思考過多の記録
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2014年02月13日(木) |
ネット上で政治・社会的問題について語ることについて |
2014年初めての「思考過多の記録」である。随分と放置してしまったが、僕はまだ生きている(笑) この「思考過多の記録」を書き始めて間もなく13年半が経とうとしている。当初は自分の文章を発信する場がここしかなく、割とこまめに更新していたものだが、途中から別のブログを始めたことや、仕事が忙しくなったりしたことで、なかなか更新できなくなった。だからといって、やめてしまおうという踏ん切りもつかない。要するに、優柔不断なのである。 アクセス解析を見ると、今でも定期的にアクセスして下さる方がいらっしゃるようだし、過去に僕が書いた文章をGoogleのキーワード検索で見つけて読んで下さる方もいらっしゃるようである。それを考えると、如何に読者が少なくても、続けられる限りは続けていこうとも思う。
以前は、ここでも社会問題や政治的な問題についていろいろ書いていた。enpituにおけるカテゴリーは「生活」「日常」なので、そぐわないといえばそうかも知れないが、僕にとってはそういったことも「日常」や「生活」のうちだった。書き始めた頃は、ブログよりもこういった日記サイトが主流で、個人的な意見や政治的信条をここで書いても、そう違和感はなかった。当時から僕の意見や思想はある場所から見れば偏っていて、時には批判的なコメントもついた。が、その頃は今とは世の中の雰囲気も違っていたので、僕の意見はそれ程極端なものとして受け取られてはいなかったと思う。 (そもそもアクセス数がかなり少ないということもあるだろうが。)
しかし、時代は変わった。世の中の雰囲気が、僕がここで書き始めた頃とは明らかに違う。ネット環境が変わり、ブログの他にTwitterが登場したことも大きい。Twitterは、基本的に「言いっ放し」のメディアだ。しかも、140文字というごく限られた長さの文しか投稿できない。じっくり考えて、というより、反射神経的に思い付いたことをすぐに書き込むことになる。いきおい、表現が乱暴で、どぎつくなる。 僕はTwitterに登録していないため、実際のTwitter上の遣り取りは見ていない。が、時々マスメディアやネットに配信されるニュース記事で報道されるつぶやきはいくつも目にしている。また、Twitter的な言葉の特徴が垣間見られるのが、僕が登録しているmixiの「つぶやき」機能である。こちらは150文字までと少しだけ長いが、基本的な機能はTwitterと同じと考えていい。単独でもつぶやけるが、「mixiニュース」というmixi上にアップされたニュース記事に対してつぶやける機能もある。これを読んでいると、いつも僕は嫌な気分になってくるのだ。 ひと言で言えば、皆とにかく口汚い。偏見や差別、知識不足に基づいた断定的な表現。決して面と向かっては言えないであろう激烈な批判の表現。いとも簡単に「死ね」「死刑でいい」などと書く。読んだ当事者や意見の違う人間がどう思おうと関係ないといわんばかりの「捨て台詞」のようだ。 これには、以前から言われているように、ネットの匿名性が大きく関係していると思われる。また、文字面だけで判断しなければならないネットの世界では、リアルな会話と違って微妙なニュアンスが伝わりにくいこともある。それに加えて、今は自分と違う意見、もっと言えば、世の中やネットの世界を覆っている「空気」と違う意見に対しての寛容性が失われているということもあるだろう。大勢と同じ意見の側に立っていれば、そこは「安全地帯」で、それと反対側の意見に対してどんな酷い言葉を投げつけようと許される、という暗黙のルールができている。自分の後ろに大勢の「味方」がいると思えば、何を言っても大勢から攻撃されることはないので、怖いものなし、というわけだ。 Twitterは、こうした今の風潮とメンタリティにぴったりのメディアというわけである。 (勿論僕は、Twitterの全てを否定するわけではない。災害時の情報伝達手段としても、手軽な情報共有や発信の手段としても、Twitterは優れていると思う。)
日本には言論の自由や思想・信条の自由がある。だが、今述べたように、大勢と違う意見については、表明することに大きな決断と勇気がいるというが実態だ。特にネット上でネットの住人の大多数の怒りのスイッチを入れそうな話題や意見を述べるのは、かなりの意思の強さが求められる。発言はすぐに拡散し、そのことで「炎上」や「祭り」が引き起こされる。やっている方は、面白半分、「正義感」半分というところだろうか。余程自分をしっかり持っておかなくては、集中砲火には耐えられない。そこで、空気を読み、他人の顔色を窺いながら発言する方が利口だということになる。こうしたことはリアルの世界でもずっと昔からあったことだが、ネットという装置では、それが極端かつたくさんの人達によって行われ、ある意味リアルの世界より凄惨だ。 僕も以前は随分と尖った表現をしていたが、最近ではできるだけ穏便にまとめようという方向になっている。自分の考えを前面に出す時も、できるだけ反感を買わないように、恐る恐るという感じだ。
そもそも、日本では政治的な話題を日常会話でするという習慣がない。楽しい時間を過ごそうと思えば、普通は好きなタレントの話や恋バナ、身の回りの話等の当たり障りのない話題が主流である。それをぶっ飛ばしてネットで直接的にやろうというのだから、摩擦は避けられない。面と向かって話しても、政治や社会情勢の話は決して楽しいものではない。同じ考え方の人となら意気投合もできるかも知れないが、話してみて自分と真逆な考え方だったりすると、非常に気まずくなる。 だから僕は、mixiのような場では、あまり政治や社会情勢の話はしたくない。もともとはそうした話題が好きな方なのだが、せっかく仲良くなれたと思った人とも、うっかり口を滑らせると、関係に亀裂が入りかねないからだ。同じネットの中でも、閉じられたSNSの世界くらいは、Twitter的な罵詈雑言のないリラックスした遣り取りがしたい。心にゆとりを持ってPCに向かいたいのである。
これでも僕は随分と丸くなった。かつては、今ネット上に氾濫する言葉のように、誰に対しても刺々しい言葉の礫を投げていた。そうすることで、漸く自分が自分であることを確認していたのだ。それも今は昔である。やはり歳をとったということなのだろうか。まあ、年相応に僕も成熟したのだと思うことにしよう。 こんな調子だが、今年もこのマイペースな「思考過多の記録」にお付き合い下さるよう、お願い申し上げる次第である。
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