、「これが自分にとっては一番分かりやすいんだ。」なんて言っていましたが、今になって考えてみると私はただ追われるように仕事をし、社長も事業に対する戦略を追われるように作っていました。

仕事忙しさや拘束時間の長さで、充実した仕事をしていると感じていましたが、実はまったく新しい物を創造していなかったのです。

体で感じる快適さ、見た目で感じる清潔さ、すべては脳にて感じるわけです。その感覚が、さまざまな思考の回路にも影響を与えるのです。何気ない日常の行為が、メンタルな部分に思っている以上に作用しているのです。

たまには部屋を整理して、頭を整理するきっかけを作るのも必要なことでしょう。

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2002年08月07日(水)


ドトールでお茶してる際に、こんな言葉を思いつきました。

Constant commitment prompts constant rewards that make you a happy man.

「コンスタントに何かに対して働きかけていれば、コンスタントに何か得るものがある。そして、その得たものはあなたを楽しい人間にしてくれる。」そんな意味です。

今、自分の人生におけるテンションをあげる方法を常に考えています。恐らく、瞬間的にテンションをあげる方法はすぐに見つかるでしょう。しかし、高い位置でそれを持続し、人生におけるテンションを高くするには、自分にとって高いと思われるテンションを通常のテンションにしなければいけません。それには、瞬間的なテンションをあげる方法では、息切れしてしまいます。

何か良い方法はないかなと考えているうちに、上記の文章を思いつきました。なぜ、英語なのかはよくわかりません。恐らく、私にとって英語の文法の方が、心に響くと感じたからでしょう。

「コンスタント」というのが、キーワードとなります。「常時」何かに対してコミットしていることが大事なのです。以前の日記(020526)にも書いた「本気」であるための条件にも、このコンスタントであることの要素を書きました。気持ちの常時性というのが、精神力の中核をなすのではないかと思います。そして、この常時性が、今は高く見えるレベルも、普通のレベルにしてしまう大事なトリックの一つなのです。

習うより、慣れよ。

この先人の言葉が、単なる詰め込み学習を奨励する言葉として悪用されていましたが、実は、この「慣れる」という常時性が、あなたの能力を引き出してくれるという意味なのではないかと最近ようやく実感できるようになりました。まさに、職人さんがそうです。レベルの高い低いの意識レベルを飛び越えた「型」を身につけること。これが、すべての基本ではないのかと思うのです。

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2002年08月06日(火)

妥協について

今日は家でボーっとしていました。一人で一日過ごすのは、寂しいですね。一人で何もせず一日家に居ると、テンションが上がるはずもありません。今日は一日ローテンションで、何かしようという気になりませんでした。

今、たまにですが漫画喫茶に通っています。目的は白土三平の「カムイ伝」です。まだ、読み始めて3巻ですが、すでにその漫画のもつ世界に引きこまれています。全部で何巻あるかは覚えていませんが、加えて「カムイ外伝」というシリーズもありますから、いつになったら読み終わるのでしょうね。

バイトの話です。とりあえず、短期の軽作業バイトを紹介してくれる会社に登録しました。仕事の質より今のお金を取ることにしました。今後、長く続けられる、自分にとって質の良いバイトを探すには一番良いオプションかなと思い登録しました。

最終的な目標や決断を妥協するのはいけません。しかし、最終的な目標に向かう、また、決断を下すまでの準備において妥協することは大事なことです。マラソンで走るときも、ゴールは一つです。ただし、そこに行きつくまでにどのような走り方をするかは、それぞれが状況を判断しながら臨機応変に変えていきます。体調や気候と妥協するわけです。

ただし、ゴールは妥協できません。ゴールを妥協するということは、走る意味さえなくなってしまい、目的を達成できないということにつながります。妥協とは決して信念を曲げるということではなく、物事の本質を捉えるための過程を効率よくするための人間の知恵なのです。

走ることが好きな人は走っているだけで妥協していないので、それはそれでうらやましいことです。生きていることだけで嬉しいと感じられる世の中に生きていない私達は、ある意味、生まれながらにして不幸なのかもしれません。


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2002年08月05日(月)

労働爽快

少しだけサイト内を改造しました。いつも改造しながら思うのですが、「欲張りすぎは禁物」ですね。サイトをゆっくり眺めてみると、なんだか色々と文章のカテゴリがあって自分でも混乱してしまいました。何事においても、等身大を基準にしないと疎かになる部分が出てくるようです。

バイト探しは、このところ小休止状態です。4月から面接にだけはたくさん行っていますが、採用されなかったり、自分から断ったり、定まりません。選べる立場にいないはずなのですが、とても選んでいます。やはり、面接の人、働く場所の雰囲気をしっかり見てみると、バイトとは言えどこでも良いというわけには行きません。

そのような訳で、本日は午前中から知り合いのお花屋さんのお手伝いをしてきました。大した仕事はしていませんが、久しぶりに働いた感触が非常に心地良く感じたのです。「働きたい。」素直にそう思いました。

先日も日記に書きましたが、「夢中」というのが良い仕事の条件だと思います。でも、その前に「夢中」になるための条件はこれだというのがありました。それは、「働きたい。」という意欲です。何がしたいとかではなく、ともかく、「働きたい。」という気持ちです。そこに、褒賞があろうがなかろうが関係無く、ただ、労働したいと思う気持ちなのです。

この4ヶ月間の学生生活の中で欠けていたものとは、実はこの働くということから得られる爽快感だったのではないかと思うのです。もちろん、学生として勉強して一人前の言語聴覚士になることは、将来的によりよい爽快感を得られるためにしているわけです。しかし、やはり常に労働というものが日常のどこかに無いと、この社会で生きているという実感がわかないのです。働くということは、社会に対して働きかけることでもあるのですね。

さて、納得の行くバイトが見つかるかどうか?それまでは、お花屋さんで労働ごっこでもしておきます。そうでないと、本当に孤独ですから。



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2002年08月04日(日)

夢中になる

昨日と今日で、一気に私がホームページ作製のお手伝いしている「wood fragrance」さんのサイトリニューアルを行いました。非常に良い出来なので、また、お時間があればごらんいただければと思います。ご感想・ご指摘などいただけると幸いです。

先ほど、日付も変わった夜中の12時半くらいにサイトをアップロードして思いました。人が夢中になると寝食を忘れてしまうってすごいことだなと。今日も、夕方からテレビで阪神-ヤクルト戦を流しながら作業していたのですが、気がついたら終わっていました。でも、試合は4時間以上もやっていたのです。私は、「あっ」という間にしか感じませんでした。

好きなことを仕事にできたらどんなに良いだろうと良く言いますが、「好きなこと」って何だろうって考えると、意外と曖昧なのですね。仕事というのは好きな「物」「事」ではなくて、「物」「事」を生み出す過程なのではないでしょうか。その過程の先には、「○○さんのために...」「この地域の人のために...」「国民のために...」「人類のために...」「いやいや、自分の利益のために...」などのように誰かを喜ばすためのターゲットがあるのです。

私が、何時間もかけてお花屋さんのサイトをリニューアルするわけは、以下の4つのターゲットがあるのです。

1)「オーナー(私がお世話になった元上司)に喜んでもらいたい。」
2)「ホームページによって売上に貢献したい。」
3)「ホームページを見る顧客に良い店を知ってもらいたい。」
4)「上記のようなことができる自分が格好いい。」

夢中になるのは、ホームページを作ることが好きなのではなくて、それを作ることによって得られる目標があるからなのです。こんな風に、夢中になれる仕事がしたいですね。このことは、もう一つあることを考えさせてくれます。仕事が好きか嫌いかではなく、その仕事の先に夢中になれる何かを見出せるかどうかが、本質的な問題であるということです。

夢中になる仕事、それは自分で探し出すものなのですね。

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2002年08月03日(土)

老人と

このところ、祖母やその妹さんと一緒に食事に行ったり、お茶を飲んだりする時間が多くなりました。70歳を越えた白髪姉妹と共に時間を過ごしていると、不思議に楽しく時間が過ごせます。

自分が医療福祉関係を志すようになったからなのかどうかは、良く分かりません。ただ、これまでになく「人の話を最後まで良く聴かなければならない。」という事と、「老人の二人が分かる話し方をする。」という2つのことを心がけるようになりました。

まず、老人は話す速度が遅いです。それと、経験を基にしているからでしょうか、物事を断定して話します。また、説明も言葉足らずになることも多々あります。やはり、以前に比べると単語の記憶力が落ちているからかもしれません。このような老人に対してじっくり聴くという態度を取るのは、そう簡単ではありません。ちなみに私の父は、私の祖母とまるで思春期の親子のような言い争いを日常茶飯事で行っています。お互いに歳を取ってしまったのかもしれません。

また、私達の普段のしゃべりの中には意外と横文字や、現代的な言葉の定義付けが多く使われています。その言葉の微妙な違いは、会話の前提となる部分さえ変えてしまい、慣れない人は途中で会話すること自体が億劫になってしまうかもしれません。私の父が、祖母に話し掛けるときも、このようなちぐはぐな会話を良く耳にします。

しかし、何もこれは老人に限ったことではないのです。親しいと思っている友達だって、実はどこかで、「なんだか本当に分かり合った気がしない。」なんて事はありえるのです。それは、何が原因か?恐らく、お互いがお互いの言葉の背景を読み取る努力が足りない可能性があるのでしょう。前にも書きましたが、「人の心がわかる心を教養という。」という言葉、非常に実感させられます。

老人との会話。それは、私が自分の教養を肌で感じられる瞬間でもあり、そして、それを磨くトレーニングの場でもあるのです。

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2002年08月01日(木)

日記 / issy